第四話
「お久しぶりね、カゥイさん。それにクラウディアが来ると思わなかったわ。」
「セルファが忙しくて、あたしの手が空いてただけ。」
革の飛行服に身を包んだクラウディア・アデル・ヘザースはまとめていた茶色の髪を解くと頭を振った。こぼれる長い癖のある髪を手で整える。
「聖堂詰めの竜隊だって忙しいだろう。」
「ラグレス家に絡むことは融通が利くもの。」エミリアと同じ漆黒色の瞳がにっこり微笑む。
「それに、実はずっと休み返上だったの。」
「そういう働き方はメリカデに似てるんだろうね。」
早瀬は彼女の父親でアデル商会の経営者でもある、義理の弟を思い出す。
「トラン、乱暴な飛び方はされなかったかい?」
「全然。セルファと違う飛び方で楽しかったですよ。」
トラン・カゥイは寝癖の残る茶色の髪を直すことなく、上着だけをイーサに渡して眼鏡をかけ直す。三十もとうに過ぎクラウディアより年上のはずだが、そうして並ぶと、まるで教官と生徒のようにも見える。
「飛び方に違いなんてあるかしら?」
「そりゃあ、僕と竜杜だって違うからね。双子といえど姉弟でも違うさ。」
「それより、あなたまでゆっくりしてヘザース教授は大丈夫なの?たまの休みなのに……」
伯母の不安げな表情に、クラウディアは大丈夫と笑う。
「彼、報告書作るのに夢中なの。あたしなんて眼中にないの。」
ああ、とトランが呟く。
「ご主人のヘザース教授は、神の砦で見つかった古い文字の予備調査に立ち会ったんでしたね。」
「竜が関係してる遺跡だから評議会から指名されたの。おかげで珍しくガッセンディーアにいるのに、色んな専門家に会ったり……とにかく忙しそう。」
「どうやら現状に不満があるようだね。」と早瀬。
「だからカゥイ先生と伯父さまが話している間、伯母さまに愚痴を聞いてもらうわ。母に言ったら、小言確実だもの。」
「小言ではなくて、シーリアはあなたたちが心配なだけ。」
そう言う妻に姪を任せ、早瀬は図書室へトランを誘う。
書棚で囲まれた部屋には小さな書き物机と安楽椅子が置かれている。早瀬は安楽椅子の一つをトランに勧めると、自分もその向かいに腰を下ろした。
イーサが淹れたお茶で一服すると、トランの灰色の瞳が嬉しそうににっこりする。
「本当に、よい香りです。」
「庭でもエナの花が咲いてるよ。」
「やっぱりうちのほうより早いですね。それに庭も綺麗です。ソラノキも、もうじき咲きそうですね。」
トランの住むアバディーアはラグレス家のあるガッセンディーアより北にあるが、植生は比較的似ている。けれど全ての花が咲き揃うのはもう少し後で、今はまだ蕾が固いと、残念そうに言った。
もともと、この大陸はいくつもの国に分かれていた。北の大山脈を始まりとする大河を境にした陸の半分……北のガッセンディーアとアバディーア、それぞれの南に隣接するカーヘルとホルドウルがノンディーア連合国として一つになったのが約百五十年前。今ではそれぞれの国は州となり、州都には各議会が置かれている。さらにガッセンディーアの州都ガッセンディーアには、竜と共に空を飛ぶ一族が構成する五つ目の議会もある。
その一族評議会が置かれている聖堂は一族の祖、小ガラヴァルと呼ばれる英雄兄弟の弟の墓所を兼ねた記念碑的な場所。加えてガッセンディーアには創造神ルァを奉る大きな神舎もあるので、その二つを物見遊山で訪れる他国人も多い。
トランは学生時代をこのガッセンディーアで過ごし、そのときに聖堂警備の仕事の傍ら、銀竜の研究をしていた早瀬と知り合った。銀竜と空の民が研究対象だったトランは彼と意気投合し、一緒に伝承の採取調査を行うことになる。それは早瀬のこちらの世界での最後の大仕事で、それを区切りに父亡き後、ずっと閉めていた喫茶店フリューゲルを再開するため、単身、自分の世界へ戻ったのである。
