夜更け
こん、こん。
窓ガラス越しにも星空が見える。夕食も湯あみも終えて、使用人たちの足音も少ない。廊下を照らす蝋燭も半分以上が溶けた、夜九時過ぎである。
まだ起きているかな、お邪魔じゃないかな。
私ユリア・レッドフォードは、この家で最も重厚な扉の一つを、控えめにノックする。
「どうぞ。どうした?」
そっとドアを開けて中を覗く。ここは母親違いの兄セレスティン・レッドフォードの自室である。もっと詳しく言うと彼の部屋の中の書斎で、奥にマスターベッドルームとその専用のバスルームが作り付けてある。もちろん私はバスルームまで入ったことはありませんが。
兄はオットマンに足を投げ出してソファで寛いでいた。真新しく分厚い本を読んでいる。そういえば夕食のときに王都で流行りのミステリ小説が届いたとか嬉々として言っていたっけ。
けれど、それより何よりも。
「わ、お兄さま、それ新しい半羽織ですか?」
つい声が弾んでしまった。すごくかわいいです、実の兄ながら。
お兄さまが「ハンバ…?」と首を傾げたので、試しに「浴衣ですか?」と言い換えてみる。この世界では似たようなものだろう。
薄い灰色の浴衣の上に雪模様の入った黒地正絹の羽織を着ている。羽織には日本でいうところの女物の着物のように裾に白いウサギが足を閉じた丸っこい姿で描かれていて、一言でいうとかわいい。
お兄さまは栞をはさんで本を閉じ、サイドテーブルへ寄せる。
「ユカタ…という名前だったようなそうでないような。ユリアは言葉をよく知っているね。花火と一緒にキヨナガの家が送ってくれたんだ」
両方の袖をちょんとつまんで、全体の絵柄を見せてくれる。
「ほしかった? ユリアには大きそうだけど仕立て直そうか」
私はブンブン首を振る。
「いえ、お兄さまにお似合いなので」
「そう?」
頬を緩めたお兄さまにつられて私もヘラリと笑う。あぁ、しまった、本題を忘れちゃいけない。
促されてお兄さまの向かいのソファへ座る。
「それで、どうしたの? もうユリアは寝る時間だろう?」
「実は・・・」
私は昼間の湖での王子とのやり取りをお兄さまに打ち明け始めた。
***
打ち明けるといっても、例の睡眠薬疑惑の話をするわけじゃない。そのあとの話だ。
夏の終わりの日差しと、周囲の森から流れてくるそよ風。白鷺が魚を狙っている小島に行ったり、湖面を泳ぐ二匹の鴨をボートで追いかけたり、ひとしきり遊んだ後、砂浜にピクニックシートを広げ、おやつの時間になった。頃合いを見てゾフィーらメイドがやってきてくれて、お茶を準備してくれる。お兄さまとランドルフは少し向こうで釣りをしていたので、使用人の一人が声をかけに行って二人が戻ってくるまでに、私とアーサーはちゃっかりフルーツサンドをひとつずつ食べてしまっていた。そのサンドウィッチを食べている間の話だ。
「いいなぁアーサーは。ボートに乗るのも得意で、絵も得意で」
ぼやいた私に、生クリームとメロンをたっぷりはさんだサンドウィッチを頬張りながら、アーサーは笑った。
「ボートなんて練習したらすぐ乗れるようになるし、絵はまだ得意っていえるのかわからないよ。楽しいからやってるだけだ」
すいすいボートを漕いでいかれて本当にお上手ですよ、とメイドたちも持ち上げる。実際、アーサーは要領よく少ない力でうまくオールを動かしていたと思う。
ユリアさまはピアノがお得意じゃないですか、と言いながらゾフィーが横で水筒からカップに紅茶を注ぐ。香りの強いアールグレイだ。さらに小さなトングでレモンをひとかけ落とす。私はそっとそれに口をつける。
「ユリア、ピアノ弾けるのか? 聴かせろよ!」
アーサー王子は身を乗り出してくる。横からゾフィーが「セレスティンさまがヴァイオリンを、ユリアさまがピアノを弾くともうそこだけ別世界のようなんですよ」なんて持ち上げる。なんだかこういう扱いに慣れないので私はちょっと居心地が悪い。
「私、得意なのかなぁ、ピアノ。オルガ以外に弾いている人見たことがないからわかんないよ」
膝を抱えるようにして紅茶のカップをもつ。
正直何が得意なのか、私には何ができるのか、どうやってモブじゃないキャラになれるのか、まだ検討もつかない。外見は要望通りになったけど、たぶんこれだけじゃダメだ。何か、何かもう一味つけないと・・・!そして戦争モノ小説になるのだけは絶対回避しなくては・・・!セイリュウ国の内乱に戦闘民族シャンガーラ、誘拐事件、怖い危ない話になっていくフラグが微妙にたってきている。
「じゃあ、人と比べられる場所に行けばいいんじゃないか?」
アーサー王子の提案に、一同きょとんとする。
「王都のピアノコンクールに出てみたり、あとは同年代のやつが集まっているところに行ってみるとか」
「学校!そういえば、体験入学の案内状が来てたよね」
私は指をさしてゾフィーに向き直る。セレスティンさまとご相談ですね、とメイドたちは強く頷いてくれる。
学校の体験入学か。そういえば女子校や共学や、いろいろ来ていてお兄さまも迷っているみたいだったっけ。貴族の子女ばっかりなんだろうな、港町育ちの私なんて大丈夫なんだろうか。一人で行くのは少し心細いけど・・・
「ねぇ、アーサーもそのうち学校へ行くの?それともガヴァネスの授業があるから行かない?」
アーサーはサンドウィッチの最後の一口を大口で頬張って、うーん、と唸りながら寝そべってしまった。
「側近たちは学校反対派が多いんだよな。あいつら、代々王族は城で教育をうけるものだと思ってるし、これまではそうしてきたし。父上は迷っている感じかなぁ。オレが工作室にこもりがちなの、あんまりよく思っていないから。でもオレが見学に行ったり体験入学したりすると、それだけで大騒ぎになるだろ?説得材料がなくてさ」
あぁ、なるほど。
「そうだ!」
がばりと上体を起こして、アーサー・ヴァンハイムはニカッと真白な歯をみせて笑った。銀髪に日が透けて爽やか度が増している。
「ユリア、いくつか共学校を体験入学してきてよ。良いところがあったら教えて。オレも聞いた話をもとに説得して、来年から通うことにするからさ」
***
「・・・ということがあったんです。お兄さま」
上目づかいに兄を見上げる。なんだか無理難題を受け止めてしまったようでごめんなさい・・・!
