第六十三話
浮遊感。
白い霧が広がる。
雲だろうか。
本当に飛んでいるわけでないが、思わず両手を広げバランスを取ろうとする。
そして思う。
これが、空を飛ぶということか……と。
雲が切れた。
眼前に、無数の光が広がる。
その明るさ、光の渦といっても過言ではない。
想像もしなかった繁栄の光景に男は息を呑む。
それは、黒き竜と呼ばれる古の魂が見ている光景そのもの。
彼は呟く。
「これが……神の世界……これが、門を越えた世界なのか?」
突如光った空に、波多野は肩を竦めた。
「雷?」
「季節外れもいいとこだけど……」と、呟きながら栄一郎もフロントウィンドウを覗き込む。
再び光が走った。
しかし音は聞こえない。
栄一郎は車の外に出ると空を見上げた。雨粒がレンズに落ちて視界を遮る。苛立って眼鏡を外すと目を細め、竜杜と都がいる場所の上空を見た。
「なんか……変じゃないすか?」
いつの間にか隣に来た波多野も気づいたらしい。
「空が光ってるの、この辺だけすよね?」
それに不穏な気配が充満してるのも。
「たしかに。ここだけ異常気象が起きてるみたいだ。」
「あいつの……せい?」
「わからない。」
しかし、何か普通でないことが起こっているのは明らかだった。
竜杜は手の中にある石の欠片を握り締めた。
見上げると、厚い雲の間から降る雨は冷たく、視線をずらした下には浮遊しているフェスの姿。
彼らがいるのは校庭の、校舎を背にした一隅。
そして校庭の真ん中では、都の身体を借りたリラントが空を見上げていた。
その瞳が、はるか上空の白い点を捕らえた。
「わが分身の子、コギン!」
竜の咆哮が応える。
「奴に欠片をくれてやれ!」
次の瞬間。
小さな光が一つ、ゆっくり地上に向かって舞い落ちる。
それを目がけて物凄いスピードで降下する黒い靄。
靄は地上すれすれで止まると、落ちてきた光を呑み込んだ。
赤い瞳が光り、靄が竜の姿に転じる。
黒い竜は咆えると、突如もだえた。身をよじり、地面をのたうちまわる。
苦悶の声を上げる様子を見ていたリラントは、つと前に出ると声を張り上げた。
「聞こえているのだろう、黒き翼!」
ぐるる、と唸る声。
「われを思い出したか?それとも己が同胞のことなど忘れたか?」
“……リラ……ント……”
ほう、と相手は目を細める。
「われを覚えていたか。ならば言いたいことはわかるな。いくらこの世界で彷徨ったところで、お前の探し人はいない。」
“……うそだ……”
「気づいていたはずだ。気づいていながら呪術師たちの口車に乗ったのだろう。」
“……ひとり……”
「一人残されたのはわれも同じ。愛しいものを失って悲しいのは、お前だけでない。」
“……なぜ……”
「それは……わからん。あえて言うなら、神がわれらに下した試練。」
“……だまされた……”
「お前の口惜しさはようわかる。しかし、すでに遠い昔のこと。それを蒸し返して何になる?」
“おまえは……くやしくないのか?ひきさかれて……”
「口惜しいより、悲しかった。だが今は、感謝している。」
黒い竜が首をもたげる。
「この娘のおかげだ。」
“……なん……だと……”
「なぜお前がこの娘を執拗に狙ったのか、なぜこの娘に魅かれたのか、わからぬか?」
“……まさか……”
「そうだ。この娘こそ、彼女らの血を継いだいとし子。」
ああ、とため息に似た声が洩れる。
「彼女が命を賭して守った門がこの先も在り続けるために、われらは戻らねばならぬ。」
“……もどる……”
「そうだ。われらの同胞が舞う空へ。」
“そら……われらのこきょう……”
“……させる……か!”
声が重なった。
それはもう一つの人格。身体を提供していた男の声。
“……勝手なこと……言ってんじゃねーよ!”
苦しげに胸を押さえる男の姿が、蜃気楼のように浮かび上がる。
「こいつは、オレが見つけたんだ!勝手に戻るなんて、許すわけねーだろ!」
息巻く男をリラントは冷ややかに見下ろす。
「……執着しているのはお前か。」
「こんなすげー力、簡単に手放すわけねーじゃん!」
「どうしても、か?」
「てめーと竜騎士殺ったら、考えてもいーぜ。」
立ち上がりざまに、男の手が黒い靄を繰り出す。
靄は触手のように伸びると、リラントに襲い掛かる。
リラントが跳んだ。
急降下してきた白い竜の背に飛び乗り、触手をかわす。
「コギン!奴を地上から引き離せ!」
しかし白い竜は「ぎゅう」と首を振る。
「飛べない、だと?」
どうして、と空を見上げたリラントは舌打ちした。
「呪術師たちめ!」
黒い雲が渦巻き、稲妻が走る。
あってはならない通路の、最初の兆し。
歪められた大気のせいで、実体でなくとも、竜は思うように飛ぶことができない。
実際、コギンは執拗に飛んでくる触手をかわすので精一杯だ。しかも空が光るたび、その動きは緩慢になる。
まずい!と思った瞬間。
黒い靄にはじかれた。
「ぎゃう!」と叫ぶコギンの鱗にしがみつく。
大気のせいもあるが、女子の身体では動きが制限される。なにより無茶をしてこの身体にダメージを与えるなど言語道断。
と、眼下に人影。
竜杜だった。
黙って見ていられず、瞳の欠片をフェスに預けて待機場所から駆け出したのだ。
対峙した男がニヤリと笑う。
「そうこなくちゃ!こいつの仕返し、まだしてねーしな!」
男は袖をめくり、腕に走るケロイド状の傷跡を誇示した。
「これと同じ……じゃつまんねーよな。いっそのこと顔にすっか?」
「お前に構ってる暇はない!」竜杜は叫んだ。
「アンリルーラ・マーギス!」
「は?」
「こいつを止めろ!大地の巫女の血を引くあんたなら、できるはず!」
「るせぇ!黙れ!」負けじと男が叫ぶ。
が、次の瞬間。
「うぐっ……」と呻いた。
身をかがめ、頭を押さえる。
「やめ……やめろ!うわぁぁあ!」
一人叫ぶと、倒れ込んだ。
「フェス!」
“いまだ!”
