第四十五話
「啓太。コーヒー、ポットに入れといたよー。」
夜間営業に突入したギャラリーカフェ無限大。その二階のギャラリースペースのテーブルに、美帆子はトレーごと差し入れを置いた。
「おう、サンキュー。」
「すでに徹夜決定なの?」
遅くなりそうだから夜食を頼む、と言われたのが一時間ほど前。その時点で啓太からは「今夜泊まりになりそう」と聞いている。珍しくはないが、いささか急なので少し気になる。
「んー……まぁ……そうだな……」
三芳啓太は「よっこらしょ」と声を出しながら、ダンボール箱をギャラリースペースに運び出す。
ちょうど展示の入れ替えもあって階段に「準備中」の立て札を置いてあるので、よほど用がない限り上がってくる人はいないだろう。荷物を広げるにはちょうどよいタイミング。
「箱全部、開けてみなきゃならんから。どう考えても徹夜っぽいんだよ。」
「これ都さんの母上の遺品よね?全部開けるって、探し物かなんか?」
「探し物っちゃ、探し物か。」うーん、と啓太は腕組みする。
「なに、それ?」
「わかんねぇの。なにを探せばいいのやら。」
「小暮さんに頼まれたんでしょ?」
「言いだしっぺの小暮さんもわかってない……と思う。」
「何て言われたのよ?」
「見るからに怪しい物を探してくれ。」
「わざわざすみません。」
封筒を受け取りつつ、冴は恐縮する。
「それより都ちゃんは?」
「少し落ち着いたところ。」
「そうですか。」と、栄一郎は胸をなでおろす。
「熱出したって聞いたから。笙子さんも心配してた。」
「知恵熱……だと思います。」
小さいとき何度かあったから、と苦笑する。
マクウェルから連絡を受けた冴が帰宅したのは、いつもよりずっと早い時間だった。胸騒ぎを感じつつ駆け込んだ居間で見つけたのは、文字通り飛んできたコギンと制服姿のままうずくまる都だった。熱に震えていた彼女を着替えさせ、暖房を効かせた部屋に寝かしつけたが少し前。熱以外の症状がないのと、本人が「風邪じゃないと思う」と言ったので精神的なことが原因だろうと確信する。
「もし今よりひどくなったら、笙子先生に連絡します。それより彼、何か言ってました?」
マクウェルが閉店間際のフリューゲルに現れたと、先にもらった早瀬からの連絡で聞いている。その際、都に渡すはずだったものを栄一郎が預かり、こうして見舞いがてら届けに来たのである。
「フライングして申し訳ないって言ってました。冴さんのアドバイスどおり、竜杜くんが戻るのを待てばよかったって。」
「申し訳ないのはあたしも同じ。状況を遅らせた結果がこれだもの。結局、防波堤にもなれなかった。結果論ですけどね。」
「それより、本当に竜杜くんに連絡しなくていいんですか?」
早瀬が電話で再三確認したことを、栄一郎はもう一度問いかけた。
「都ちゃんが絶対するなって言うんだもん。」冴は肩を竦める。
「あの子が変なトコで頑固なのは、ご存知でしょう。それに早瀬さんに聞いたら、向こうも今、いろいろ面倒みたいだし。無理に連絡して都ちゃんのストレスになったら、それも口惜しいし。」
それに、と冴は付け加える。
「都ちゃんが本当に辛いと感じれば、竜杜くんのほうから言ってくると思うのよね。」
「それは、たしかに。」
「せめてそれまでに、証拠が見つかればいいんだけど。名刺だけじゃ弱くてね。」
「名刺?」
「朝子の蔵書に挟まってたの。」
「じゃあ、マクウェルさんのお友達と都ちゃんのお母さんに、接点があったのは確かなんですね?」
「決定的な証拠は三芳さんに捜索してもらってるところ。でもきっと……マクウェル氏の言うことが真実なんだと思う。」
吐息のような短い沈黙。
「もし……ぼくたちにできることがあれば……」
冴は首を振る。
「こうやってメッセンジャーしていただけるだけで、充分ですわ。」
栄一郎を見送ると、冴は都の部屋を覗いた。
小さくつけたスタンドの明り越しに、細い背中が浮かび上がる。
枕元でうずくまる銀竜が、顔を上げた。
その金色の瞳に、冴は頷きかける。
「なにかあったら遠慮なく鳴きなさい。」
そういい聞かせてあるので、大丈夫だろう。
扉を閉めようとして、目の端で何か光った気がして足を止める。
「気のせい……か。」
呟いてリビングに戻ると、タイミングよく携帯が震えた。
表示された名前に、慌てて通話ボタンを押す。
「香織?急がせて悪かった。うん、ちょっとね……」
どこだろう。
広い空。
広がる海。
いつかどこかで見た風景。
隣を見上げると、そこには海を見つめる母親の姿。
その表情がどこか悲しそうで、声がかけられない。
やっとのことで“おかあさん”と声を振り絞るが、岩礁に当たる波の音が大きくて気づいてもらえない。
“おかあさん!”
