夏の終わり、王子の訪問2
「腹八分に医者いらず」と前世では習ったけれど、そんな慣用句はこちらの世界には存在しない。ここレッドフォード伯爵家の食料庫は無尽蔵なんですかね?急な来客にも関わらず前菜からデザートまでフルコースである。嬉しいけど、今日に限っては嬉しくない。
じゃがいもの濃厚ポタージュスープ、カプレーゼ、川魚のムニエルまではなんとか食べきったものの、そのあとの肉料理は私だけ遠慮することになった。あぁもったいない。夕方私が食べすぎたのはシェフも給仕もメイドもみんな知っているので、笑って許してくれましたけれど。アーサー王子もセレスティンお兄さまもついさっきお茶うけにプディングを食べたばかりなのに、肉料理までペロリと平らげている。今日のデザートはモンラッシェグラスに飾られた桃のパフェで、これは私もしっかり十一分目までお腹を拡張させてなんとか食べきってしまった。ダイエットは明日から、という文句はたぶんこっちの世界にもある。
その夕食のあと、珈琲まで給仕を終えたキヨナガから珍妙な提案があった。
「アーサー王子、火遊びはお好きですか?」
アーサーは私の方へ目を向けて大きく瞬きを1回した。湖のような深い青の虹彩の上で、銀色の長いまつげが動く。さらに喉元がゴクリと動く。
「それはどういう提案だ?」
「言葉どおりのご提案でございます」
王子の隣でお兄さまは頬を緩めた。さっきの獣人の話の後からはずっと怖い顔をしていたから、私はなんだか少しほっとした。
「もしかして今年も届いたのか?」と後ろに立つキヨナガを見上げるセレスティン・レッドフォード。
「えぇ。この手のものが例年どおり、いえ、例年より少し遅れて届く程度には、セイリュウの港も平和になったようです」
能面のような白い顔を緩め、少し前下がりになった黒髪を揺らしたキヨナガに、私と王子は再び顔を見合わせた。「しかしどこでやるかなぁ、今日は敵の様子も気になるし」と唸り始めたお兄さまに、後ろからランドルフが「東の中庭はいかがでしょう、建物に囲まれ遠くからは見通せませんし、屋上と屋内には見張りをつけましょう」と提案している。東の中庭はこのお屋敷で一番小さなスクエア型のコートヤードで、真ん中に百日紅の花木があるほかは砂利敷きになっていて、枯山水のお庭のように少し砂利に波紋がつけてある。ちなみにこれも庭師の仕事だそう。お兄さまはその案に賛成し、王子を案内する。
椅子から立ちあがった王子と私は再び顔を見合わせて、声にならない声で「???」と会話した。
「おい!!それは火薬ではないか!!控えよ!」
メイドがもってきた横長の薄い箱を開けるやいなや、王子に付き添ってやってきた兵士の一人が声を張り上げた。「良い鼻をしていらっしゃる」とお兄様は感心した様子。レース紙で飾られた箱の中を覗いてみる。あれ? これは、もしかして・・・
「これはひどく弱い火薬ですから心配ございません。一番小さなもの一つからお示ししますので、少々お待ちを」
キヨナガは兵士と箱をもったメイドの間に割って入り、兵士へ杖を向けた。あの杖は獣人ザジとシャロと対峙したときにもっていた仕込み杖で、中身は剣である。
メイドたちは手際良く皿にのった蝋燭を庭の四隅に置いていく。私たちの周りにもいくつか並べてくれる。何かの儀式でも始まるの?と思いかけたけど、単に暗闇で視界をある程度良好にしておくためだろう。百日紅の薄紅色の花が暗闇に浮き上がる。新月からまだ一晩たっただけの、月明かりの心もとない夏の夜である。屋敷を囲う森からなのか、この庭の中心に咲く花木からなのか、昼の日差しに焼けたあとの強い緑の香りがする。
男の使用人らがブリキのバケツに水を汲んで運んできて、箱の中身についての推測が確信に変わる。さらに別の使用人らがサンルームから椅子を運んできて、王子と兄を座らせた。
「ではご覧に入れましょう。本当に優しい炎ですからご心配なく」
キヨナガが箱の中から三十センチに満たない細い棒をつまみ、その先を蝋燭につけた。こうぞ紙の先が燃えて揺れると、じわりと火の玉がその先端に浮かび上がり、キヨナガは蝋燭からそれを離して立ち上がる。先端の黒色火薬に火が付き、小さな小さな稲妻が光り弾けだす。
王子が身を乗り出す。
「爆発しないのか?」
「えぇ、いたしません。この箱の中の火薬全て使ってもごくごく弱いものですから、ご心配なさらず」
相変わらずの陶器のような顔ではあるが、声音はいつもより少しだけ優しい。
「私の国ではこれを花火と呼んで、夏の風物詩として楽しみます。火でつくった花のようでしょう?」
線香花火だ。
