第一話 曳見信用金庫防衛戦その一
茜色の夕日が差し込む国道を、一人の少年が歩いていた。国道とは言っても、市街地にある訳ではない。市街地から離れた場所を通る国道で、街路樹として植えられている桜は満開を迎えている。
そんな彼は、国道沿いにひっそりと多々済む『堀田書店』と書かれた小さな書店の戸を開けた。間口が数メートルほどしかなく、汚れたクリーム色の壁も相まって遠くからここが書店だとわかる者は少ないだろう。
「ただいま」
店内だと言うのに、彼は気にせず感動詞を言ってのける。三十坪程度しかない店内のため、彼の言葉は店内のどこからでも聞こえただろう。
「おかえり。一樹」
しかし、返ってきたのは苦言を呈する言葉ではなかった。
少年──一樹に声をかけたのは、入口横にあるレジで座りながら新聞を読んでいた男性──一樹の父親、卓だった。彼はすぐに新聞を畳むと、そのまま一樹の方へと顔を覗かせた。
一樹は挨拶を済ませると、そのまま店内のバックヤードへと入ろうとレジを通り過ぎようとするも店内に別の足音が聞こえてきた。
「堀田さん、お会計いい?」
店の奥から現れたのは、近所に住んでいる卓の知り合いだった。手には何冊かの本を抱えている。
「あ、はい」
卓は彼から本を受け取り、精算を開始する。
一樹は彼のために一歩後ずさると、彼は「ごめんね、一樹くん」と会釈した。一樹も「いえいえ」と首を横に振り、遠回りするようにバックヤードへと向かった。
彼はここの常連であるため、慣れた手付きで支払いを終えてすぐに去っていった。
一樹がバックヤードへと入ろうとするなり、「そういえば」と卓が何かを思い出したかのようにつぶやく。
「どうしたの?」
一樹は父親の方へ振り返る。
「実は、隣の五十坪の空き地を買ってな、増築しようと思ってる」
突如として切り出されたとんでもない行動に、一樹は開いた口が塞がらなかった。
「え!? 五十坪? 高いでしょ。そんなお金どこから? 対して儲かってないでしょ! 毎日目刺なんて嫌なんだけど!」
店内は常に閑散としているため、一樹は儲かってないと思っていた。そのため一樹は楽観的な卓に対して理由を問う。
「失礼だな。こう見えて儲かってるぞ。一応近くの小中学校の教科書取次もしてるからな? 教科書はほとんど利益ないけど、副教材があるから春になれば自然と大金を得られるんだよ。それに、土地代と建築費用合わせての三千万円は信用金庫から借り入れたから目刺は毎日出ないぞ」
自信満々に言う卓に、一樹は不安しかく脳裏に大言壮語という言葉がよぎる。
「ならなんで増築するの?」
「さらに売上を伸ばすために決まってるだろ?」
一樹は溜息を深く吐いた後、不機嫌そうにレジに頬杖をついた。
「大体、需要無くない? 返済できる見込みあるの?」
「あるから増築するんだよ」
卓は輝いた目でそういった。
「そういえば、母さんからクリーニング取りに行ってこいって言われてたんだった。一樹、店番頼んだぞ」
「ちょっと!」
制止から逃れるように卓はクリーニング店に向かってしまった。
諦めて店番をしようと、一樹はレジにあるコーヒーのシミのある椅子に座ると、気の抜けた様な変な音が鳴る。この音のように卓も適当な接客でもしているのだろうと一樹は思った。
店内を見渡すと相変わらず閑散としており、多くても一日に十数人しか来ない。どうせすぐに父さんがクリーニング店から戻ってくるんだから寝てもいいだろう。一樹はそんな甘い考えのままカウンターに顔を伏し目を閉じる。
そして、一樹が思っているよりも早く眠りについてしまった。
「す…ません。あのーすみません」
一樹の意識に、微かながらも女性が訴えかけられた。しかし、一樹は父親が帰宅したのだろうと考えたものの、女声だったことを思い出す。そして、その声が母親とも似つかぬ声だったことからようやくお客さんだとの結論に至った。一樹は慌てて飛び起き、何回もお辞儀をする。
「す、すみませんでした。本当にすみませんでした面目ない」
「い、いえ。私こそ起こしちゃってすみません」
「いえいえいえ、こちらこそ本当にすみませんでした。もう二度と営業中に寝ることが無いように猛省しています!」
このくらい謝罪しとけばクレームとかは後で言われないだろう。そう思い椅子に座る。しかし、レジの上に本が置いてあるのを見てまたも飛び上がる。
「あ! ほ、本のご購入ですか。すみませんでした!急いでやりますんで」
急いで本のバーコードを読み取り、モニターに映る価格を確認する。
「せ、千九百八十円でございます」
ブックカバーをかけようと本を表にすると、『誰でもわかる金融機関の仕組み』という本に目が留まる。世の中にはこんな難しそうな本を読む人もいるのだな、と感嘆する。ブックカバーをかけ終え、カルトンの上に置かれた現金を確認する。
「二千円お預かりします」
レジに打ち込み、レシートと二十円を手に取る。
「こちらレシートと二十円のお返しです。またのご来店お待ちしております」
そういって彼女の方を見る。
声からして若い女性というのはわかっていたが、そこに立っていたのは自分と同じくらいの年齢であろう女性だ。
亜麻色でセミロングのしっとりとした艷やかな髪、そして大きな茶色の瞳。身長は年相応という感じだが、あどけなさの残る顔も相まってクラスのみんなから好かれるタイプだと一樹は思った。
「どうかしましたか?」
彼女は微笑みながら落ち着いた声で問いかけた。
「え? あ、いや、こんな難しそうな本を読むなんて凄いですね。十五歳の未熟な自分には、この本を理解出来そうにもないですよ」
中学を卒業したばかりの無知な一樹は愕然とした。まだ十五年しか生きていないのに、自分と彼女では大きく差がついてしまったものだと一樹は実感させられたのだ。そんな惨めな自分を悟られないようにと、愛想笑いを繕う。
「同い年なんですね。でも、この本は十五にもなれば十分理解できると思いますよ。まあ私の場合は、金融機関について深く知りたかったので」
そう言って彼女は本とレシート、お釣りを受け取った。
「深く知りたいのであれば、駅ビルに六百坪近い書店がありますよ?」
「そうなんですね。でも、私は先日ここに来たばっかりでして。参考にします」
「こっちに引っ越してきたんですか?新生活大変でしょうけど頑張ってください」
「ありがとうございました。それでは」
彼女は会釈をすると去っていった。
一樹はしばらくの間、呆然としていた。彼女との大きな差を。
せめて少しだけでも勉強しよう。そう一樹は決意する。店内に人がいないことを確認すると、二階から勉強道具を持ってきて取りかかろうとした。
「クリーニングとってきたぞー」
その瞬間卓が帰宅し、一樹は顔を引き攣らせた。
「クリーニングのついでに酒も買ってきて遅くなっちまった。そういや一樹、実は今何百億だか放出してるBuyPayってあるだろ? あれ導入したんだ。数年間決済手数料無料らしいからな。お前にも使い方を教えないとな! どうせ勉強しないだろ?」
高らかに笑う卓は、一樹の横にある勉強道具など気にすることなく、解説を始める。しかしすぐに終わると思いきや、卓がやり方を忘れていたため一樹はかなりの時間を浪費してしまうはめとなった。
教科書の取次って儲からないらしいですね。
2021/4/25 改稿