第五十二話
それは不思議な音だった。
人の声でありながら獣の唸り声のようでもあり、時には風の音のようでもある。謡のようでもあり、異国の言語のようにも聞こえる。
ただ共通しているのは黒い外套をまとったその男たちが唱える声は低く、外に洩れぬほどひそやかな音量だということ。
どこからか吹き込んだのか、隙間風で祭壇に並んだ火が揺らめく。
その光が照らすのは、深い皺を刻んだ男の横顔。まとった黒い布から覗く白い髪に、炎が赤く照らし出される。
その祈りの先にあるのは、黒い小さな像。
本来は主神ルァの像がある場所に、それは鎮座していた。
かろうじて人型とわかるものの、古びて、細かい部分は摩滅している。
だが彼らは知っている。
それは流浪の歴史。
長い年月迫害され、脈々と受け継がれた歴史そのものだということを。
中庭を抜ける生暖かい風に、リュートは思わず空を見上げた。
その拍子に、空を漂う白い生き物を目の端に捕らえる。傍らには注意深く歩く女性の姿。
「ヘンリエータ?」
「その声……リュート?」
応えの代わりに、彼はヘンリエータ・ハンヴィクに駆け寄った。
ヘンリエータの見えない瞳が上を向き、リュートの気配を感じ取る。
「いくら聖堂だって一人で出歩く時間じゃない。ハンヴィクさんは?」
「父は疲れて休んでるわ。トーアが落ち着かないみたいだから、少し風に当たってたの。」
彼女の傍らにいた銀竜が、リュートの前にふわりと飛んでくる。
あら?とヘンリエータは首をかしげる。
「フェスは一緒でないの?」
「ガイアナ議長と話す間、オーロフの御大に預けた。俺がここにいるのは、父の代理でもあるから。」
「大変なのね。そういえばカゥイ先生も、ガッセンディーアにいらしてるとか。クラウディアが出て行く前に教えてくれたわ。」
「トランもハンヴィク家に顔を出せず申し訳ない、と言ってた。」
「お忙しいのだから仕方ないわ。今も司教さまの銀竜を守ってるんでしょう。」
「まぁ、そうなるのか。」
「ここは……静かね。」
不意にヘンリエータが言った。
「ガッセンディーアが大騒ぎになってるなんて思えない。竜たちは眠ってるの?」
彼女が示す中庭には、竜が大きな身体を横たえていた。
皆、目を閉じて翼を畳み、じっとしている。
「呼吸してるから、眠ってるだけだろう。何か感じるのか?」
「感じない……というべきかしら。」
え?とリュートは幼馴染を振り返る。
彼女は目が見えない分、周りの空気を感じることに長けている。その彼女が感じないというのは、どういうことだろう。
そんなリュートの疑問に答えるようにヘンリエータは言った。
「息遣いは感じるけど、鼓動が感じられないの。眠っているというより、なんだか傷を癒しているみたい。」
くぁ!と銀竜が鳴いた。
「そうね。トーアも具合が悪くて、ずっとずっと眠ってたことがあった。」
「覚えてる。父親が何度も様子を見に行ってた。」
「あの年は天候がおかしくて、まだ幼かったトーアがそれについていかれなかったんだけど……」
「その時に似てる?」
「でも嫌なのは天気でなくて、風みたい。」
「風?」
彼女は頷いた。
「なんとなくだけど、風に耐えてるような気がするの。」
「風、強くなってきましたね。」
窓を揺るがす風に、ケィンは音のする方を振り返る。
エミリアも頷き、
「イーサとビッドが鎧戸を閉めてまわってるわ。これ以上、銀竜が怖がるのも見てられないし。」
「ですよねー。」
ケィンは大きなため息をつくと、銀竜のためにしつらえた部屋を見回した。
窓は布で覆い、ありったけの植物の鉢で遮った。灯りも人が入るときのみ、ごく小さくつけるのみ。
にも関わらず、銀竜の姿はどこにもなかった。
両手の指の数ほど銀竜たちは、鉢や布の隙間に隠れて出てこようとしないのだ。
