第八話
「今日は一人なんですか?」
頭上から降ってきた声に、ショウは顔を上げた。
視線の先には微笑む緑の瞳。
次の瞬間。
「ネフェル?うわ!こ、こんにちは!」
椅子を倒さん勢いばかりので立ち上がる。その声の大きさに、彼の後ろの席で本を読んでいた老人が顔をしかめた。慌てて彼に無礼を詫びると、ショウライナ・ダールは空いている隣の席をネフェルに勧めた。
「勉強のお邪魔だったかしら。」ネフェルは声をひそめる。
「いいえ!大したこと調べてないし……リィナ……じゃなかった、姉は忙しくて、今日はぼく一人なんです。ネフェルこそ、お一人なんですか?」
「後でお祖父さまが迎えに来てくださるの。今、評議会のお仕事中。」
ショウは一瞬考え、
「じゃあ迎えが来るまで、お茶でもいかがですか?」
「私もそう思ったところ。ここでは他の人の邪魔になってしまうものね。」
二人は書庫を出ると、天井まで吹き抜けになった聖堂の広間の一隅に向かった。中庭に面して机と椅子を並べたそこは、物見遊山の人々や打ち合わせで訪れた一族の面々が喉を潤す、あるいは発着する竜を眺める場所なのである。
運ばれてきた爽やかな香りがするお茶を飲みながら、ショウはこっそりネフェルを見た。
化粧気はないが金色の髪は綺麗に編み上げて、銀細工の髪飾りで留めている。衿のついた上着と服は緑の瞳を引き立てる深い赤で、決して派手ではないが彼女の知的な美しさを引き立てる装いだった。
ショウがネフェル・フォーン・オーロフに出会ったのはひと月ほど前。姉、リィナリエ・ダールの年上の友人として紹介された。リィナはショウより二つ年上の十七歳だが落ち着きがないせいか、よく似た癖のある茶色の髪と青い瞳のせいか、年子に間違えられることが多い。
ネフェルはそのリィナより二つ年上の十九歳。たった二歳違いなのにこの落ち着きの差はどうだろうと、ショウは心の中でため息をつく。
英雄の末裔であるオーロフ家の血筋で、両親はすでになく、今は祖父母と義兄夫婦と暮らしている……というのは兄、オーディエから聞いた話である。
「そういえばご両親、そろそろ戻ってらっしゃるんでしょう?」
ネフェルの言葉にショウは頷く。
「もう連合国内には戻ってるんだけど、届かない荷物を待ってるらしいんです。評議会や竜隊との連絡も滞ってるみたいで、それを届けるついでにリィナが迎えに行くことになったんです。」
「それでリィナ、忙しいのね。」
「両親に会うのが嬉しいみたいだし。」
「ショウは嬉しくないの?」
「そりゃあ無事に戻って安心してるけど、離れてたの三年くらいだし……」
あら、とネフェルが声を上げる。
「もっと長かったようにリィナは言っていたけど。」
「その前の赴任地は、ぼくも一緒だったんです。」
まだ小さかったから、とショウは付け加える。
しかしその次の赴任地が決まったとき、外交官の父親は一緒に海の向こうの国に行くか、それとも連合国に戻るか息子自身に結論を委ねた。その結果、つい先日までの三年間を彼は連合国内でも南に位置するカーヘルの州都、シンラータの寄宿舎で過ごしたのである。
「ガッセンディーアに戻らなかったのはちょっと寄り道のつもりだったのに……兄さんがあんなにうるさく言うなんて思わなかった。最後の半年なんて早く帰って来い!の一点張り。」
「気にしてもらえるのはいいことよ。」
「それはそうだけど……やっぱり一族としての体面もあるのかな。両親が戻ったらアニエとの契約の儀もすぐだろうし。」
十二歳年上の兄、オーディエ・ダールは竜隊に属する一族である。父親譲りの堂々とした体躯で竜と共に空を飛ぶ技量は隊の中でも高く、時には教官のようなこともしているらしい。両親の不在中はダール家の雑務をこなし、その中には弟妹の保護者代理も含まれていた。さらに彼は一族長老の孫娘と婚約していて、その契約の儀も間近だろうと一族の間で囁かれている。
「それに弟が離れた場所にいるのは、心配だったのね。」
「それって、ぼくのこと信用してないんですよね。」
「信用してなかったら、もっと早くガッセンディーアに戻れって言ったんじゃない?だって一族の男子は普通ガッセンディーアの学校に行くんでしょう。」
「絶対ってわけじゃないけど……兄さんみたいに竜隊に入るんだったら、ガッセンディーアかな。」
「ほらね。ショウの思うようにさせてくれてるんだもの。お父さまもお兄さまも、ショウのこと信用してるはずよ。」
「そうかな。」
「きっとそうよ。竜が下りてくるわ。」
中庭から聞こえる掛け声に、ネフェルは嬉しそうに空を見上げる。
その横顔を見ながら、ショウは呟くように言った。
「ネフェルは……どうして英雄時代の文字を勉強してるんですか?」
「昔からの夢。」
竜は翼を振り下ろすと、そのままゆっくり中庭に着地する。竜が翼を畳むと、背に乗った軍服の男が首を軽く叩きながら何事か話しかけた。
「黒き竜を退治した英雄ガラヴァルも、あんなふうに聖竜リラントと空を飛んだかもしれない。だからもしそういう記録が残っていたら読んでみたい。それに大昔の一族と空の民がどんな風に暮らしていたのか知りたいの。小さい頃、父から英雄の話をたくさん聞いた影響ね。きっと。」
