消えた存在
「くそっ、あのバカ課長が、何を言ってやがるんだ!」
河村祐は酔いの回った声で叫びながら、一人住まいのマンションのドアを開けた。靴を脱ぎ捨て、足元をフラフラとさせながら部屋に上がると、すぐに冷蔵庫から缶ビールを取り出した。プシュッと缶ビールを開けると、口元に運びながらベッドの上に腰を下ろした。
「ふう~」
大きなため息をつくと、テレビのスイッチを入れた。
テレビでは今売り出し中のアイドル、東光一がインタビューを受けていた。
「こいつらはいいよな。確か俺と同じ歳だった筈だが、みんなからチヤホヤされて、いいマンションに住んで、女にも金にも不自由していないだろうな。ああ、俺もあんな身分になりたいなあ」
河村は羨ましそうに呟くと、ビールをグイッと飲んだ。今日も課長からネチネチと嫌味を言われ、あまりの腹立たしさにまっすぐ帰る気もせず、一人でやけ酒を飲んできたところだった。しかし心のもやもやと腹立たしさはまだ胸の中で大きく渦巻いていた。
「あいつだったらどんな女でも選びたい放題だろうな…それにひきかえ、俺は好きな女には振られ、好きでもない醜い女しか寄ってこない…ああ、いやになっちまう…」
河村は残っていたビールを一気に飲み干すと、グシャリと力を入れて握りつぶした。
その時、付き合って一年ほどになる中井鈴香から電話がかかってきた。
「もしもし」
不機嫌そうな声で河村が出ると、鈴香は不安そうな声で言った。
「私…何度も電話したのに全然出ないから、心配していたのよ」
「ああ、課長と一緒だったから…」
河村が面倒くさそうに言った。何度も電話がかかっていたことは知っていたが、電話に出る気はまったくなかった。鈴香の強引と思えるほどの誘いで、遊び相手のつもりで付き合い始めた河村だが、最近ではそれさえも疎ましく思い始めていた。
「そう、それならいいけど…」
鈴香は河村の沈んだ声に怯えるように言った。鈴香の想いが叶って、ようやく付き合い始めることができたが、河村から愛されていると思えるようなことは今まで一度もなかった。デートをしていても、鈴香の顔をまともに見ることもなく、いつもつまらなさそうにしていた。そんな態度にたまりかねて、
「私と一緒にいるのがそんなにつまらないなら、帰れば!」
と腹を立てて大きな声で叫んだことがあったが、河村は無表情な顔で鈴香をジッと見つめると、何も言わずにそのまま立ち去ろうとした。その態度を見て、鈴香の怒りは急に冷めてしまい、慌てて河村を引き止めることになった。それからというもの河村からいつ別れを切り出されるか、そればかりを心配していた。
「……」
河村は何も言わなかった。
「じゃ、また電話するわね」
電話機を通して異様な冷たさがヒシヒシと伝わってきたので、鈴香はそれだけ言うと電話を切った。
「ちぇっ」
河村は舌打ちすると電話機を放り投げた。
「うっとうしい女だ。どうして俺にはあんな女しか当たらないんだ」
テレビでは東光一と噂になっている女性タレントの顔写真が映っていた。
「ああ、俺もこのくらいの女が彼女だったらなあ…」
河村はうっとりとしたような表情でその女性タレントの顔を見つめたが、現実とはあまりにもかけ離れていることに気付くと、何だかすごくみじめなような気がした。
「面白くもない。シャワーを浴びて寝よう」
河村は現実に返ったように言うと、服を脱いで浴室に向かった。
翌朝、河村は誰かに揺り動かされるようにして目が覚めた。
「一体何だって言うんだ。こんなに朝早くに…」
河村はずっと一人暮らしで、誰かに起こされることなどこれまで一度もなかった。眠そうな目をこすりながら、ベッドの横を見ると、今までに見たこともない女が河村の顔を見下ろしていた。
「お、おまえは誰だ?」
河村は驚いたように飛び起きた。
「何を寝ぼけたことを言っているのよ。早く顔を洗って、出かけける支度をしなさい」
女は当然のように命令口調で言った。
「そんなことを言われても…」
河村は女の語気の強さに戸惑った。
「さあ、早く、早く」
女はためらいもせずに、河村の背中を押しながら浴室の方に追いやった。何が何だか分からないまま、河村はそれに従うしかなかった。頭から熱いシャワーを浴びると、眠っていた頭が少しずつ起き始めたが、女の正体に覚えはなかった。
「あいつは誰なんだ?俺の部屋にいるなんて…幻か?幽霊か?」
河村は小さく呟きながら、頭を左右に振った。
浴室から出ると、バスタオルで頭を拭きながら鏡に映った自分の顔を見た。
「な、なんだ、これは……」
河村は唖然としたまま言葉が出てこなかった。
両手で頬を撫でるようにしながら、自分の顔をジッと見つめた。そこには昨日までの見慣れた顔ではなく、あの東光一の顔があった。
「こんなことって…」
河村は鏡の中の現実が信じられなくて、頭の中が真っ白になった。
「早くしなさいよ。今日もスケジュールがいっぱい詰まっているんだから!」
ドア越しに女のヒステリックな声が聞こえてきた。
「わ、わかった…」
河村はドギマギしながらそう答えると、
「これはきっと夢だ、夢に違いない」
そう言いながら、自分の頬を思い切りつねってみた。
「痛い!」
鏡の中の顔が痛そうな表情をした。
「夢じゃないのか…俺は、元の俺はどこに行ったんだ?」
河村は鏡に向かって呟いたが、もちろん答えが返ってくる筈もなかった。
「早く、遅れてしまうわ!」
