第五十三話
足元に光の点が見える。
夜中にこんなにも光があるのかと、メッサは驚いた。
何よりガッセンディーアに勤務して二十年になるが、まさか竜の背に乗って空を飛ぶことになろうとは思いもしなかった。
けれど今、確かに自分は竜の背に乗り、日々守ってきた街を眼下に望んでいる……ただし、夜中なのではっきりと見えないが。
見上げると、影の月がやけに大きく感じられる。
竜が翼を大きく動かした。
ぐんと高度が増すたび、空気が冷たい。耳当てのついた帽子越しでも、風の唸る音が聞こえる。
そんな過酷な状況でも、すぐ前で竜を御するオーディエ・ダールは毅然と前を向き、飛ぶ方向を見定めている。
いつも地上から見ていた彼らがこんな風に飛んでいたことに、メッサは改めて感心した。
と、ダールが肩越しに叫んだ。
「しっかり掴まってろ!」
メッサは頷くと、自らの身体を固定しているベルトを握った。
風が重いと感じたのは、最初だけだった。
一度向かい風に乗った翼は、一気に高度を上げる。
それまで飛ぶのに乗り気でなかった竜も、上昇して身軽になったのか、命令どおりに高みを目指す。
ホムスゥトにしてみれば緩やかな上昇だが、後ろに乗っている巡査には辛いはず。時折、唸るような歯軋りのような声が風に乗って聞こえるが、文句を言わないのはさすがだと思う。
ふと、自分が初心者の頃を思い出し、人のことは言えないなと苦笑する。配属されてからも思うように飛ぶことができず、学生時代の教官だったリュート・ラグレスに指南を頼んだのだから。彼とオーディエ・ダールの飛行は学生達にとってこの上ない見本であり、憧れだった。
そんな先輩の個人講習で学んだ助言はただ一つ。
「同胞を信用すること」
もちろ竜の翼を信用しなければ、空を飛ぶことはできない。けれどホムスゥトの心のどこかで、飛ぶことへの不安があったのは否めない。だからその言葉を言われたとき、見透かされたようでドキリとしたのだ。
もっとも彼が言いたかったのは「ときには竜の本能的判断が頼りになる」ということだったらしいが。
その日から、ホムスゥトは背に跨る前に必ず竜の瞳を見て、声をかけるようになった。リュートを真似ただけだがそうやって話しかけると、全てを任そうという気持ちになれたし、おかげで飛ぶのが楽しくもあった。
しかしまさか、その成果がこんな形で試されると思わなかった。
出動前、ホムスゥトは竜の前に立ち今回の任務の内容を伝えた。それはどこか自分自身に言い聞かせるようでもあった。相手が言葉を全部解したと思ってないが、覚悟は間違いなく伝わったと信じている。
だから今は全てを任せ、ただ飛ぶのみ。
ホムスゥトは踵で竜の脇を何度か叩いた。
背後で深呼吸をする気配。
ホムスゥトの合図に応えて、竜は垂直に近い角度で降下する。
束の間、呼吸さえままならない風圧に包まれる。
耳の奥が痛い。
やがて。
雲を抜けると、地上の灯りがチラチラ見える。
その中から、空に向かって突き出たものを目で捕らえた。
神舎の塔だ。
竜が自ら垂直飛行に移ると、ホムスゥトは後ろに向かって叫んだ。
「降ります!」
竜が塔の横でホバリングする。
先に最上層に下りていたメッサが手を伸ばし、竜の背から自分の部下を引き摺り下ろした。
彼の手が言葉を伝える。
竜隊で使う手話だった。
「ごくろうさま」
手の動きがそう伝えるのを確認すると、ホムスゥトはすぐに飛び立つ。
来たときと同じように一旦高度を上げ、かつて見張り台があった丘の真上へ急降下。
仲間の顔が見える距離に来ると、ホムスゥトは手をのばして固い灰色の鱗に触れた。
「任務完了、だな。」
「来ました!」
小さな窓から外を伺っていた修士が、転がるようにやってきて報告する。
思わず祈りの言葉を口にしたメルヴァンナに、医務官は「大丈夫ですよ」と言った。
「マーギスさまができると判断したなら大丈夫。それより、こちらもそろそろですね。」
「ええ。みなさん、なるべく奥にいてください。」カフタが頷いた。
「扉の向こうが多勢ということもありうるので。」
カフタとオゥビは閉ざされた扉の前に立つと、顔を見合わせ頷き合う。そして扉を力任せに拳で叩いた。
「急病人が出た!開けてくれ!」
「発作で、薬が必要です!」
何度か繰り返す。
と、扉の向こうから「今、必要なのか?」と、くぐもった声。
「すぐ必要です!でないと……」
カフタが言い終えないうちに、扉の向こうから「うっ」という呻き声。
ややあって、扉がほんの少し開く。
隙間からすばやく入ってきたのは黒い上着を着た二人の男だった。袖には公安の地位をそれぞれ示す縫い取りが入っていて、それぞれの肩には、気を失った黒い外套に黒い頭巾の見張りを担いでいる。
カフタが扉を閉めると、男の一人が気を失っている見張りから外套を脱がした。ついでに黒い頭巾を取って自ら纏うと、また扉の外に出て行く。
もう一人の男は、気を失ったままの二人を手際よく縛り上げた。
