第三十話
「それがどう解釈していいのか……」
執務机の前に立った男は、明らかに戸惑っていた。
彼の制服の肩には緑の線が入っていて、それは聖堂の中でも特別な場所……一族の祖である英雄ガラヴァルの墓所と、盟友リラントの瞳を守る役目であることを示している。
その任に就いて長いこの中年の男が、こんな風に戸惑うのは珍しい。
しかしガイアナも、同じように戸惑っていた。
「つまり色が変わったのは、昨日私が見たときだけ……ということか。」
「おっしゃるとおり、今は平常に戻ってます。」
「だがあれも、完全な赤ではなかった。」
異変の報告を受けて駆けつけたガイアナが見たのは、赤い靄のような色が滲むリラントの瞳……もちろん、広間に展示している模造品でなく本物である。
その緑の宝石の中心に渦巻くように赤が混じり、これが凶事でなければ美しいと感じただろう。しかし赤い渦はガイアナが見ている間にも大きさを変え、今ではすっかり色を潜め、元のように緑色に戻っているという。
「もちろん色の変化は二年ぶりのこと。しかし……」
あのときのようにハッキリした変化でないことが、ガイアナと警備を悩ませていた。
「担当者には……」
「連絡は入れた。」
執務机の上に肘をつき、目の前で手を組んだままガイアナは言った。
聖堂内で門番の存在を知るのはわずかしかいない。彼らは門番である早瀬一族を“担当者”と呼ぶ。それはリラントの瞳と共に守らねばならぬ、一族の秘密。存在が他に知れるのを避けるため、そう呼んでいるのだ。
「だが向こうで何か起こった様子はないらしい。あるいは起きようとしているのか……近日中にリュート・ラグレスがガッセンディーアに戻る。彼の意見も聞いた上で、見極めるのがいいだろう。それと念のため、竜の動きに注意するよう通達を出しておく。」
「助かります。」
「ケイリー書記官のような事故が、いつ起きないとも限らんからな。上の警備には説明したのかね?」
墓所とリラントの瞳が地下にあるのに対し、聖堂の表立った部分と評議会は地上にある。ゆえにそちらの警備を“上”と称しているのだ。
「まだ何も。必要以上に不安を煽るのは得策でありませんから。」
「では私から直に説明しておく。」
助かります、と警備責任者は目礼する。ふと思いつき、
「上の警備担当の二番手は、担当者と同期でしたね。」
「だからといって、知らせる必要はない。連絡役はクラウディア・ヘザースをつける。」
全ての事情を知り、かつ、聖堂に精通している者の名に、警備担当は納得の意味を込めて頷いた。
なるほど、とモリス・ラダンは頷いた。
いつもどおり撫で付けた濃い茶色の髪を首筋で結わえ、手には白い手袋、そして制服には地上の警備の担当であることを示す白い線が入っている。
ガイアナ議長の執務机の前に立った彼は、今この聖堂で起こっている“些細な変化”について、上司と共に説明を受けていた。
「しかし瞳に変化とは、かなり重大なことでは?」
ラダンの隣に立つ男が首をかしげる。
ラダンよりはるかに年上のベテランで、二十代のラダンを役職に抜擢したのは彼であった。それに応えるよう、ラダンが日々まい進しているのは言うまでもない。
それにラダンとて伝承を丸ごと信じるわけでないが、聖堂の警備担当としては完全に無視できないと思う。
「だが公にすれば、無駄な混乱を招くことになる。」
もちろん評議会としては観察を怠らず、専門家の意見も聞いて慎重に対処すると議長は説明した。その上で、聖堂内で些細な変化があれば逐一報告するようにと言う。
「特に竜の様子に変化がないか……もしどこかで大気の乱れがあったとしたら、同胞に影響を及ぼすかもしれん。」
「発着所の様子に特に気配りするよう、皆に伝えておきます。」
そうか、とラダンが呟いた。
「何かね?」
評議会議長に問われてラダンは真っ直ぐ彼を見据えた。
「もし……大気の乱れだったら、竜もですが、銀竜もまた影響を受けるのではないでしょうか?」
「君が言ってるのは同期のラグレスのことかね?」
「可能性として思っただけです。では、われわれは……」
「普段どおり、強固な警備をしてくれればいい。」
ラダン承知すると、上司と共にその場を辞した。
入れ替わりにやって来た秘書官が、デレフ・オーロフとネフェル・フォーン・オーロフの来訪を伝える。
「約束は今日だったか!」
「断りを伝えておきますか?」
「いいや通してくれ。私から侘びを言うよ。クラウディア・ヘザースが来たら回廊で待機するよう伝えておいてくれ。」
秘書官は了解すると、すぐに老オーロフとネフェルの二人を連れて来た。
切り出したのはオーロフだった。
「慌しいようだが、何かあったのかね?」
「いささか緊急の用ができてしまって……大変申し訳ないが、調査報告書の閲覧は後日ということにしていただきたい。」
まぁ、とネフェルが目を見開く。
「いささか急ぐ案件が浮上しましてね、おかげで昨夜から担当者に連絡を取ったりと慌しいのです。」
担当者、という言葉にオーロフが顔を上げた。
それに応えるように、ガイアナは小さく頷き、
「この案件が片付いたら、すぐに時間を設けます。」
「しかたないな。神の砦の調査記録を閲覧するのは議長の立会いが条件なのだし、評議会の事情は我らにとって最優先だ。」
「ええ。」
わかってます、とネフェルは言った。けれど緑の瞳には明らかに落胆の色が浮かんでいる。
「落ち着いたら、すぐ連絡します。」
そう言うガイアナに感謝しつつ、ネフェルは祖父と共に部屋をでた。
