家を出た女
雪が降る季節になり、気温が下がってきたのでチキンホワイトシチューを作った。
「今日も帰ってこないのね」
アンリはつい独り言を漏らした。一人、食卓に座ってシチューを口に運ぶ。チャパティより最近人気のバケットを買ってきたものの、感想を言ってくれる人は今日も不在。
完成した時は、我ながら上手に美味しく出来たと思っていたが味がしない。原動力として体に流し込んでるような、そんな錯覚に陥る。
その時、玄関から物音が鳴った。まだ二十一時過ぎ。珍しく帰宅したのかとアンリは背筋を伸ばした。それから立ち上がって、食器棚へと向かった。
「ただいま。良い匂いがすると思ったらホワイトシチューか。ありがとう」
姿を現したアシタカが力無く笑った。疲れ切っているような、顔色の悪さ。目も笑っていない。
「風呂と着替えだけしてすぐ出る。大総統選挙の警備体制についての草案を任されたんだ」
ため息を堪えて、アンリは食器棚から離れた。必要なのは携帯保存用の器か、と台所の上の棚を開いた。
「草案を任されたって、また……」
気配がしない。振り返ると案の定、アシタカの姿は無かった。草案を任されたのではなく、また自ら仕事を増やした、だろう。
「是非任せてください。僕がその草案を作成します。そうだ、明日までには準備しておきましょう」
アンリはわざとらしく予想される言葉を発してみた。明日、ブラフマー長官に聞いてみよう。殆ど予想通りの答えが返ってくるだろう。ホワイトシチューを温め直そうかと思ったが、どうせ仕事に夢中で冷めてから口にするに違いない。他所の女からも、同僚や上司からも差し入れがもうあるだろう。
それでもアンリはコンロを点火した。
「何が至宝……何も分かっていないのよね……」
思わず悪態を口にしてから、アンリは嫌な気分の自分に落ち込んだ。分かっているのに、嫌味を言うなんて良くない。しかし、最近自制よりも愚痴を言う方が増えた。
国の象徴を担う一族の後継者候補。迂闊に誰かに関係を相談することは出来ない。元々、恋愛話をするのは苦手だ。友人に「最近どう?」と聞かれれば「忙しくてすれ違い」としか答えられない。
寂しい、我慢させられている、構って欲しい。友人達の共通の悩みに共感はするけれど、根本はそこではないという気がしていた。それが今腑に落ちた。形になっていなくて、言葉にし難くて、口を閉ざしていたがストンと落ちた。今なら上手く表現出来るかもしれない、アンリは自嘲した。
温めたシチューを携帯保存用の器に注ぎ、バケットも準備し、弁当用の鞄に詰めた。それから椅子に座って食事の続きをした。
「風呂、洗っておいてくれたんだ。ありがとう」
十分もしないでアシタカがあらわれた。夜色の髪はまだ濡れている。せめて乾かしていけば良いのに。
「ええ」
ええ、浴槽は使わなかったみたいだけどね。嫌味の言葉を飲み込んだ。これだ、これがずっと喉に棘として刺さっていた。
「アシタカ、五分だけ時間をくれる?」
ゆっくり呼吸をして、アンリはジッとアシタカの両目を見据えた。黒真珠のような柔らかな眼差し、しかしその奥に秘められた絶対拒絶の光。アシタカはいつものように穏やかに微笑んで、椅子に腰掛けた。
「顔色が良くないわ」
「温かいし、栄養も多そうだ。ありがとう」
目ざとく食卓の上に置かれた弁当用の鞄を眩しそうに眺めたアシタカ。目には隈があるし、先月よりも痩せたように見える。
「それは違うわ。これから自主練習に行くの」
アシタカが思いっきり顔をしかめた。
「こんな夜更けに外へ出るものじゃない。最年少の長官就任で気負っているのは分かる。しかし休養は大切だ。君の実力も勤労ぶりも護衛省で十分評価されている」
机を両手で叩きたい衝動を、膝の上で拳を握って抑えた。
「貴方もそうよ。昼まで技術館、夕刻まで議員、夜は護衛人。そして書類の山。一体いつ休むのかしら?」
