嗜好品
「血圧が低くなっていますね。軽い脱水症状でしょう」
やわらかく煮た具沢山のチキンスープを平らげた後、レッドフォード家のかかりつけ医がやってきた。もちろんアルエの港町にいるはずのルカではなく、頭と髭の白い男性だった。痩せ型だがサンタクロースのような穏やかで陽気な雰囲気がある。私は初めて会う。
付き添ってくれたメイド長ポリーナとゾフィーによれば、先代レッドフォード伯爵の最晩年もこの医師が診察していたのだという。
脱水症状の治療はというと、薬の処方は不要で、少し塩などを混ぜた水分を良く摂るように言われた。先ほどのスープが美味しかったわけだ。でも。
「あの、だるくて、頭が痛くて重いんですけど」
本当に水分を摂るだけで良いのか確認の意味で問いかけると、医者は陽気に笑った。
「はっはっ だるさと頭痛の半分は寝すぎによるものですよ、心配いりません」
ガンッと「寝すぎ」の文字が突き刺さる。もう日が暮れるような時間で、言い返す言葉もありません。
ベッドに座ったままで医者を見送る。車寄せまでの見送りはポリーナがついて行った。一番しんどいと思っていた頭痛の原因が寝すぎだと言われてしまうと、急に寝ているのも阿呆らしくなってくる。スープとジュレでお腹はいっぱいだし、少し起き上がったほうがいいかもしれない。
ゾフィーに付き合ってもらい、お風呂に入ることにした。事件の後綺麗に拭いてもらっているとはいえ、髪の奥に土埃があるような気がして気持ち悪かった。
「ゾフィー、あの人達は?」
自室を出た廊下へ見知らぬ男が二人立っていた。背が高く屈強な男が二人で、一人は槍を持っていた。なんて物騒なのだろう。隣の浴室へ入ってから小声で聞く。
「王都の兵士だそうですよ」
着替えを手伝ってくれるゾフィーの顔はとてもにこやかだ。嬉しそうにすら見える。
なんで?
なんで、王都の兵士がここレッドフォード伯爵家にいるの?
顔にそのまま出たらしい私の疑問をくみ取って、ゾフィーはさらに続ける。
「ユリア様が誘拐されたと早馬に伝えさせたら、快く王子が兵を数人派遣してくれたそうですよ。
ふふっ すっかり仲良しなんですのね、アーサー王子と」
はぁあああ?
と声に出しはしなかったが、口が開いてしまう。「あら、仲良しじゃないんですの?」とゾフィーは首を傾げた。王都で起こったことをマカロンの件から爆発事件の謎解きまで一通り説明する間中、ゾフィーは鼻歌でも歌いそうな上機嫌だった。
「あの、お兄さま。今お時間よろしいでしょうか」
入浴を済ませたあと屋敷の中用のやわらかいドレスに着替え、兄の執務室の扉を叩いた。妹が目を覚ました情報がポリーナやかかりつけ医まで届いているのに当代である兄に届いていないわけがない。にも関わらず、お見舞いには来てくれないのだから、忙しいのだろうと憶測したのだ。
もうすぐ夕食の時間だが、案の定まだ兄は執務室にいた。促されて中に入ると、家令のランドルフが机の上の書類を片付けていた。そのうち手紙らしきものをいくつか銀のトレーへ載せて、入れ違いに部屋を出ていく。
「あぁ良かった。顔色も良くなったね。心配していたんだ」
兄は席を立って私に駆け寄り頬を撫でた。じっくり観察するように見られるのは、目を覚ました直後のゾフィーの反応と同じだった。医者はただの脱水症状だろうと言っていたことを伝えると、ほっとした顔で頬を緩めた。
「どこも怪我は無いんだろう?痛いところもない?」
私よりずっと背の高い兄は片膝をついて、私の腕をや手をそっと見ていく。
「ねぇお兄さま。王宮から兵が来ているのはどうして?」
兄はぱちくりという表現が一番合う、子供のように瞬きをゆっくりと2回して、ゆっくり私の髪を撫でた。洗いざしでいつものように二つ結びにはしていない。
「わ」
兄は小さく首を傾げたあと、私を横抱きにしてひょいとソファへ移動する。開いた扉の向こうにいるメイドに向けて、お茶を用意するように声をかけるのも忘れない。二人ソファに並んで座る格好だ。
お兄さま付きのメイドは静かに入ってきて、横のテーブルからまだ暖かいお茶をついでくれる。あ、これは香りの強いアールグレイだ。ガヴァネスのおかげでこれくらいなら見分けがつくようになった。
そんなことより。
私がお茶に口を付けたあと、兄はまた私の髪をゆっくり撫でながら、それこそ子どもをあやすように、昨日の救出劇について話し始めた。いつも通りの落ち着いた声で、子どものユリアに理解できるよう、ゆっくり話してくれているのだと、このときの私は思ったのだった。
「日が暮れてしばらくしてからかな、昨日帰ってくると聞いていたのに遅いなと思っていたら、手紙が届いた。君をさらった奴らから駄賃をもらったらしくて近くの農家の子が持ってきたよ。雑な読みにくい字で書かれた、身代金要求の手紙だ」