お兄さまは穏やかな表情で話を聞いていて、一言「わかった」と頷いた。
「今はいろいろ問題もあるけど、なんとか行けるようにしよう。正直どうしようかと思っていたんだ。女子校の方が変な虫がつかなくて安全な気もするけど、身内で女子校通いしていたのなんて母上が最後で、最近の雰囲気とか俺じゃわからないから・・・」
そこまで言って、珍しく兄は大きなあくびをした。
あぁ、眠いんですねお兄さま。
「お疲れなのでは? もうお休みになる?」
「あぁ、今日の夕方王子を王都に見送るまで、連日気分が張り詰めていたからちょっと疲れたのかも。もう寝ることにするよ」
またあくびをする。これは、今日はここまでにして引き上げたほうが良さそうだ。
「じゃあ、今日はユリアがお休みのキスをしますね!」
ぐっと両こぶしを握って言ったら、兄に笑われてしまった。いいじゃないですか、たまには。だいたい私が先に眠るから珍しい。
兄より一歩先にベッドルームへ向かい、コンフォーターを開いてベッドの横にたつ。兄はくすくす笑いながら、大きな天蓋つきのそのベッドへ入る。
「なんだか子どもに戻ったみたいだなぁ」
「十七歳だってセイリュウ国では子どもだそうですよ。成人は二十歳なんだそうです」
なぜか敬語になってしまいながら、ベッドに入った兄の頬にキスをする。
「おやすみなさい、お兄さま」
「おやすみ、ユリア」
本当にお疲れだったらしい。あっという間に眠りに落ちた兄を起こさないようそっと足音を潜めて、私は兄の部屋を出た。廊下を照らす蝋燭はかなり減っていて、思ったより長く話してしまったのかもしれない。静かでうす暗い廊下を抜けて、私もとりあえず眠ることにしよう。
「どうされました?ユリアさま」
突然後ろから声をかけられ、肩がはねた。声の主はメイド長のポリーナだった。
「び、び、びっくりした。脅かさないでポリーナ、私が叫んだらお兄さまが起きちゃう」
「それは失礼しました」
ポリーナは口に手をあてて小声で笑う。
「それより、こんな遅くになぜセレスティンさまのお部屋へ?」
「相談したいことがあって話を聞いてもらったの。王子からのお願いがあって。でもお兄さま、疲れて眠そうだったから今失礼してきたの」
そうですか、とポリーナはまたにっこり笑った。
「お部屋までお送りいたしましょう」
「よかった、廊下暗くて怖いなって思ってたの。ありがとう」
ポリーナは言葉どおり部屋まで送ってくれた。扉を開け、私の部屋の蝋燭のひとつがきちんと灯っていることを確認した後、中まで入ってきてベッドをお休み用に整え、コンフォーターを開いてくれる。私は促されるままにベッドに潜り込む。
「おやすみなさいませ、小さなお嬢様」
「おやすみなさい、ポリーナ」
そのメイド長ポリーナが部屋を静かに足音も立てずに出て行くまで、私は目を開いたままでいた。
ポリーナこそ、こんな時間に二階の廊下で何をしていたのだろう。この屋敷では掃除は昼間することになっているし、明日の準備などがあるキッチンや洗濯室は一階なのに。
さっきは私を部屋まで送ってくれた?善意で?
それとも、監視されていたんじゃないだろうか。
なんとも不穏な発想をしてしまい、ふわふわの布団の中で私はぶんぶん首を振った。まさかそんな。ポリーナも他のメイドもみんなよくしてくれているのに。
耳元でアーサー王子が『気を付けろよ』と囁いた気さえした。湖の小舟で彼が真剣にお兄さまを疑っていたのが脳裏によぎり、つい溜め息がこぼれた。
だいぶ久々になってしまいました・・・!