花火と蝋燭のオレンジ色の光をその青い瞳に吸い込んで、王子は「僕もやる」と箱の中の1つをつかんだ。「あぁ、それはススキといって、火が強いものです。持ち手は反対で、こちらを持って」花火が初めての王子にキヨナガは懇切丁寧に指導していて、なんだか微笑ましいというか、らしくないというか。
王子のもった手持ち花火からシューと音をたてて勢いよく星と火花が散りはじめると、メイドたちから歓声が上がった。彼女たちにとっても花火は珍しいんだろう。
しかも正装したままの兄と王子とキヨナガと花火をするなんて、なんだか変な感じだ。前世ではTシャツにデニムか、浴衣か、とにかくカジュアルに楽しむものだったのに、これでは花火が高尚な遊びみたい。
思わず口角を緩めた私に、「ユリアもやってみる?」とセレスティンお兄さまが自ら線香花火を差し出してくれた。返事をして線香花火をつまみ、蝋燭に近づける。あぁ、久しぶりだ。前世と合わせても十年以上ぶり。懐かしいな。
「ユリア、端をしっかりもって、体に近づけすぎないようにね」
「うん」
ジリジリと粘る火花とその中心で溶けていく小さな火の玉を、お兄さまと並んで砂利に座りこみ、腕を伸ばしたままジッと眺める。
やがてぽとりとペン先より小さな火の塊が地面へ落ち、光は消え、やおら目の前に暗闇が訪れた。
「人の首が切り落とされるのも、これくらいあっけないものですよ」
憂いの滲んだ顔で、私から線香花火を受け取ってキヨナガは花火をバケツに投げ入れる。「縁起の悪い話をするな」と笑ってたしなめた兄に、キヨナガも口だけで謝っている。
続けて、セイリュウ国では犯罪者や旧体制の権力者の首を切り落とす処刑を公開しているのですよ、と説明してくれる。どうしてこんな話を始めたのかは、わからないけど。花火をみて思い出してしまっただけなのか。
「レミリア国では非公開処刑が多いし、最近は毒を使うくらい平和だからね、そんな話をきくとゾッとするよ」
そう言って兄とキヨナガは花火をつかんだまま何か話し始めた。二人の方が背がずっと高いので、上の方で話を始めるとまだ十歳の私にははっきり聞きにくかったりする。同年代の王子が花火をいくつかもってやってきて、「どれをやる?」と聞いてくる。私が指さして、二人並んでススキに火をつける。するとまたメイドたちから歓声が上がった。火薬の匂いと夏特有の湿気た空気が頬を撫でていく。百日紅の花の桃色が一層明るく照らされる。
「ねぇ、なんで平和だと毒殺するの?」花火に火をつけたまま首を傾げた私に、王子は笑った。花火がその笑顔をはっきり照らしている。
「毒だって消費期限があるんだよ。使わないともったいないだろ」
言われて、私は言葉を呑んだ。
なんだかとんでもない異世界に飛んできてしまったような気がする。
ゆっくりスローライフができるところがよかったなぁ、なんて。誘拐とか処刑とか、縁のない生活をぜひともしたい。
今度はまた線香花火に持ち替えて、四人で円のように並んで花火を囲む。真ん中の蝋燭に一斉に火をつけ、火花がジリジリジリジリ、弾けたり散ったり消えたりするのを眺める。
「なんとか夏のうちに届いて良かったです。レミリアの夏は短いので」
「キヨナガの国では?」
「まだあと1か月くらいは暑いままですね。内乱も暴動も今は夜ばかりでしょう。昼間は暑すぎて休戦しているはずですよ。今月の敵は人間ではなく熱中症でしょうね」
日本っぽい。ものすごく関東以西の猛暑の日本っぽいぞ。私は笑って、「ずっと暑くてずっと平和だったらいいのにね」などと暢気なことを言った。
偶然なのかキヨナガが目利きをしたのか、最後まで火がついていたのは王子がつかんでいた線香花火だった。ひとつふたつ、みっつと火が消えていき、やがて最後のひとつ、王子の手元から小さな火の塊がゆっくり落ちる。
「終わっちゃったぁ」
心底残念そうな王子に、「宜しければまた来年も遊びにいらしてください。セイリュウ国の平和も祈りながらになりますが」とお兄さま。王子の護衛たちはほぼ微動だにせず一連の様子を眺めていた。
そこへ後ろから、メイド長のポリーナが手を二回、大きな音で叩いた。
「ご歓談中申し訳ありませんが、そろそろ王子様とユリア様にはお休みのお時間ですよ。お部屋へご案内いたします」
なんて勇気あるメイドだろう。たしかに、もう夜も遅くて普段ならとっくにベッドに入っている時間だけど。
「まだ眠くないよ?」
「夜更かしすると背が伸びませんよ」
口答えした私の手をゾフィーが、王子の案内にはセレスティンお兄さまがついて、レッドフォード家夏の花火大会はお開きになったのだった。
九月になっちゃったけど作中は八月です。
シャンガーラ登場以降のツッコミどころは次で回収できるかな?