それから十年。
偶然トランの消息を聞いた早瀬は、彼なら黒き竜を封じる方法を見つけ出せるのでは、と考えた。彼の洞察力、集中力、なにより信頼に値する真面目さは早瀬が自ら門番であると告白したほど。それに黒き竜を封じるなど、一人……早瀬が加担したとしても二人で抱えるには途方もない特命。しかも伝説化した遥か昔の話を掘り起こすのは、リュートの専門外もいいところ。
結局リュートは父の進言に従い、トラン・カゥイに黒き竜についての調査を依頼し、それがきっかけで早瀬とトランの交流もこうして復活したのである。
「ハンヴィク家からお借りした古い旅行案内と当時のご当主の日記を読みました。その中でいくつか気になる遺跡があったので、関連した文献を集めてるところです。もちろん現地に行くのが一番なんでしょうが時間がなくて……」
「文献を集めるだけでも一苦労だろう。」
「そういうことに長けてる古本屋がいるんです。今回はアデル商会が資金を用意してくれたので、遠慮なく頼むことができました。さすがに分量があるので、学生時代の友人に読むのを手伝ってもらってます。」
「いろいろ面倒をかけるね。」
「学生に戻ったみたいで楽しいですよ。」
ただ、と、トランは声をひそめる。
「見事に黒き竜に関する記述がないんですよね。この先も見つからなかったら、意図的に伝承を抹殺したんじゃないかって思うほど……と、」
慌ててトランは口元を押さえる。
早瀬は苦笑しつつ、
「ここでは好きなだけ言って構わないよ。僕は君の論文を採点するつもりもないから。」
すみません、とトランは頭をかく。
「ぼくの悪い癖です。根拠のない仮説はむやみに言うもんじゃないと、恩師に教えられたはずなんだけど……」
好奇心が先行すると見境がなくなるのはトランの悪い癖。
そうやって勢いで書いた論文が原因で聖堂の書庫を出入り禁止になったのだと、早瀬は本人と聖堂の関係者から聞いている。
しかし今回の件はトランのみならず、早瀬も同じ事を気にしていた。
「確かに黒き竜に関する逸話は、聖竜リラントとガラヴァル兄弟の戦いの話しかない。僕もこの部屋にある本を読み返してみたんだが……」
それにこちらで暮らしていたとき、それなりの数の文献を読んできた自負がある。にも関わらず、記憶の中に黒き竜の逸話がないのが気になっていた。
「この先もこんな調子なら、あるいはトランの説も考慮すべきかも知れない。もちろん、まだ時期尚早だけど。」
「その仮説のためにぼくを呼んだんじゃないですよね?別にマーギスさんがご一緒のときでも構わないですし……」
「先に話しておきたいことがあってね。その……エミリアのことなんだが……」
早瀬はそう言って二十七年前、エミリア・ラグレスが目撃したある出来事を話した。
それは銀竜を慈しむ人にとってはショッキングな事件で、それゆえエミリア自身ずっと口を閉ざしてきた。
早瀬がその全貌を聞いたのは一昨日の夜で、翌朝一番に使いを出し、「ガッセンディーアで落ち合う前に会いたい」とトランに連絡したのだ。
案の定、話を聞いていたトランは無意識のうちに眉間に皺を寄せる。早瀬が話し終えると、何かから解放されたかのように大きく息を吐き出した。
「嫌な事件です。カズトさんも知らなかったんですね。」
「うん。でも僕はその直後に彼女と会ってるから、様子がおかしいのはわかってたんだ。それにカルルのケガも……でもまさか、そんな理由があったなんて思いもしなかった。」
「そういえば公安でそんな事件があったと、少し前にリュートが言ってましたね。」
「これのことだね。」
早瀬は書き物机の上にあった書類をトランに渡した。
「竜杜から君に渡して欲しいと頼まれた。公安の記録の写しだ。」
「お借りしていいんですか?」
