十日
そして数話前に戻る。
翌々七月十日の朝、レースのカーテンだけを下した南の縦窓から日差しがやわらかに差し込んで、私は自然にぱちりと目が覚めた。
すぐに私は嬉々として鏡の前に座った。昨日は慣れない馬車移動のせいか遅くまで眠ってしまい、目を覚ましたときには目の前にメイドさんの顔があったので、今日はよくやったぞ自分と思う。寝坊すると一人の時間が作りにくい。
左手の窓から光を受け、起き抜けの髪に白いネグリジェ姿のユリア・レッドフォードの姿が映る。そしてゆらりと頭の上に赤っぽい色で文字が浮かびあがった。はっきりと、私にだけ読める、日本語と数字で示された。
その文字は。
《12歳までの消滅確率 91%》
ガンッ と頭と肩に鉛の塊が落ちてきたような衝撃を受けた。
瞼を閉じて、落ち着こう。落ち着くんだ私。
すー はー 深呼吸をしてみる。
きっと見間違いだろう。早起きしたから寝ぼけているんだ。落ち着け、落ち着け、止まれ心臓。
あ、ダメだ、止まっちゃダメだけどゆっくり伸縮するんだ私の心臓。
数秒瞑想し、ゆっくりと金色の睫毛で縁取られた瞼をもう一度上げる。
私の頭の上に書かれた文字と数字は、
《12歳までの消滅確率 91%》
・・・・・・。
数秒も見つめているとその文字はゆらりと消え、あとには私の真っ青な顔が映るだけになった。緑色の瞳がうるんでいることに、鏡の中の自分の顔を見ながら気づく。
まさか、そんな。十二歳ってあと二年後でしょ?
二年しかないのに91%も挽回が必要なの?
91%って、私が十人いたら九人は死ぬってことでしょ?
私が自分の生死をかけてコインを投げたら、百回投げて九回しか生きるチャンスがこないってことでしょ!?
・・・・・・。
ここ数日の自分の行動を振り返ってみるけれど、何がどうしてこんなパーセンテージになってしまうのかまったく思いつかない。
もしかして、伯爵家にやってくることがそもそも失敗だった?
ある。その可能性はある。でももし伯爵家に引き取られていなかった場合、あったのはルカかマックスかどちらかの二択だ。マックスは仲はいいけど普通の十歳の子供だし、可能性としてはルカとの医者恋か。そのフラグをへし折ったのは、十年前と一昨日の私ということ?
いや、待てよ。一昨日異世界案内人の白髭はなんていっていた? ここ数年冷や冷やしたとかいっていなかったっけ?
とすると、そもそも私が見ていなかっただけで仕立屋の娘とルカかマックスというその二つのルートはそもそも死亡率が高かったのかもしれない。だとすると、どういうことだ?なんで消滅確率が今日時点こんなに高い?今はもう伯爵家に引き取られたのよ?町人よりずっとスパダリに出会いやすいでしょ?
私はポンッ と左の平手に右の拳を打った。
「もう十歳だけどまだ主人公の相手役とフラグが立っていないんだ。十二歳までに少なくとも恋愛小説にふさわしいスパダリと知り合ってフラグを一つ二つ立てる必要がある。単純にそういうことじゃないのかな?」
もしかして十代で伯爵家に引き取られる設定は余計だった?最初から伯爵令嬢で許婚がいるくらいの設定のほうが良かったのかも? きっとそうだ、たぶんそうだ。でも今さらもうどうしようもない。
両方に手をあててうだうだぐるぐる考えてみたけれど、それ以上今推測か妄想かわからない想定を繰り返しても仕方がないように思えた。今私にできることは、今この屋敷にいるセレスティンさんとキヨナガさんのどちらかとフラグを立てるように頑張ることだけか。
あとは情報収集。屋敷の外の人とコミュニケーションがとれるようにならないと、誰が恋愛小説のカッコいい彼氏役なのか、探しようがないし。
うんうん、と一人で頷いていると、ドアの方でノックの音がする。まだ感覚的には七時過ぎのような気がするけれど、外には使用人がいたみたいだ。
「ユリアお嬢様、お目覚めですか。朝の紅茶をお持ちしました」
再度控えめにノックの音が聞こえ、私は入室を促す。この艶のある少し尖った声はキヨナガさんだ。
ドアを丁寧に開き、ワゴンで紅茶と軽い朝食をもってきてくれる。
まだ十四歳だそうだけれど曲がりなりにもフットマンなので、食事の給仕は彼の仕事らしい。早起きの兄の朝食を終えた後私のところへきてくれることになっている。
ベッドの横にそのワゴンを止めると、ベッドサイドの一人掛けソファに掛けるよう私に促す。窓際のテーブルとこのビロード張りのソファは、貴族がここで起きてすぐ水分をとったり軽い朝食をとったりするためにあるらしい。一人部屋なのにやけに家具のある部屋だと最初は思ったけれど、ひとつひとつの家具に意味があるのだった。