もう一度叫ぶ。
しかし答えはない。
ふと隣を見ると、誰もいない。
慌ててあたりを見るが、それらしい人は見当たらない。
ふいに不安が押し寄せる。
“おかあさん!どこ?”
次第に強くなる波の音が怖くて、走り出す。
けれどなかなか前に進めず、ついに転んでしまった。
転んだショックと一人で取り残された不安、それに膝の痛みが混じって涙が溢れる。
と、しゃくりあげた目の前に、白い手が差し出された。
”なにを泣いてるの?”
気がつけば背景は海でなく、緑あふれるなだらかな草地。
上を見れば空は青く、はるか遠くまで広がっている。
“なぜ泣いているの?”
声が訊ねる。
”いじめられたの”
”どうして?”
”よそもの、って”
また泣き出しそうになるのを骨ばった白い手が抱きしめてくれる。
優しくて、どこか懐かしくて、暖かな温もり。
それが心地よくて、涙はいつしか消えていた。
“あなたはここで生まれたの。だから堂々としていいの”
“でも、緑の瞳はへん、って”
”あなたの瞳はお祖父さまと同じ色。綺麗な色よ”
“ほんと?”
ええ、と頷く優しい笑顔。
”じゃあ、いつかおじいちゃんみたいに飛べるかな”
”願い続けたら、できるかもしれないわ”
“ほんとうに?”
“さぁ、どうかしら?”
“きっと飛べる。そのときは、アルラおばあちゃんも一緒だよ”
目が覚めた。
突然夢から引き離されて、自分がどこにいるのかわからない。
「きゅう……」
「……コギン……」
心配そうに自分を見下ろす銀竜に、部屋にいるのだと思い出す。
「夢……見てたんだ。わけ……わかんないはず。」
枕元の時計はやっと夜になったところ。眠っていたのはわずかな時間だったらしい。そう理解したとたん、身体のだるさと寒気が振り返す。
コギンがすいっと飛び上がり、すぐに戻ってきた。
両手に掴んでいるのは水の入った小さいペットボトル。
目を上げると机の上にもう一本同じものが置いてあるのは、冴の配慮だろう。
都はコギンに礼を言うと、上半身を起して水を飲んだ。ついでに熱を測るが、先ほどとあまり変わらない。
もう一度横になると、コギンが小さな鉤爪のついた手を伸ばして都の額に触れた。
「心配させてごめんね。」
でも今は、どうにもできない。
考えもしなかった。
父親という存在は、ずっと曖昧なままだと思ってた。それが突然人格を持って現れて、なにをどう考えればいいのか、思考回路がまったく追いつかなかった。
否。
現在進行形。
追いついてない。
母親がいて言い訳の一つ二つもしていれば、ここまでパニックにならなかったのかもしれない。
けれど母親は黙して語らなかったし、聞こうにもすでにこの世の人でない。
そんなこんなで戸惑ううち、あっという間に熱が上がって動けなくなってしまったのだ。
「知恵熱ね」
そう冴に言われて「たぶん、そう」と自覚する。
まるで脳全体が熱を持って浮遊してるような感覚。
どうして母は恋人のことを隠していたのか。
死別だったらあえて隠す必要もなかったはず。
それに……あの海の夢。
かろうじて働いている理性が、一つの光景を思い出させる。
海に行くと、必ず母親は海原に向かって黙祷していた。小さい頃はただ目を閉じているのだと思っていたが、今思えばあれは黙祷だったに違いない。
そう思うと不審な行動がいろいろと思い起こされて、また頭の中がぐちゃぐちゃになりかける。
苦しくて、闇雲に手を伸ばす。
指先に何か触れた。
手繰り寄せたのは、ちいさな緑の石を抱く銀の花。
「リュート……」
きっと今頃、ガッセンディーアの聖堂にいるのだろう。ダールやクラウディアも一緒だろうか?
向こうの世界も大変だから、このことは伝えないで欲しいと冴に懇願した。
だけど、彼は気づいてしまうかもしれない。
もしそうなったら、ちゃんと自分の口から話すことができるだろうか。
都は無意識に銀細工のついたネックレスをぎゅっと握り締めた。
大丈夫。
(そのための守り石だから……)
思い出すのは婚約者の優しい声。
と、ごちゃごちゃだった頭の中が、すーっと晴れてくる。
同時にやってくる急な眠気。
やがて。
規則正しい寝息が聞こえてきた。
来週も火曜日更新予定です。




