一 伊吹天子
目の前に広がるのは大きくて高い建物ばかり。圧倒的な存在感を放つビルの数々に天子は驚いていた。
「都会は空が狭いな…」
よくありそうな台詞を口にした。
天子はこの春から高校生になる。そのために田舎から都会へ出てきたのだった。
―――もっとも、『出てきた』のではなく『追い出された』のだが―――
親元を離れた天子はこれからお世話になる下宿先へ行くところだった。荷物は既に送ってある。
ショーウインドウに映っている自分の姿、肩で切り揃えられた母譲りの癖のない黒髪、父に似ていると言われた自分の顔を見た。
それが、彼女を送り出した伯父の冷ややかな目を思い出させた。
『いいか、お前がここを出ていく理由を考えろ。ここにはお前の居場所などないことを自覚しろ。……この家の名を名乗ることは許さないし、認めもしない。あの恥知らずで愚か者の名を名乗るがいい』
それが別れの言葉だった。いや、少し違う。天子が出発する時、見送りの者は一人もいなかった。
それはともかく、都会はすごい。空は見えない。木々が少ない。せいぜい、桜の木らしい街路樹が等間隔で並んでいるだけだ。そして、人と車の行き来が激しい。
思い出したくもない伯父の言葉を思い出していたり、都会はすごいとしみじみ考えていたりする前に、早く下宿先に行った方がよいのだが、それができない理由が天子にはある。
天子は地図に向き直った。
下宿先の住所は分かるが、行き方が分からないのだ。地図はある。現在地も分かる。ただ、どこをどう行けばいいのかが見当つかない。そもそも天子は地図を使ったことがほとんどない。人に聞こうにも、皆忙しそうで話しかけづらい。こちらを気に掛ける人もいるが、面倒くさいことにはかかわりたくないのか横目で見るだけで立ち去ってしまう。
さて、どうするか。それが問題だ。
「そこのお嬢さん。さっきからそこにいるけどどうしたんだい?道に迷っていたりするのかい?」
「いえ、迷ったんではなく、道が分からないんです」
まだ迷ってはいない。進む方角が分からないだけだ。まだ一歩たりとも進んじゃいない。
天子が振り返ると、そこにいたのは思っていたような人ではなかった。
まず、人ではなかった。
「道が分からない?場所が分かるのに道が分からないっつーのは迷っているとは言わないのかい?」
にやにやと笑いながら返事をしたのは、一言で言ったら子鬼だ。天子の膝ほどの背丈、赤い体、額にある角二本を見て、鬼と表現しない人がどこにいるだろうか。
「おや、オレを見て驚かないとは、なかなかだなあ。オレは天邪鬼だぜ?怖くないのかい」
「……都会には妖怪がいるんだな…実家では見たことなかったけどな」
「ちょっと待てそこの田舎者」
田舎者扱いされた天子は不満そうな顔をした。
「そりゃ、確かに私は田舎者だけど他人に言われる筋合はない」
「知らんね、そんなこと。まあ、都会の人間なら、幻覚か見間違いと判断して普通は無視するからな。うん、お嬢さん、おかしな奴だなあ」
そんなことを言われても困る。いくら妖怪といえども、いきなりおかしな奴というのは失礼すぎないか。しかし、天邪鬼は一人でぶつぶつと何か呟いている。
「自覚がないのか何なのか。それともあの人の言ったことはデマだったかのどちらかだな」
「———なんて?」
聞き取りづらかった。天子は不思議そうに首を傾げる。天邪鬼はその姿を見て、嬉しそうに笑った。その笑顔は正直に言って、不気味である。
「おっ、知りたいか?知りたいのか?———残念教えねぇ。だってオレは天邪鬼だからな!」
天邪鬼はまた笑って、走り去って行ってしまった。
……そうそう、行きたいところがあるのなら、お嬢さんの場合、いつの間にかたどり着くだろうよ……
去り際に聞こえた台詞。
「どういうこと……わっ⁉」
一陣の風が吹いた。砂埃が舞い、天子は思わず目を閉じる。こんなに強い風は初めてだ。風がバシバシと体に当たって痛い。目なんか、とても開けてはいられない。
「ああ、なんだ今の風?」
少しして風は収まり、目を開けられるようになった天子には先程手は異なる風景が見えていた。
周りに人はいない。そして、大きな屋敷が天子の目の前で自己主張していた。高い塀に囲まれて、存在感を出している。
どっしりとした門がいきなり、音を立てて開いた。
天子が驚いていると、一人の青年がひょいと顔を出す。
「あれ?……天狗の気配がしたんだけどなあ」
辺りをきょろきょろと見渡した後、天子に気づいたようで、警戒しつつ声をかけてきた。
「あんた誰?何か用?」
「失礼ですが、ここは源様のお宅でよろしいでしょうか」
と、天子は自分の目的地の住所を言った。
別にあの天邪鬼の言っていたこと信じるわけではないが、一応確認しておこうと思ったのだ。現在地すらわからないので、違ったら案内を頼もうと心に決めた。
「……ここは源家のものだけど、あんたは?」
しかし、天邪鬼の次は天狗か。なんかたくさんいるな妖怪……などと考えていることは表情に一切出さず、天子は一礼をした。
「私は、本日よりここで下宿する予定の、伊吹天子と申します」