案内
「広間の二つ隣が食堂だけど、奥はキッチンになっている。キッチンは使用人たちの聖域だ。君は入っちゃいけないからね」
夕食のときに連れてきてもらった部屋だった。大きなテーブルセットがひとつ、暖炉がひとつ、天井は布張りで金の装飾が施されている。
廊下を挟んで向かい側の白い扉へ入る。
「ここは図書室。代々の当主が集めた本は全部ここに揃っている。母の部屋に少し別のジャンルのものが残っているけど、基本的にはこれで全部だ」
床から天井まで、ずらりと書棚になっている。圧巻。すごい、すごいすごい! 壁の書棚の途中にバルコニーのように通路と梯子がとりつけてあり、上のほうの書物にも手が届くようになっている。部屋の中央にはテーブルとソファがあり、ここで閲覧するようだ。木製の書棚と本から香る紙の匂いが心地良い。前世で読みかけだった本はここには絶対ないだろうけど、そのうちお気に入りの本を見つけられるかもしれない。時間はたっぷりとありそうだし、また来てみよう。
「ここはサンルーム。東と南に大きく窓を開けてある」
初めて入る部屋だ。壁も床もタイル張りで半屋外のようになっている。奥はバルコニーにつながっていて、たしかに日差しが暖かく他の部屋より明るい。図書室との差は明快だった。ゆっくり寝そべるタイプのソファや立食に向いた高さのテーブルが並び、奥には噴水もある。
噴水!? 室内に噴水!?
私がびっくりして噴水にかけよると、兄はまた笑って、「初めて見る?」と。私が頷くと、「こういうのがあると夏の暑い日に涼しげでしょう?亡くなった父の趣味でね」といいながら脇のソファに座る。
「良い天気の日は僕もここで本を読んだりする。君も自由に使っていいからね」
その隣は来客室のようで、大きな絵画が飾られ、家具も一つ一つ豪華で見栄えの良いものが並んでいた。そういえばどの部屋にも暖炉がある。この地域も冬はかなり冷えるのかもしれない。
「二階は僕らの部屋と亡くなった両親の部屋、来客室とホールがある。そんなに面白くもないだろうから省略しよう。お庭をみてみる?」
私は頷いて兄に続く。サンルームの窓から外へ出て、バルコニーを通り抜け階段を下りる。階段を下りる際はさも当然のように手を差し出してエスコートしてくれる。なんだ、この兄。これが通常営業なの?私はつい照れてしまい、早くなれなくちゃと唇を結んだ。
「変な顔しないで。君の友達はこういうことしない? なんていったっけ、あの診療所の次男くん」
私は何度もうなずいた。
「マックスは、お兄さまとは全然違うので」
なんていうかいろいろ違う。それぞれに良さはあるんだろうけど、マックスのほうが雑だし大味なかんじだ。もちろん見た目も全然違う。黒と白、金と黒くらい違う。
「ルカがときどき話してくれていたよ。やんちゃな弟と妹のようなご近所さんがいるってね。ほら、あそこにバラ園がある。行ってみようか」
私は兄と手をつないだまま頷く。
庭だけでも広大で、ここは新宿御苑かと思う。なんなんだ、このお屋敷。この世界の伯爵家、想像していたよりずっとずっと豪華なんですけど!
黄色やピンク色の春のバラが咲き誇り、私の背より高いようなバラもあった。こんなの見たことがない。見とれて手を伸ばそうとすると、「トゲがあるから触っちゃだめだよ」とパッと手をつかまれた。一瞬離した手をまたつなぐ形になって、両脇をバラに囲われた道をもう少し進む。初夏のそよ風が気持ちいい。日本の夏よりアルエの夏よりカラッと涼やかなかんじだ。
「わぁ」
思わず月並みな声が漏れ出てしまった。
このお屋敷が高い丘の上にあるのだと思い出される。
花崗岩のような白っぽい石でつくられた品の良い柵の向こうに、低木の畑が並び、その先に大きな湖を見下ろせるのだ。これが絶景で、さすが伯爵家いい場所にお屋敷を建てますね!と思わずにいられない。ここが私の家なのだ。そういえばあの湖はここに来たときに通った湖かもしれない。水の美しさがここからでもわかるほどで、澄んだ空の青を映し出している。
「その下の畑はオリーブとぶどうだよ。日当たりが良くていいワインがとれるんだ。君にはワインはまだ早いけど、大人になったら飲んでみて。すごくおいしいよ」
そんなこと言われると飲みたいです。
前世では成人済みだったので例外扱いしてほしい。
ふてくされた顔をしていたんだと思う、兄はまた笑って、
「みんながおいしいお菓子を用意してくれているだろうから戻ろうか。今日はバルコニーでお茶にしようね」と頭をぽんぽんとなでてくれた。
綺麗にゆった髪が崩れないよう、ぽん、ぽん、と載せるだけの。
なんというか女慣れしている感じがする。これは、もしや、なにしろ消滅確率91%だし、なりふり構っていられない。
「あの、お兄さま」
「うん?」
機嫌は良さそうだ。いけ!ユリア!きかなきゃ始まらないでしょう?
「お兄さまにはお付き合いをなさっている方はどなたかいらっしゃるのでしょうか?」
兄はきょとんとしてその赤い両目を見開いた。強い太陽光を受け、室内でみるよりもっと明るく澄んだその瞳を、ドキドキしながら見つめる。私は十歳の小さな手で、ドレスのスカートをいつのまにかぎゅっとつかんでいた。