「メッサ副署長!」
思わず声を上げたメルヴァンナを、メッサは「静かに!」と制する。
メルヴァンナは慌てて口元を押さえ、
「なぜあなたが?」
「その経緯は、これが終わったらご説明します。ええと、オゥビ修士とカフタ修士?」
メッサに問われて、二人は名乗る。
「本当に、塔の上から降りてきたんですか?」
「マーギス司教に指示されたとおり、鐘を上げ下ろしするための滑車を吊るす金輪を使いました。」
「中庭側に降りれば木も多いので、落ちても大丈夫でしょう。」
そうマーギスの言ったとおり塔の足元は繁みで、むしろそれを乗り越えるのが大変だった。
「情報どおり塔の上に見張りはいなかった。塔の階段の入り口に二人いたが、部下が拘束した。」
「公安は全部で何人です?」
「おれを入れて四人。」
それが竜で運んでもらえる最大だった。決して多い人数でないが、すでに五人の見張りを倒すことができたので拍子抜けしたと、メッサは言った。
「やはり、素人のようですね。」オゥビも頷く。
「ああ。こいつらも、そっちの陽動に気をとられた一瞬に……」と、メッサは殴る仕草をする。
「こいつらに見覚えは?」
「礼拝でも見たことありません。若い信者は少ないので、列席していれば目に付きます。」
「と、すると、どこの誰なのか……」
メッサは目を覚ます気配のない男の懐を探った。
「身元を証明するものは……ないか。と、なんだ?」
引っ張り出したのは、文字の書かれた紙片だった。
「それ!」
カフタが叫ぶ。
オゥビも頷き、
「ショウライナ・ダールが持ってたのと同じだ。」
三人は顔を見合わせる。
「てことは、手配中の先生のお仲間か?」
炎が揺れた。
入ってきた足音に、老人はあからさまに顔をゆがめる。
が、相手の様子からただ事ではないと思い直す。
「なにがあった?」
「外で……公安が門を壊そうとしてます。」
老人は唸った。
「先ほどから騒がしいのはそのせいか。」
壁の外から風に乗って人の声と、慌しい気配は感じていた。
と、
ドォン!という大きな音。
そして鈍い振動。
一心に祈っていた者達がざわめく。
「あとわずかだというのに……」
老人は口惜しそうに顔をゆがめると「仕方ない」と呟いた。
頭巾を外して礼拝堂をぐるりと見回す。
「祈りの時間は終わりです。」
反論する者はいなかった。
まるで最初からそうなることがわかっていたかのように、みな無言で立ち上がる。
そのとき。
いっそう大きい音がした。
「老師どの先に!」
そう言われて老人が歩を早めたそのとき。
出口をふさぐ影が二つ。
「ここは通しません。」
ルァ神に仕える修士だった。
老人は傍らの男を鋭い眼差しで見る。
「見張りをつけたのでなかったのか?」
「つけました。」
「見張りの人には少し、休んでもらってます。そしてあなた方には、ここに残ってもらいます。」
ほう、と老人は目を細める。
「我々は場所を借りたに過ぎない。誰かを傷つけたでないし、壊したわけでもない。」
「それは承知してます。」
言ったのは、修士の後ろに控えていた中年の男だった。暗がりで気づかなかったが、その腕にある印に老人はハッとなる。
「公安……いつの間に。」
「いっとくが、礼拝堂の出口は全部おれの部下が見張ってる。」
そう言ってメッサは紙片をかざした。
「あんたたちに聞きたいことがいろいろ……」
突然。
「うぉー!」という叫び声。
老人の後方にいた一人が、メッサに向かって突進した。
「やめなさい!」
老人が叫ぶと同時に、男が短剣を振りかざす。
二人の修士がすっと左右に身を引いた。
と、思ったとたん。
勢い込んで突進した男が、二人の出した足につまづいて派手に転ぶ。
間髪いれずにオゥビが男の手を踏みつけた。
「あうっ!」と叫んで手を離した隙に、カフタが短剣を蹴る。
最後にメッサが男の手を後ろにねじ上げるまで、実に瞬き二つ分もかからなかった。
犯人捕獲の知らせは、夜明けと同時にガッセンディーアを駆け巡った。
もちろん、アデル商会の倉庫で待つクラウディアの元にも。
「メルヴァンナ司祭も無事でよかった。」
「でも現場の検分が終わるまで、レイユを連れて戻るのは危険だろーな。」
「私もそう思います。」
コンロッドの言葉にバセオも同意する。
「ひとまずカフタとオゥビがいるので、メルヴァンナさまの身辺は大丈夫でしょう。」
「一件落着って感じじゃない御仁もいるが?」
とメラジェが示す先には、腕組みをして考え込むポーズのトラン・カゥイ。
「何が気になるんだ?」
「あっけなさ過ぎる。目立つことをした割に、抵抗しないのが気になるんです。」
「そりゃー気が済むまで祈ったからじゃねぇのか?」
「そもそも、何のための祈りだったのでしょう。」
「確かに興味深い。しかし、その結論を出すには休息が必要だ。」言いながらメラジェも欠伸を一つ。
クラウディアがクスリと笑った。
「同意するわ。連絡が来るまで休んでちょうだい。」