「僕も目を通したから……それに恐らくエミリアも。」
トランの動きが止まる。
「聞かなかったが、たぶんエミリアはそれを読んで倒れたんだと思う。」
「つまり気持ちの良いものではない、ということですね。心して読むようにします。」
そうしてくれ、と早瀬は言う。
「僕は……小さいときから銀竜に憧れていたから、正直、どうしてそんなことをするのかわからない。」
「犯罪者の心理なんて知りたくもありません。」トランは言った。
「でも理由があるなら、その理由を調べることができます。友人に頼んで、まじないに詳しい知り合いの行方を探してるんです。見つかったら心当たりがないか一番に聞いてみます。あと、アデル商会と取引がある薬師がいましたね?紹介してもらえるでしょうか?」
「竜杜が銀竜を仲介した家のことかな。代々の薬師というから、まじないが伝わってる可能性もあるか。セルファに聞いておこう。」
「そういえばハンヴィク家の銀竜も、この家から里子に出したんですよね。」
「あの頃は、この家で孵る銀竜もそこそこいたから。トーアはヘンリエータが名付けて育てたんだよ。」
同僚だったハンヴィクが、病で光を失った娘のために銀竜を譲って欲しいと頼んできたことはよく覚えている。自身の息子より一つ年下のヘンリエータが賢いことも、気立ての優しい子だというのも知っていたから、銀竜が孵るとすぐにヘンリエータに託したのだ。
その結果は、現在のトーアとヘンリエータを見れば一目瞭然。
「名付けたその日から、トーアはヘンリエータの目の代わりをしたよ。」
そうでしょう、とトランは頷く。
「トーアは賢いし、それにヘンリエータも主人にふさわしい聡明な人です。本当に……すばらしい!一族と銀竜の理想的な関係だと思います。」
やや興奮気味に話すトランに、早瀬はおや?と首をかしげる。
トランがこんな風に誰かのことを褒めるのは珍しい。人嫌いとまでいかないが、彼の興味は生きてる人よりも歴史的事実で、それに調べ物に没頭するとかなり内向的になる。人を批判することもないが、かといって手放しで褒めることもない。
トランにハンヴィクを紹介したのは早瀬である。
かつての同僚で竜の収集家として有名なハンヴィク家の書庫なら、聖堂並みに竜に関する資料が揃うだろうと考えてのこと。当主でさえ把握しかねる膨大な蔵書に目を通すために、トランは何ヶ月もハンヴィク家に通っていた。その間、一人娘のヘンリエータと言葉を交わす機会はいくらでもあっただろう。様子を見に行った甥のセルファ・アデルも、トランがハンヴィク家の人々に歓待されていると言っていた。
それはつまり……
「トラン、君もしかしてヘンリエータのこと好きなのかい?」
その瞬間。
トランは真っ赤になってうつむいた。
「ぼくはあくまで主観的な意見を……その……」
しどろもどろになって、慌てて冷めたお茶をぐいっと飲み干す。
わかりやすいその様子に、早瀬は「なるほど」と納得する。
「別に悪いことじゃない。人を好きになるのは良いことだし、ヘンリエータは……」
「ぼくは……」
早瀬の言葉を遮るように、トランは口を開いた。
「ぼくは一族じゃありません。カズトさんのように門番でもない。彼女と並ぶことはありません。」
それはどこか自嘲的な言い方だった。
「それより今の話、マーギス司教にもするんですか?」
「え?ああ。」早瀬も急に現実に引き戻される。
「そのことなんだが、これを頼めるだろうか。」
そう言って一通の手紙を机に滑らせる。
「君、このまま先にガッセンディーアに行くんだろう?」
その言葉でトランは全て理解した。手紙を受け取り、
「わかりました。マーギスさまに渡しておきます。」
「頼むよ。」
「ええ。一足先にガッセンディーアで待ってますよ。」
次回も火曜日に更新します。