第二話 忘却
僕――瀬文幻人は、それから逃亡という名の冒険を始めた。今回の話は、本田篤から聞いた話を基にした追体験として、綴ることにしよう。
本田は、公立病院に入院した。彼の両親が病室に駆けつけ、医者も何も言うことができなかった。
「どこも外傷が見られませんね。バイタルも正常、ただ単に、眠っているかのようですが、軽度の電気ショックや、強い光源を浴びせても、一向に起きんのですよ」
両親は、このまま植物人間になってしまうのではないかと、ひどく恐れた。
「おれは煙草を吸ってくるよ」
と、父親は喫煙所へと向かった。喫煙所には、一人のナースがいた。ナースは、軽く会釈して、場所を譲った。父親はライターを点火させ、メンソールを吸った。ナースは、小ぶりな胸をしており、ナース服越しの胸は平板で、顔は少しやつれていた。父親は、煙草のおかげで、少し精神の均衡を保てたようだ。ふと、ナースが尋ねてきた。
「悩みごとでも?」
父親は火を押し付け、
「俺ももう七十になる。息子に先に死なれるというのが、恐ろしくて仕方がない」
父親は少し涙ぐんだ。ナースは父親の傍に寄り、背中をさすった。
病室では、月村だけが、本田の傍にいた。彼女は、仲間に、自業自得だから、ほっとけ、と言われたのだが。月村は泣いていた。ゼミ室にいたときよりも、汚い泣き顔で泣いていた。彼の手を握っていた。その温もりが消えうせたらきっと、今にも自分は卒倒してしまうだろう。
それから、時が、月村君子と本田篤の両親の間を、静かに流れていくなか、事態が急転した。本田が目を開いたのだ。
「篤くん!」
「月村……」
月村は本田にだきついた。汚い泣き顔を彼の胸に埋めた。
「ああ……月村、いや、君子、俺はお前になんてことしちまったんだ……」
「いいの、いいのよ。それよりも瀬文くんが大変なの」
「瀬文……? 誰だ、そいつ?」
「へ?」
本田は、僕のことを一時的に忘れていたようだ。僕の異能のもう一つの能力……どうやらそれは、完全ではないが、殴った相手から、僕にまつわる記憶を消してしまうらしい。だが本田は、いろんな人から僕の話を聞いたことで、僕のことをほぼ思い出すことに成功したらしい。
「しっかりしてよ、篤くん」
「うん……ごめん、君子」
そして本田は、月村をしっかり抱きしめた。月村の胸元から、ネックレスに通した指輪がだらんと垂れた。
「飲み会に瀬文くんを呼んだのは、初めてだったから」
「そうだろうな、俺はあいつのことを知らないし」
月村は、とりあえずそういうことに話を流して、
「瀬文くんはいつも上野あたりを散歩して、ゼミに滅多に顔を出さなかったからね」
「ふうん。そんな奴なのか」
「だから私がエッチなことを、恋人であるあなたにああいう場でされるのが習わしになっているということを、彼は知らなかったのね。そのせいで私は泣いてしまった。あの展開だと、大抵、みんなで私を囲んでセックスするのが習わしだもの」
「恥ずかしいことを言うな。ああ、瀬文って奴、おもしろくねえな」
月村は、僕が本田を殴ったことを、今にも口から零しそうで、下唇が痙攣していたようだ。
「ということはつまり、俺は急性アル中で運ばれたってことか」
「そういうことになるのかな。お医者さんの話を聞かないと分からないけど」
「君子。ごめんよ。酒はほどほどにする」
「何も悪いことはしていないわ。私はマゾヒスト、悪いのは瀬文くんよ」
ふふっ、と本田は笑い、月村は本田の腕のなかで、そっとキスをした。