シャロがもっていったというやつだ。昨夜洞窟で、焚火を囲んで二人組が話していた内容を思い出す。直接持ってきたわけではないなら、なんでお兄さまが手紙を読んでいるときの様子なんてわかったんだろう。戦闘民族シャンガーラは視力もめちゃくちゃ良いのだろうか。
「それと、昨日はもう一つ不穏なことがあった。うちの領地に獣人が出たっていう話さ」
獣人。兄は彼女たちをキヨナガと同じように『獣人』と呼ぶんだ。当のザジが自分自身のことを『人間』と呼んでいたのも、あの焚火に照らされた赤い髪と綺麗な褐色の肌ともに思い出される。兄の顔が少し緩む。
「背の高い女と低い女の二人組で、うちの領地のワイナリーで水のように酒を飲んでいったんだってさ。金はちゃんと払ってくれたらしいけど、1樽開けちゃったって。昼から大酒する奴はそういないし、あいつらはフードを着ていても目立つよね」
ふふっ その場面を想像しているようで兄は薄い唇を緩めて笑った。
ミルクを少し紅茶にたして、ゆっくりティースプーンで混ぜている。その水面を見下ろしながら、獣人相手の可能性があるならば並大抵の傭兵を雇っても仕方がないと判断し、王都に応援を頼んだのだという。爆発事件の件があったから、レッドフォード家の使いは速やかに王子へ面会を許されたと。時間が遅かったので王子を起こすことになってしまって申し訳なかったが、すぐに優秀な兵を数人貸し出してくれたのだと。平行して、レッドフォード家の諜報員が獣人の後を追い、大方の潜伏先は目星がついたと。
諜報員なんているんだ、このお屋敷。
一昨日までの平和ボケした私は全然そんなこと、気にしていなかった。兄と身近な使用人数人の他はまともに名前の知らない人だっている。
「そうそう、諜報には犬も使ったんだよ。彼らは鼻がきくからね」
兄は微笑んで、私の反応を見ている。子供なら喜ぶところかもしれないぞ!とはっとして少し頬を緩めてみる。
「わんちゃんなんてこのお屋敷にいるの?」
鳴き声も聞いたことがないし、一緒にお散歩に行ったこともない。「ここにはいないけど、少し離れた衛兵小屋で飼っているんだ」と兄は言う。
衛兵小屋。そっか、そんなものもあるのか。お兄さまはお屋敷より少し離れた場所にもセキュリティを敷いているってことだ。
「お兄さま。助けにきてくれてありがとう。お兄さまの声がしたのは覚えてるの。そのあとぼんやりしてしまって、覚えてないんだけど」
ティーカップをテーブルに置いて、真っすぐ兄に向き直る。戦闘民族が領地内に現れたのを知っていて、賊のところに自ら救出に来てくれるなんて、きっと怖かったと思うのに。
セレスティン・レッドフォードもティーカップを置き、そっと私の両頬を撫でる。
「ほんっっと、無事でよかったよ。心配したんだ」
そのまま両手を私の両肩へスライドさせて、はぁと大きく息を吐いた。項垂れるように私の頭の上に顎を載せて、そっと抱きしめられる。白い首元から淡く軽い男物の香水が香る。
昨日の夜もこんな香りに気づいた気もするし、そうでもなかったような気もする。あまり覚えていない。
ザジとシャロは警戒していた。3キロ先まで人はいないなんて言っていた。それなのに、あれ?
「ねぇお兄さま。どうやって洞窟に近づいたの?あの人たち鼻も耳も遠くまできくのでしょう?」
頭をずらして兄の顎の下から抜け出し、顔色を見る。兄のこの執務室も今日はカーテンが閉められたままになっていて、蝋燭の明かりとカーテンの隙間から入る夕日だけではどうにもうす暗い。それでもこの距離ならば、兄がその深紅の瞳を細めたのはわかった。
「ふふ」
喉仏の目立つ細い首筋の奥から彼の息が漏れる。
え? 何? そんなに面白いこと聞いたかな?
口をまごまご動かしていると、兄は笑みを含んだ声でつづけた。
「実はマタタビを使ったんだ」
は? と声に出そうになるのを飲み込む。マタタビって、あのマタタビ? 猫が喜んだり興奮したり恍惚状態に入ったりするっていう、あのマタタビ?
「マタタビをつけた矢を射ながら近づいたんだ。アーサー王子が弓の名手を貸してくれてね」
なんだか兄は楽しそうだ。お腹の底からこみ上げる笑いを堪らえられないという風で、踊った声色で、一か八かだったけど効いて良かったと笑う。
トントントン
ノックの音に気付いて私も兄も顔を上げる。珍しく慌てた様子で入ってきたのは家令のランドルフだった。
「どうした」
兄は小さく眉をひそめた。ランドルフは小さく一呼吸したようだった。そしてこう続ける。
「お伝えいたします。アーサー・ヴァンハイム王子がお越しになりました」
ええええ?
なんで王子がここに?
私は腕の中から兄の顔を見上げる。私と正反対に、まったく驚きも焦りもない様子で兄は告げた。
「すぐに応接室へ向かう。来客用の夕食の用意をキッチンへ伝えてくれ。それからゾフィーを呼んでユリアの身支度を」
かしこまりました、と頭を下げるとランドルフはすぐに退室した。