ケィンがいったん帰宅する前に置いた食事の皿は、まったく手付かずのまま。水も減ってないようだ。
「もーっ、本当にどうしちゃったんだろう。こんなこと、今まで一度もなかったのに。」
「それよりケィン、こちらに泊まって大丈夫なの?」
「お祖母ちゃんのことは、お隣さんとリニリにお願いして来ましたから。それに銀竜のことお祖母ちゃんに話したら、それはおかしい。何かあったらエミリアさまを手伝いなさい、って。」
「心強いわ。カズトにも聞いてみたんだけれど、返事がなくて……」
「リュートさまが送ってきた声は、ちゃんと受け取りましたよね?」
うぎゃあ!という鳴き声を聞いて、二人がこの部屋に駆けつけたのは宵の口。
どこからか這い出してきたカルルは、受け取った声をエミリアとケィンに伝えると、またすぐに姿を消してしまった。
「リュートさまが言ってたことも、関係してるんでしょうか?」
連絡の主旨は「今夜はガッセンディーアに留まる」というだけだが、いささか含みがあったのが気にかかる。
「でも面倒が起きたのは神舎、って言ってましたよね?」
「そうね。聖堂ならともかく、神舎と銀竜が関係しているとは思えないわ。」
「でもこれって、具合悪いときの冬眠みたいじゃないですか?」
「冬眠?」
「あ、冬眠はアタシが勝手に言ってる言葉ですけど。ほらルーラが卵を抱いてたとき、やっぱりこんな感じだったじゃないですか。飲まず食べずで、アタシ、すっごくハラハラしてたんですよ。」
力説する料理人に、エミリアは微笑んだ。
「大丈夫よ。銀竜は強いし、だからこうして今の時代に生き残ってるのだし。きっと今回も、大人しく嫌な風をやり過ごそうとしているのかもしれないわ。」
そういうエミリア自身、その言葉で自分を納得させようとしていた。
「副署長までってのは納得できません!」
「おれのがオルフェルより荒っぽいのに慣れてるし、参戦するのはうちの署の精鋭だ。」
「だからって、副署長自らが出張る必要ないじゃないすかぁ。」
「安心しろ。分署には署長がいる。」
「そういう意味じゃなくて!」
頭を抱えるキャデムを、背の高い中年男が振り返る。
「上司を信じろ。」
「信じてます。信じてるから心配してるんじゃないすか。」
本心だった。
メッサ副署長が長年このガッセンディーアに勤務してることも、去年副署長になるまで現場にいたことも、それゆえ上からも下からも信頼されていることも全部知っている。だからこそ通常とまったく異なる、今回の任務が心配なのだ。
「アレに乗ったことないってのが、一番心配なんすよ。」
「おいおい。こっちだって初心者を乱暴に扱うつもりねぇぞ。」と、言ったのはダール。
二人は分隊の会議室で、派遣さた公安と打ち合わせをしてる最中なのだ。
もちろんキャデムは公安側、ダールは分隊側の立場だが、幼馴染ゆえの気安さから言うことに遠慮がない。本人達はいつものことだが、双方の隊員たちはあっけに取られている。
「忘れてねぇぞ!お前の後ろで、オレは振り落とされるかと思ったんだ!」
「そりゃガキんときの話だろう。それにお前、懲りずにおれの後ろに乗ってたじゃねーか。」
「いんや。その後はリュートの後ろしか乗ってねぇ。」
「そうだったかぁ?」
まぁまぁ、と間に入ったのはマーギスだった。
「オーディも専門家なのですから、素人相手にひどいことはしないはずです。」
「そうだそうだ。専門家を信じろ。」
「それよりメッサ副署長を見込んで、私からお願いがあります。」
そういってマーギスは、あることを確かめてほしいと彼に言った。
話を聞いたメッサは目を丸くする。
「そんなものを?」
「もしかしたら、本舎に提出する証拠になるかもしれません。」
「とりあえず、押さえりゃいいんだな。」