彼女の父、スウェン・オーロフは英雄の血を引く一族の末裔。そして母は語り部と呼ばれる古い文字を読むことを生業としていた市井の人間であった。本来一族……それもオーロフほど古い血筋になれば、一族同士契約を交わさなくてはいけない。しかしネフェルの父はそれを拒み、正式な結婚をしないままネフェル親子と離れ離れに暮らしていた。そしてようやく一緒に暮らす目処が立ったとき、この聖堂で起きた事件に巻き込まれ命を落としたのである。その後母とも死別したネフェルは、語り部としての知識を買われ「神の砦」で暮らすことになる。
その神の砦に忍び込んだのがリュート・ラグレスで、彼との出会いをきっかけにネフェルは忘れかけていた英雄や空への憧れを思い出した。そんなこともあり、その後リュートたちの采配で祖父、デレフ・オーロフと出会ったとき、もちろんオーロフ家の意向や周りの進言もあったが、ネフェルはは自らの意思でこのガッセンディーアで一族として暮らすことを決意した。
今はまだ日々の生活に慣れることで精一杯だが、いつか英雄ガラヴァルが残した記録をこの目で見たい、文字を読みたいという好奇心は日に日に高まっている。
「もちろんすぐ読めると思わない。でもカーヘルにいた頃よりはずっと英雄に近づいたと思うし、こうして同胞の間近にいられることがとっても嬉しい。」
「ぼくは……そんな風に思えない。好きで一族に生まれたわけじゃないし、それほど飛びたいとも思わない。」
それに兄と比べられるのは苦手だ、と心のうちで呟く。
「もちろん人それぞれだと思うわ。それにノンディーアでは他に楽しいことがあったんでしょ?」
「学校は楽しかったです。友達も……すっごく良い先生がいたんです。真っ直ぐで、先生というより先輩みたいだった。」
「それが戻りたくなかった理由?」
「それもあるし、もう少し南の歴史を知りたかった。えと、その先生歴史が専門だったんです。だから今でもわからないこと手紙で聞いたり……あ、これ、兄さんには内緒です。今は新しい学校に慣れるようにって、そればっかり。」
「やっぱり心配してるのよ。」
「ぼくだってもう十五なのに。その先生、近いうちにガッセンディーアに来るんです。久しぶりだから楽しみで……っと、これも内緒です。」
「内緒にしなくても……でも嬉しい気持ちはわかるわ。私も大切な友達となかなか会えないから。」
「それ、リュートの婚約者のこと?ラグレスのおじさんと同じ、辺境の出身っていう。」
「そうよ。学校が休みのときしか、ガッセンディーアに来られないの。」
「なんか、リュートが結婚するって想像つかないや。女の人より銀竜と仲いいって印象だし、それに……」
「愛想ないから?」
頷きかけて、ショウは慌ててかぶりを振る。
ネフェルがくすくす笑った。
「って、ネフェルもそう思ってたんだ。」
「最初に会ったときそうだったの。」
へぇとショウは目を丸くする。
「でもミヤコのこと話すときは楽しそうだし、二人とも、本当に思いあってるんだなぁってわかるの。」
「なんか……信じられないや。」
兄の幼馴染で竜隊の同僚であるリュートは同胞や銀竜に造詣が深く、自身の名付けた銀竜を常に一緒に連れているほど。そんな真面目な性格のせいかそっけないところもあり、それゆえ女性に対して馴れ合うというのがまったく想像できない。
「そのミヤコって人、若いんだよね。なのにわざわざ契約するってことは、一族に縁のある人なのかな?」
「詳しいことは聞いてないけど、政略結婚とか意図のあるようには思えないわ。ラグレス家の方もミヤコに対して好意的だし……」そこまで言ってネフェルはにっこり微笑む。
「何より銀竜を名付けるなんて、素敵だと思わない?」
「お祖父さま!」
書庫の前で呼び止められた。
「良かった!行き違いにならなくて。あちらでショウライナと竜を見ていたの。」
駆け寄る孫娘に老オーロフは目を細める。
「ダール家の末っ子か。珍しいな。」
「書庫でお会いしたんです。リィナ、ご両親を迎えにトゥトスに行くんですって。」
「さきほどガイアナ議長に聞いた。オーディエの契約の儀もあるから、ダール家は大忙しなのだろうな。そうだ。これを預かってきた。」
オーロフが差し出したきれいな封筒に、ネフェルは目を丸くする。
「ミヤコからの手紙!クラウディアさん?」
「いいや、カズトだ。」
「ハヤセさん、こちらに戻ってらっしゃるの?」
「友人に会う用があるとか……数日はガッセンディーアにいるらしい。それと、」オーロフは片目をつぶった。
「ガイアナ議長の許可が出たよ。」
はっとネフェルは息をのむ。
「もしかして、調査記録の閲覧?」
「ああ。」
「本当に?」
みるみる笑みが広がる。
「聖堂から持ち出すことはできないが、条件付で報告書を閲覧できるそうだ。」
「ありがとう!お祖父さま!」
「礼は私でなく、クラウディアに言うんだな。お前があの……神の砦の件の当事者だと、再三説明してくれたそうだ。夫君にも。」
「嬉しい!私、お礼の手紙を書くわ!ううん!明日もう一度ここに来て、直接お礼を言う!」
そこまで言って、ネフェルは手にした封筒をぎゅっと抱きしめる。
「ミヤコにも知らせなくちゃ!私たちが出会ったあの遺跡の記録を見ることができるって!」
お久しぶりのネフェル嬢登場ですね。彼女との冒険談は三作目「白き翼の盟友」をご覧ください。
ということで、来週も火曜日に更新します。