耳元で聞こえた声を合図に、竜杜はフェスが放ったリラントの瞳を両手で受け取った。そのまま腕を前に出し、言葉を唱える。
「一族の息子、リュート・ハヤセ・ラグレスが命じる!リラントの力、われと白き翼に与えたまえ!この者を在りし場所へと還すため、盟友の瞳へと戻すために!」
ぶわっ、と手の中から光が溢れる。
その光は、男の背後に一つの輪郭を描き出す。
竜だった。
しかも影でなく、黒く光る鱗に覆われた、大きな翼の空の竜。漆黒色の屈強な、そして堂々たる姿に竜杜は思わず目を奪われる。
竜は空に向かって咆哮すると、金色の瞳で竜杜を見た。
光が強くなる。
“目を閉じろ。”
耳に聞こえた声に従って、竜杜は目を瞑った。
悲鳴を上げながら、赤毛の男は両手で顔を覆った。
突如生じた、まばゆい光。目を閉じても光を遮ることができず、何も見ることができない。
「先生!一体……」
ことの成り行きを見守っていた若い男も、突然の出来事に狼狽する。
「眩しい!やめてくれ!」
ヒィヒィ叫ぶ男に恐怖すら感じる。思い余って彼は部屋の外に飛び出した。
「誰か!」
「呼んだか?」
叫ぶと同時に応えた声に、若い男はすがる思いで「助けてください!」と言った。
「いいとも。人助けは我々の仕事だからな。」
そう言ったのは日に焼けたいかつい顔の男。その制服を見るなり、若い男はみるみる青ざめた。
「なんだ、我々じゃ役不足か?」
「い、いいえ……」
「ちょっと話を聞かせてもらおうと思ったんだが……」そう言ってガッセンディーア公安のオルフェル巡査長は部屋の中を覗いた。
「どうやら、その前に救護が必要なようだな。」
どれくらい経ったか。
瞳の欠片を持つ手に柔らかなものが触れて、竜杜は我に返った。
目を開くと、そこには恋人の姿を借りたリラント。添えられた手に導かれて指を開く。
「色が……戻ってる。」
手の中の石は少し前まで滲んでいた赤色は見えず、透明な緑が光っていた。
「奴はこの中に戻った。」
「あんたの合図のおかげだ。」
「われではない。」
「え?」
「黒き翼が自ら発した。だが機転を作ったのはお前だ。ようやったな、アルラの子。」
確信があったわけでない。ただ巫女が呪術の道標であるなら、門を開くほどの起爆剤になるなら、その逆もあるかと思ったにすぎない。
「巫女の名を知っていたのは幸運だったな。さて、と。」
リラントは座り込んでいる男の前に立った。
男は上目遣いに二人をにらみつけ、
「あれを返せ!」
「返すも何も……もうこの世界にはおらん。」
「アレがねぇと……アイツまで……」
がくり、と男の体から力が抜ける。
「アイツ?」
「会わせてやるって約束したんだ!帰りたいって言ったんだよ!」
「アンリルーラ・マーギスのことか?」
竜杜の言葉に、男はきょとんとする。
「なんだ?ソレ?」
「お前の中にいるもう一人の名前だ。」
「そうだよ。」
突然、口調が変わった。
リラントが手を差し出す。
「アンリルーラか?」
「本当に……リラント?」
差し出された手に掴まって立ち上がりながら、目を丸くする。
「アタシ……ずっと憧れてた。すごい……」
ああ、と竜杜は思い出す。
「おじさんにもらったリラントの人形、大事にしてたんだったな。」
「村の神舎で落としちゃったけど……」
「お兄さんが見つけて、おじさんが預かってる。」
「ホント?」
不思議なことに、男の身体のはずなのに、その笑みは間違いなく少女のそれ。ほっと胸をなでおろす姿に、リラントも優しい笑みを向ける。
「お前のおかげでわられは命拾いした。改めて礼を言う。」
「空の民は帰りたがってたから。アタシもずっと帰りたかった。ノイゼット司祭さまに知らないとこに連れてかれて、ずーっと。でもさっき竜騎士さまに名前呼ばれたとき、わかったの。アタシ死んじゃってるから帰れない。だから、空の民には帰って欲しかったの。」
「辛かったな。」
ううん、と首を振る。
「最初は暗くて冷たくて嫌だったけど、そのうち一人じゃなくなったから。」
「この男か。」
「いつも傍にいてくれた。それに、これからも。」
「そやつが、言ったのか?」
「言葉じゃないけど、そう思ってる。なんとなく……わかるから。」
えっ!と竜杜は驚く。
「それじゃまるで契約だ。」
「まるで、じゃなく契約関係そのものだ。」
えっ!と当事者も目を丸くする。
「アタシ、一族じゃない!」
「大地を歌う乙女の血筋なら、一族も等しい。」
「そーなんだぁ。聖竜さまが言うなら確かだよね。なんか嬉しい。」
一人納得する少女の魂に、リラントは改まった口調で言った。
「アンリルーラ。今一度、お前に……いや……お前と契約相手に聞く。門の向こうへ戻りたいか?それともこのままの姿でこの先を生きるか?」