と、老オーロフが足を止めた。
「忘れ物?」
「先日の議事録の手配を頼むのを忘れた。すぐに済むから先に行ってなさい。」
祖父の言葉に頷いたネフェルは、すでに慣れた議会の中枢を移動する。
と、議会に入るための検問所の外に、見知った顔を見つけた。彼女が男と言い争ってることに気づき、外に出るのを躊躇する。
「言ったでしょ!仕事上のことは話せないって。」
軍服姿の彼女は腰に手を当て、居丈高に相手を睨めつける。
「きみの伯父上は、きみの仕事とは関係ないだろう。」
相手の男はくすんだ青色の瞳に亜麻色の短い髪も相まって、一見すると竜に関わるように見えない。けれど彼が一族で、相手の女性と契約関係にあることは、通りがかりに二人の言い争いを聞いている皆知ってるはず。
「だってあなた、仕事に利用しようとしてるじゃない。」呆れたようにクラウディア・ヘザースは言った。
「少し意見を聞きたいだけだよ。語り部にも頼んでることだ。銀竜の研究者の意見もぜひ聞きたい。」
「だったらセルファに頼みなさいよ。伯父さまと頻繁に連絡取ってるのは、あっちなんだから。」
「おれがセルファを苦手なのは知ってるだろう。」
「あたしの弟よ!」
メラジェ・ヘザースの言葉に、クラウディアは思いきり眉根を寄せた。
「だから、だ。」
「わけわかんないこと言わないで!それと今、すっごく忙しいの。」
「わかってる。」
「ガイアナ議長に呼ばれてるんだから。」
「だからせめて、義父さんに……」
「だから自分で言いなさい!仕事にかこつけてあたしの実家に寄り付かなかったのは、自分でしょ。」
「いいわね!」と言い捨て、彼女は夫をその場に残してさっさと検問を通過する。
とたんに出くわしたネフェルに「あら」と目を丸くした。
「クラウディアさん……その……こんにちは。」
「もしかして、見られちゃった?」
しどろもどろに挨拶するネフェルに、クラウディアは苦笑した。
「その……ちょっとだけ……」
「気にしないで、いつものことだから。」
目を伏せるネフェルに、クラウディアは微笑む。
「メラジェって、専門馬鹿なのよ。他のことがからっきしなの。自分でどうにかできるはずなのに……」
「そうなんですか?」
「だからあえて放っとくようにしてるの。でないと、あたしにまで甘えるんだから。あ、セルファには黙ってて。母親に知れたら面倒な小言が待ってるだけなんだもの。お祖父さまがいらしたみたいね。」
じゃあまたね、と手を振ってクラウディアは足早に去っていく。
入れ替わりに、老オーロフがやって来た。
「妙な顔をしてどうした?」
なんでもない、とネフェルは首を振る。
「時間もできたし、久しぶりにアデル商会に寄るとするか。本を注文したいと言っていただろう。」
「いいの?」
もちろん、とオーロフは頷く。
聖堂を出て街の中心へ向かう道すがら、ネフェルはクラウディアとメラジェ夫妻を見かけたことを話した。
「契約してても、あんな風にケンカできるものなのかしら?」
「クラウディアは意見をはっきり言うし、メラジェは飛ぶことをしないから、どうしても一族としての立場はクラウディアのほうが強い。」
「じゃあラグレスさんとミヤコだったら、ラグレスさんのほうが強いの?」
「さぁ?」とオーロフは肩をすくめる。
「それは夫婦それぞれ。カズトは異国人だが、決して弱い立場じゃない。」
「やっぱりわからない。」
「そのうちわかるようになるさ。」
あ!とネフェルが小さく叫んだ。
「お祖父さま、先にアデル商会へ行ってて。私、紙を買っていきたいから。」
「ミヤコへ出す手紙用かい?」
「ええ。買ったらすぐに行きます。」
そう言ってネフェルが雑踏に紛れて行くのを見届けたオーロフは、足早にアデル商会に向かう。
ガッセンディーアでも大きな店構えのアデル商会は、繁華街の目立つ場所にある。石造りの建物の前には扉番がおり、オーロフの姿を認めると大きな扉を開けてくれた。
店に入るとすぐに番頭が寄って来た。
「今日はお嬢さまはご一緒では?」
「孫娘は用を済ませてから来ることになってる。セルファ・アデルはいるかね?」
「執務室に……。」
「出向いてもよいか、聞いてくれるか?」
番頭は他の店員にその場を任せると、店の奥に消えた。ややあって、セルファ本人が店の奥からやってきた。
「ネフェル嬢のご注文の件ですね。応接室でお伺いしましょう。」
二人は装飾的な金属の手すりがついた内部階段を上り、商談のための個室に移動する。
目録と伝票と手にしたセルファが腰を下ろすなり、老オーロフが口を開いた。
「ガイアナから聞いた。どうも面倒なことになっているらしいな。」
「まったくです。」セルファはため息混じりに言った。
「聖堂は判断に困って、結局ハヤセの家に委ねるつもりでいます。」
「カズトはそれを了承したのかね?」
「了承も何も、断る権利なんてありません。私は今夜ハヤセの家に行ってきます。」
銀竜では伝える言葉に限度があるので、現状の報告と向こうの様子も今一度聞いてみるつもりだと、セルファは言った。
「リュートもカズト伯父の代理人として、一緒に戻ってくる予定です。」
「私になにかできることはあるかね?」
「何も。」
「しかし……」
「むしろ何もせず、普段通りにしていてください。そうですね……あえて言うならネフェルに気づかれないように……と言うべきでしょうか。」
ちょうど半分ほどです。
そしてしばらく向こうの世界モード。次回も火曜日更新予定です。




