第六十話
冷たい風に、身震いする。
「木島!」
頭上から降ってきた声に、都は驚いて飛び起きた。
「波多野……くん?」
「良かったー。」
彼女の傍らで、波多野は長い息を吐き出す。
「目ぇ覚まさないから、マジ心配した。」
「ごめん。」と言ってから、都は辺りを見回した。
見覚えがない場所。
体の下はざらつくコンクリート。
見上げれば、すでに暮れつつある空は暗く、今にも雨が降り出しそうな雲が垂れ込めている。吹き抜ける風の冷たさに身震いする。
「ここ、屋上?学校……みたい。」
ジーンズをはたいて立ち上がり、手摺に近づく。
「オレらの隣の学区の小学校。統合で廃校になって体育館と校庭だけ貸し出されてる。」
何度か柔道の練習で体育館を使ったことがある、と波多野は言った。
今いるのは校舎の屋上で正面はグラウンド、そして波多野の話だと校舎の裏手に体育館があるらしい。右に目を向けると幼稚園か保育園らしいものが隣接していて、左にはこんもりした森のような茂みが見える。
「神社だよ。正月なら賑やかなんだろうけど……グラウンドも今日は利用日じゃなさそうだし。」
確かの人の気配はない。
「あそこも閉まってる?」
錆びの浮いた階段室を指差す都に、波多野は頷いた。
「せめて三階建てくらいなら降りるんだが、さすがに五階建ては……」
手摺から下を覗き込む幼馴染に、都はふと首をかしげる。
「そういえば、なんで波多野くんがいるの?」
はぁ?と波多野は目を丸くした。
「あそこでなにがあったか、覚えてねぇのかよ!」
「あそこ?」呟いて「あっ!」と思い出す。
コギンを空に飛ばした直後、背後に気配を感じ振り返ったら、あの男がいたのだ。その後の記憶はない。
「あの野郎、階段上がってきた気配もないし、オレらをどうやってここに運んだのかもわかんねーし……」
「言ってもわかんねーだろ。」
うわっ!と波多野が飛び上がった。
くっくっ、と男が笑う。
「どんくせーのな。」
GジャンにTシャツ、キャスケットに黒く短い髪。
以前と見た目の雰囲気は違うが乱暴な喋り方と、人を見下す態度は変わらない。
「言っとくけど、お前らふたり餌だから。」
「目的は、リュート?」都は男を睨みつける。
「決まってんだろ。」
「だったら波多野くんは関係ないでしょ!」
「ギャラリー多いと、やる気出んだよね。それにさ、あんた殺したら証言してくれる人、いなくなっちゃうじゃん。」
「殺すとか、勝手なこと言ってんじゃねーよ!」波多野が咆えた。
「勝手じゃねーよ。だってそいつ、死に損なってんだぜ。」
「んな話聞いてねーっての!」
「あいつが助けちまったからなぁ。でも……」と、男は都に歩み寄る。
思わず後ずさるが、あっという間に手摺を背に追い詰められた。
「次はねーんだろ?」
男は下卑た笑みを浮かべると、都の細い首に手を伸ばした。
「の、やろ!」
波多野がすかさず男の腕に手をかける。
次の瞬間、男よりも大柄な波多野の身体が空を舞った。
「波多野くんっ!」
跳ね飛ばされ、コンクリートに叩きつけられた波多野は、何が起きたのかわからず痛みに苦悶する。
「うぜーよ!てめーが動けばこいつの首、へし折るからな!」
彼が手に力を入れれば、今触れてる首を折るのはたやすいだろう。
首元に触れる冷たい手の感触に、都はコクリと唾を飲み込む。
あのときと同じ恐怖。
でもあのときと違うのは、この男が何者か、そして誰を待ってるのか知っている。
震える声を振り絞る。
「リュートは……来ない。だっていないから。」
「いーや、こっちにいる。」
「うそ……」
「嘘じゃねーよ。」
“われのちから。”
耳の奥に声が響いた。
“われのみちしるべ。われのかて。そのち。”
まるで地の底から湧きあがるような声とも音ともつかぬものに、心臓が大きく跳ねた。血の気が引き、冷たいものが身体を駆け抜ける。
そうだ。初めて襲われたときも、命を落としそうになったときもこの声を聞いた。
“ちからのみなもと。ひとみのけいしょう。みちしるべ。”
その声に誘われるように、一つの映像が脳裏に流れる。
音はない。
それにひどく視点が低い。
地面に近いところから見えているのは車のタイヤ。その先のアスファルトは道路だろうか。
画面が揺れる。明らかに不自然な蛇行の末、激しい衝撃に包まれる。
思わず目を閉じた。
と。
「ぎゃあ!」
空に目を向けると、物凄い勢いで落下してくる白い影。影は急降下すると男に向かって火を噴いた。
「っ!」
思いも寄らぬ攻撃に一瞬、男の手が緩む。
都は男を蹴り上げた。
そして男を突き飛ばすと、階段室に向かって一目散に走る。
自力で立ち上がった波多野が、駆け込んできた都を後ろ手に庇う。
いきなりダッシュしたせいでむせる都に波多野が「大丈夫か?」と問いかける。
「うん……大丈夫……でも……」
思い出した。
あの映像を見たのは二度目。最初に見た時も同じように首を絞められ、殺されかけた。そのショックが強くてすっかり忘れていたが、たった今、それが何を意味するのか理解した。
あれは、この男に寄生する前の“黒き竜”の記憶。
あの記憶の場所を、都は知っている。
三年前、冴と一緒に花束を手向けた場所。
母親が事故を起した現場の風景。
それの意味することはただ一つ。