「ねえキヨナガさん」
「従者に《さん》は不要ですよお嬢様」
言い直すことにする。この人目線が鋭くて怖い感じがして苦手なのだけれど。
「じゃあキヨナガ。あのね、聞きたいことがあるのだけれど」
「何でしょう?」
紅茶に砂糖とミルクを入れ、ティースプーンでかき混ぜてから差し出してくれる。昨日は砂糖やミルクをいれるか好みを聞かれたけれど、今日は何も言わずに淡々と進めている。「本日はミルクティーに合うよう昨日より濃いめに淹れてみました」等と言いながら。私はそのティーカップをソーサーごとを受け取って、本題に颯爽と切り込む。
「セレスティンさんにいい人がいるかご存知だったりしますか?」
キヨナガは固まった。
1秒、2秒、3秒。
ゆうに4秒は固まってから薄い口を開く。
「セレスティンお兄様とお呼びになったほうが良いのではないでしょうか?血の繋がった兄上様なのですよ」
う。暗に兄との恋愛は無理と釘をさされている気分。ここは一旦話をそらしてまた後で戻すことにするか。
「じゃあルカのことは知っている?セレスティンお兄様、はルカと仲良しなのでしょう?ルカの好きな人知っていたりする?」
「それは、私にはわかりかねます。私は数えるほどしかルカ様にはお目にかかっておりませんし」
ルカにも敬称なんだ。主人の学友だからか。
「じゃあ質問を変えます。セレスティンお兄様、はどなたか素敵な女性をこのお屋敷にお招きになったことはあるの?」
「同じ質問じゃないですか」
私が紅茶に口をつける間に、キヨナガはわかりやすく嘆息した。アールグレイかな、香りが強くて朝に丁度良い。たしかにミルクティーに合う良い抽出具合だと思う。この紅茶好きですと告げるとキヨナガは小さく頷いた。そして質問を続ける。
「ねぇ、どうなの?どなたかいい人はいらっしゃるの?」
だって重要なんだってば・・・!!!
消滅確率91%から挽回しないと老後までのんびり長生きできないんだよ?若干十二歳で消えてしまうかもしれないんだよ?兄にもルカにももう超美人の恋人がいたらどうするの?結局町人のマックスのところに帰って私は消えるの?
人様の色恋が今世では超重要関心事項なんだから・・・・!!!
どうあっても答えてくれる気はないらしい。キヨナガは黙ってスコーンにリコッタチーズを塗り始めた。
うーん、こっちのルートはほぼほぼ無さそうだけど一応聞いておくか。
「ねぇ、じゃあ、キヨナガは? キヨナガは好きな人いるの?」
「な、わ、私ですか?」
キヨナガは白い陶器の頬を真っ赤に染めて取り乱しはじめた。ハーフパンツの左脚が一歩下がったのがわかる。
え?
こういう顔するの?キヨナガさん。
なんだか私もつられるように慌ててしまい、ティースプーンを絨毯に落としてしまう。
それにハッとしたキヨナガはスプーンを拾うと、すぐに代わりを持って参りますといってそそくさと部屋を出て行ってしまった。
しまった、セレスティンさんに彼女がいるかどうか聞けていないのに!!!
次にスプーンをもって戻ってきたのは私付きのメイドになったゾフィーという二十歳前後の栗毛の女性で、完全に機会を逸してしまった。ああああああ、もう!!! どうなの!?どっちなの!?
「あの、どうされましたかお嬢様?わたし何か不手際でも?」
あからさまにがっかりした顔をしてしまったからだと思う。彼女は何も悪くはないので申し訳ない。
「ううん、何でもないの。気にしないでゾフィー」
スコーンとフルーツの軽い朝食を食べ終えると今度は着替えを手伝ってくれる。昨日採寸し依頼したばかりの新しい服はまだ出来上がってきていないが、取り急ぎ用意していてくれたものの丈や袖を調整してくれたので、今家の中で着られるドレスは三着ある。当面は十分だ。
そのうちの一番色鮮やかな赤いドレスをとって、ゾフィーは微笑む。
「本日はお天気も良いのでセレスティン様がお庭をご案内してくださるそうですよ。午後のお茶もお庭にテーブルをお出ししますね」
きた!!チャンス!!
グッと拳を握る。セレスティンさんの情報収集をしなくちゃ!!
「ほんとう?嬉しいな。そしたら今日はめいっぱい可愛くしてね」
「かしこまりました」
にっこり微笑んでくれるゾフィーになんだかほっとする。赤いドレスは胸元が開いたデザインで、コスモスを模ったサンゴのネックレスもつけることにする。ゴムでゆった金色のツインテールの上から赤いシルク製リボンを結んでもらうと、絵に描いたような小さな令嬢が出来上がった。これが今日の私の戦闘服だぞ、と。この可愛い少女の容姿を存分に使ってフラグを立てなきゃいけないんだから!!