なるべく穏やかにと、アンリは微笑んだ。頬が引きつるのが自分でも分かる。アシタカが腹立たしい程の満面の笑みを浮かべた。
「時間を決めて休んでいる。いつもありがとう」
まだ五分経過していないのに、アシタカは立ち上がった。アンリは弁当用の鞄を差し出した。
「思い直してくれたのなら良かった。代わりに有り難くいただくよ」
アシタカが鞄を受け取るときに、指先が触れた。反対側の手が伸びてきたので、アンリはサッと離れた。なんて優しい労りの笑みなのだろう。大好きな表情だ。しかし近づいたからこそ知った、この笑顔の奥と鳥羽色の瞳の奥に潜む拒否の意思に胸が押し潰されそうだ。
「その目よ、もうたくさん。アシタカ、お別れね。私はこんな日が続くのは耐えられない。何より貴方の為にならない。悲しかったら、嫌だったら、たまにで良いから私の気持ちを考えてみて。いい?貴女の不甲斐なさではなくて、私の気持ちを想像してみて。是非誰かに聞いてみて。いつかきっと……」
いつかきっと気がつく。そういう素敵な男だ。その時に隣にいる者と、今より良い関係を築ける。アンリは自然と涙を流した。アシタカは、己に何が欠けているのか気がついた時にアンリを求めない。学生時代に知り合い数年、恋人となり共に暮らすようになって一年少々、それなのに全く踏み込めなかった。自分には、その程度の価値しかなかった。
「アンリ?待ってくれ。何の話だ?」
心当たりがないという困惑に、アンリは乾いた笑い声が漏れた。アシタカの視線が時計を盗み見したことに、目ざとく気がついたせいもある。
「何の話?別れ話よ。理解しているのに、不満ばかり出てくる自分が嫌。そんな人になりたくない。ありがとう、その感謝で満足出来ない心の狭さを突きつけられて、嫌悪を抱くのも嫌。何より、私は貴女の隣に居る意味を見出せない。私は……」
私はアシタカの安らげる家になりたかった。互いに荷物を分かち合いたい。頼りにして欲しいし、寄りかかってもらいたい。些細なことで良い。今夜職場に弁当を持ってきて欲しいでも、疲れて仮眠をとるから三十分経過したら起こしてくれでも良い。張り切って仕事を増やして少し疲れているでも、やりたい事が多すぎて大変だでも良い。
それなのに、アシタカには「ありがとう」か「僕がやる」の二択しかない。
それじゃあ部下だって育たないのに、なのに、こんな小さなことも気がついていない。君なら出来る、任せた。それが人を育てる。そしていつか誰かを支える。アシタカは前しか見ていない。足元や周りに目もくれない。結果、アシタカが望む未来は訪れない。自分が倒れたら、代わりは居ない。全部無意味になる。
それを教えてあげたいと思っていたが、頑なで踏み込ませてくれなかった。すり潰れてしまってこれ以上、恋人としては無理だ。恋愛だとどうしても、承認欲求が強くなり過ぎる。この気持ちが落ち着いて風化したら、友人として寄り添おう。背負い過ぎるアシタカは、幸せになるべきだ。
「そんなに寂しい思いをさせているとは、鈍感だった。忙しさにかまけていた僕が悪い」
紳士な回答に、悲しそうな表情。しかしアシタカの目線はまたチラリと時計の針を確認した。狙撃手なんて仕事をしていなかったら気がつかなかったのに、気づいてしまう自分。相手を観察しすぎて、先回りするのは長所だけど欠点だと教えてくれた上官のリリンの顔が脳裏をよぎった。
「五分経過したわよ。仕事が待っているのでしょう?そんなに時間が気になるなら律儀に時間を守ることはないわ」
アシタカが罰の悪そうな顔付きになった。最後なら、とことん言い合いをしてみたい。
「すまない、ありがとう」
アシタカが背を向けたので、アンリはため息を飲み込んだ。あまりに想定通りで力が抜けた。アシタカが弁当用の鞄を掴んで、玄関の扉が閉まると床に座り込んだ。
「最後まで拒否とは酷い人……」