「あなたが!あなたがお母さんを殺したの!」
「そんときゃまだ、オレじゃねぇ。それに瞳の後継者を教えなかったは向こうだぜ。」「わたしが瞳の後継者だなんて、誰も知らなかった!わたしだって!お母さんだって!」
ただ恋人の形見としてあの万年筆……瞳の欠片といわれる石を持ってたに過ぎない。
「あー、それで通じなかったのか。取り付こうとしたら拒否られて事故ったって。」
しょうがねーよな、と言って男はけらけら笑った。
その瞬間。頭の中が真っ白になった。
心臓が早鐘を打ち、声が震える。
「しょうがない?しょうがないって、なに?」
激しい憤り。思考が止まり、感情が止めどなく溢れる。
「おい、木島……」
「黙ってて!」
ぴしゃりと言い放つ。
「絶対……絶対!門の場所は教えない!瞳の欠片も渡さない!」
「いきなり強気に出んじゃねーよ。」
「ぎゃう!」
再び銀竜の声。
見上げると、白い小さな竜が頭上でホバリングしている。
「コギン!」
「うぎゃ!」
「力を貸して!」
「ぎゅう!」
「へっ?」
都は耳を……いや自分の感覚を疑った。
「ちょ、ちょっと!声って……今ここで?」
コギンはすばやく都の真上に来ると、何かをポトリと落とす。
慌てて両手で受け取ったのは、カバンに入っていたはずのボイスレコーダー。
そして都がいいとも悪いとも言うより先に、彼女の肩に止まって金色の目を閉じる。
「ってコギン!今、そういう時間じゃない!」
“ミヤコさん、マーギスです。”
「ああ、もぉ……」
がっくりと頭を垂れる。
けれど反射的に録音スイッチを押したのは、習慣のなせる技だろう。
突然、銀竜から流れ出た声に、男は怪訝な表情をする。
“実はガッセンディーアで騒動がありました。そちらの世界に向けて呪術が放たれた可能性があります。”
「外国語?ってか木島、何言ってるかわかんの?」
目を丸くする波多野を、都は「しっ!」と制した。
“まだハッキリしていませんが、神の砦の事件の首謀者と繋がってる可能性があります。リュートがそちらに戻ったので、詳しいことは彼から聞くことができるでしょう。それから、彼が戻ったらちゃんと手当てするように……”
突然、呻き声が聞こえた。
見ると男が喉元を押さえて悶絶している。
「出るな!お前にはかんけーねぇ。引っ込んでろ!」
姿のない何者かに向かって叫ぶ。
「消えろ!司祭だかなんだかしらねぇってんだろ!」
司祭、という言葉に都はハッとなった。
「もしかして……黒き竜のほかにも、誰かが中にいる?」
「お~い。さっきから意味不明なこと言ってるぞ!」
「だとしたら……」
「木島!」
喚く波多野を無視して、都はコギンに命じた。
「白き翼の盟友、今の声を最初からもう一度!」
命じられたとおり、コギンはマーギスの声を最初から流した。
男がピクリと震える。
そして。
顔を上げると呆然と銀竜に向かって歩み寄る。
「マイゼルおじちゃんの声……」
その声音は、さっきまで口汚くののしっていた男とはまるで別人だった。
「おじちゃん……どこにいるの?」
か細く今にも泣き出しそうな声に、都は混乱した。
「マイゼルおじちゃんって……まさかマーギスさま……じゃないよね?」
相手が驚く。
「おじちゃんのこと知ってるの?」
次の瞬間、それは笑顔に変わる。
「そうだよね。おじちゃん、神舎でたくさんの信者さんに会ってるんだもん。」
「神舎……って……」
間違いない。
目の前の人物が話してるのは、自分が知ってる聖職者のこと。そして彼をおじちゃんと呼ぶのは……
「アン?」
相手が目を丸くした。
「アンリルーラ・マーギス?」
「アタシ……アタシのなまえ……」
「ほんと……に?」
都の頭の中をハテナマークがぐるぐる駆け巡る。
「ええっと、その、マーギスさまにあなたのこと聞いたの。マーギスさま、今、ガッセンディーアで司教さまをしてて……」
「司教さま?おじちゃんが?すごい!」
「それで、アンはどうしてそこにいるの?」
「わかんない。」
「その男の人とどういう関係?」
「わかんない。でもときどき、お話ししてる。」
「ねぇ……」
都がレコーダーをポケットに入れて一歩前に出ようとしたとき。
コギンが鳴いた。
瞬時に感じる殺気。
「近づくんじゃねぇっ!」
男は肩で息をすると、二人に向かって黒い靄を伸ばす。
波多野が都を突き飛ばした。
「だめぇっ!」
都は叫ぶ。
波多野には関係ない。むしろ彼を守らなければいけないのは自分。
あの男に対抗できる力がほしい!
(ならば……)
ふいに耳元で声がした。
(その言葉、われに貸せ!)
竜杜はフルフェイスのヘルメットを脱ぎ捨てた。
すでに辺りは日が暮れ、しかも雨の降りそうな湿気が鼻腔をくすぐる。
頭上にいるはずのフェスの眼を使ってフェンスの向こう側を凝視するが、二人の姿は確認できない。しかし先に飛んで行ったコギンがいると主張しているなら間違いないだろう。なによりここにきて感じるのは、神経を逆なでする気配。
フェスが防犯カメラの向きを変えたのを確認すると、竜杜は裏門に手をかけた。添えた左手の痛みに思わずうめき声をもらす。
それでもどうにか乗り越え、着地する。
その目に飛び込んできたのは……
「遅かったじゃねーか。竜騎士さんよ。」