「そうです。とりあえず、押さえてください。」
「そろそろ公安も動く頃、か。」
相変わらず竜の眠っている中庭で、縁石に腰掛けたリュートは息をついた。
ヘンリエータを部屋に送ってまたここに戻ってきたのは、眠れそうになかったから。フェスをオーロフに預けたままなのは仕方ないとしても、同僚や友人が走り回ってる中、自分か参戦できないもどかしさはどうしようもない。
「もしきみに何かあれば、ラグレス家どころか、カズトにも申し訳が立たない。」
そう言ったのはガイアナだった。
老オーロフも大きく頷き、
「大気が落ちつたら、一度カズトの所に戻ったほうがいい。いつまた不安定になるかわからない。そのためにも、ここで待機すべきだろう。」
そう二人に言われてしまっては、聞き入れないわけに行かなかった。
リュートは左腕にはめたチタンベルトの腕時計に目を落とした。
「十二月二十一日……か。」
とっくに変わった日付の数字に、ため息をつく。
中庭に寝そべる竜は相変わらず身じろぎもせず、じっと目を閉じたまま。
それを眺めながら、アニエとの会話を思い出す。
「クラウディアから聞いたが、アルラの子という言葉に特に心当たりはない。」
「アルラ、だけでは?」
「南ではアンリルーラ。伝承で豊穣の姉妹と呼ばれる巫女の名前だ。空を歌う長女、大地を歌う次女、海を歌う三女……の長女の名がアンリルーラ。」
だから今でも南の地では、女の子に名づけることがあると説明する。
「特に門に関係ある名前ではないのね?」
「むしろ、あるほうが不思議だ。」
「でも確かにあのときお祖父さまは、アルラの子と言ったのよ。」
話の前後からすると、それは門番のことを指しているように聞こえた。
「戻ったら父親に確認してみるが、わからないと思う。」
「私がお祖父さまに聞けばいいのはわかってる。でもお祖母さまと私を間違えて言ったことだから、言い出せなくて……」
「一応、専門家にも聞いておくか?」
「例の、書庫を出入り禁止になった学者さん?」
「クラウディアか。」なるほど、とリュートは納得する。
「新しい長には協力者が多そうだな。」
「あなたも、その一人よ。」と、アニエは微笑んだ。
話を終えて外に出たリュートは、今度はダールの待ち伏せを受ける。
「話、終わったか?」
「いたのか。」
「それよりお前、ホムスゥトに何教えた?」
「え?」
「陣取りごっこ。奇襲作戦。」
ああ、とリュートは思い出す。
同じ隊の後輩で、教え子でもあるロンシャ・ホムスゥトに講習したのは、前回帰省したときだった。本人たっての希望で、教科書にない飛び方の練習に付き合ったのだ。
「勤務時間外なら問題ないだろう。」
「そうじゃない。ありゃガキの遊びだぞ。ムチャもいいところだ!」
「実用に向かないのは最初に言ってある。」
「それが、そうでもなくなった。」
「え?」
「今回の突入にホムスゥトを加える。理由はお前が教えた飛び方だ。」
「ちょっとまて!」リュートは慌てた。
「公安の連中を乗せるんだぞ?」
「だからこそ、慣れてる奴しか任せられない。」
そういってダールが名を挙げたのは、確かに分隊でもベテランの乗り手たちばかりだ。
「ホムスゥトの飛行時間は……」
「他の連中より少ないが、お前が教えたせいで融通が利くようになっちまった。」
「お前も飛ぶのか?だから癖のわかるホムスゥトを入れた?」
ダールは肩を竦める。
「文句は上に言ってくれ。それと、ラグレスはぜったい来るなよ!そっちはお前しかできない役目があるんだ。」
いいな、と言って去って行った友人も、今頃は竜に乗っているのだろうか。
再びため息をついたそのとき。
ふと、背後に気配を感じて振り返った。
立ち上がり、そっと辺りを伺うが誰もいない。
「気のせい……か?」
次回も火曜日更新予定