そのまましばらく立てなかった。今夜一晩、アシタカは仕事の片隅でアンリの気持ちではなく自己改善の方法を考えるだろう。アンリの為にどう時間を作るか。そうして捻り出した時間は僅かで、余計に寂しさが募ることを理解していない。そこまで努力されたら文句が言えないのも分かっていない。心配しても笑顔しか浮かべない。
そこで文句を言おうものなら、二人の時間をもっと設けて欲しいと告げれば、アシタカは拒否する。これ以上は無理だ、譲歩してくれないのなら自分にもう付き合わなくて構わない。君は素敵な人だから、他の男が幸せにしてくれる。そう言うだろう。違う、貴方が良いのにと縋っても遅い。それならば何故理解してくれていたのに己を律しなかった?と突き放される。
極端過ぎる、潔癖な男だから、二択しかない。根を詰め過ぎて、誤ちを受け入れる余裕も言い合う気力も無いのだろう。だからいつも拒絶の光が目の奥に浮かんでいる。
「こんなの八方塞がりよ……。自分だって寂しさに耐えられないから私を隣に置いていたくせに……」
単なる我儘だ。我慢してくれと頼まれたかった。必要だから耐えてくれと言って欲しかった。僕だって寂しいと、せめてその一言。それだけでも良かった。
アンリは奥歯を噛んで立ち上がった。女に二言はない。荷物をまとめて、自宅へ帰る。半同棲と言えば聞こえは良いが、押しかけて世話を焼いていただけだ。今日のように一秒でも顔が見れればという思い。反対は一度だって無い。先に構い過ぎた自分のせいだ。
「構わなかったら、恋人にもなれなかったのに……。最初から破綻していたって訳ね。恋は盲目とは恐ろしいわ……」
耐えられない一番の理由。自分は愛されていないのでは、その拭えぬ不信感。日に日に強くなって破裂した。アンリはアシタカの部屋に自分の荷物が少ないことに苦笑した。まるで自己防衛だ。
「アシタカのせいにしてはいけないわね。結局自信がないから逃げるだけってことか……」
鞄を抱えてアンリはアシタカの部屋を後にした。鍵は明日返そう。多分、顔は見せてくれるはずだ。
見上げた空は、分厚い灰色の雲に覆われて星一つ見えなかった。無性に誰かに話を聞いてもらいたかった。まだ夜中前、いや零時過ぎだって親友カノンにネハなら聞いてくれるだろう。鍛錬場に行けばエシャが居そうだし、リリン上官も多忙な夫を持つという人生の先輩。
「そんな男やめておけって言ってたけど、我らが至宝だって話をしたら驚くかしら。秘密を話すのなら……」
アンリの足は自宅に向かった。帰宅したらリリンに愚痴を聞いてもらおう。口が固いし、今のアンリの気持ちを乗り越えて夫婦生活を成り立たせている。頼るのが遅い、いつもそうだと言いながら慰めてくれる。
アシタカは誰にも相談しないだろう。彼の周りにはそんな親しい人は居ない。努力家で、実力がある権力者。おまけに人を頼らない男。ただでさえ忙しくて、人と浅い交流ばかりなのに、彼の周りに集まるのは策士や腹に一物持つ者も多い。人を見る目がある故に、悪い友人でさえいない。
人は一人では生きていけないのに、全く気がつかないで走り続けている。その先には崖しかないのに。
「大変ね……大国の至宝なんて呼ばれて……」
見捨てた、という気持ちにアンリはまた涙を零した。大粒の涙は止めたくても、止まらなかった。
初恋だった。
何年も片想いして、意を決して踏み込んで勇気を出してやっと手に入った。それを自ら手放すとは思わなかった。これを糧に成長したら、次は上手くいくだろうか。アシタカからの想いは信じきれなかったが、もらった言葉は信じられる。
いつもありがとう。
その真心こもった言葉を告げる時の、アシタカからの敬愛の眼差しとアンリへの賞賛が嘘偽りではないと身に染みている。
大丈夫だ。互いに道は分かれるがいつか変われる。相手を思いやれるのなら、変われる時は必ずやってくる。