女が無遠慮に浴室のドアをドンドンと叩いた。
河村は無言でドアを開け女の顔を睨みつけたが、女は一向に気にする風でもなく、部屋にある服を指差しながらきつい口調で言った。
「早くあの服に着替えなさい!」
河村は女の言葉を無視するかのように、部屋の中をゆっくりと見回してから、うるさい女の顔をしげしげと眺めた。
「私の顔に何か付いているかしら?」
女が首を傾げるようにしながら、にこりと微笑んだ。怒鳴ることしか能のない女だと思っていた河村は、女の笑顔を見て少しホッとした。
「い、いえ、別に…」
そう言うと、河村はとりあえず女の言う通りにしてみようと思い、言われるまま用意されていた服を着た。
「さあ、行きましょう。今日は雑誌の取材、写真撮影、テレビ出演、ドラマの収録よ。がんばってね」
女は河村を励ますように肩をポンと叩いた。
「ああ…」
河村の頭の中は混乱したままだったが、この女はどうやら東光一のマネージャーらしいということだけは分かった。こうなってしまった以上、どこまでできるか分からないが、やるだけやってみるしかないと思った。 しかし河村が心配するほどでもないことがすぐに分かった。仕事になると、どこからやって来るのか、東光一が出てきてはソツなくやってのけるのだった。仕事になれば河村の意識が遠のき始め、仕事が終われば自然と目覚めるというような感じだった。
一日の仕事が終わって自宅に戻ると、夜中の二時を回っていた。体はヘトヘトに疲れ、ベッドに倒れこんでそのまま寝るだけだった。翌朝早く、女のマネージャーが勝手に部屋に上がりこみ、河村を起こす、そういう日課になっているようだった。
スケジュールを消化するために生きている、そんな生活が一ヶ月も続くと、河村は何だか空しくなってきた。
「俺が想像した東光一の生活は、こんなものじゃなかった筈だ。もっといろんな女と楽しくやって、ご馳走をいっぱい食べて、高級スポーツカーでぶっ飛ばす、そんな毎日の筈だった。それが朝起きると、夜中まで仕事ばかりじゃないか。食べる物といえば買ってきた弁当ばかりで、いい加減イヤになる。これじゃ、奴隷のようにこき使われているだけじゃないか。東光一もよくこんな生活をやってられるもんだ」
河村が鏡に映った顔にあきれるように言った。
「おまえもそう思うか?」
その時急に声がしたので、河村は驚いて振り返ったが、そこには誰もいなかった。
「まさか…東光一か?」
河村は鏡に向かって言った。
「ああ、そうだ。ところでおまえは誰だ?」
「俺は河村祐だ」
「どうして僕の中にいるんだ?」
「そう訊かれても困る。俺にもよく分からないんだ。朝目が覚めると、どういうわけかおまえの顔になって、ここにいたんだ」
河村は両手で頬を二三度強く叩いてみせた。
「おい、痛いじゃないか。そんなに僕の顔を乱暴に扱わないでくれ。これでも手入れには結構気を遣っているんだぞ」
「悪かった…」
「いつになったら、僕から出て行くんだ?」
東光一が不服そうに言った。
「それができれば、とっくに出て行っているよ。それにしても、おまえをテレビで見た時は羨ましいと思ったけど、現実はそうじゃないね。朝から晩まで四六時中働かされて、自分の時間なんて一つもないじゃないか。こんな生活なんて真っ平ごめんだ。俺も早く元に戻りたいんだ」
「河村祐と言ったね?君が今僕の体の中にいるということは、元の河村祐の体はどうなっているんだい?死んじゃったのかい?」
東光一に言われて、河村はハッとした。
「元の俺?…俺は俺で、今ここにいるんだから、そんなことは考えてもみなかった。元の俺って、今もあのマンションに住んでいるのか?もしそこにいるとすれば、そいつは誰なんだ?そしてこの俺は?…」
河村は自分に問い掛けるように言いながら、訳が分からなくなってきた。
「体ごと完全に消えることなんてないだろう。きっと今までと同じような生活をしていると思うよ。それが分かれば、元に戻ることも簡単だろう?」
「それは名案だな。よし決めた。明日のスケジュールの合間に俺が住んでいたマンションに行ってみよう」
二人の意見がまとまると、すっきりとしたように快い眠りについた。
翌朝、いつものように女マネージャーが起こしにきた。
「早く、起きなさい」
「ああ、分かった。でも今日はちょっと行くところがあるんだ。スケジュールの合間に行くから迷惑はかけないよ」
「あら、どこに行くのかしら?」
女マネージャーはツンとすましたように言った。
「ちょっと会いたい人がいるんだ」
「誰かしら?まさか女ではないでしょうね?」
女マネージャーが疑わしそうな目で見た。
「ち、違うよ」
河村は慌てて手を横に振って否定した。
「そう、だったら誰に会うのかしら?」
「河村祐という男だよ。昔からの友達でね。どうしても話があるというんだ」
河村は自分で言いながら、おかしな感覚を味わった。
「ならいいわ。でも私も一緒に行きますからね」
女マネージャーは当然の義務のように言った。
「仕方ないか…」
ここで女マネージャーを振り切る苦労を考えると、好きにさせておいた方が自由に動けると思った。しかし河村祐はまだ本当に実在しているのだろうかと、ふと不安な気持ちにかられた。元の俺は今ここにいる、だとしたら今の河村祐は誰がなっているんだろう、と疑問に思うのも無理はなかった。
河村は着替えを済ませると、女マネージャーを連れて、前に住んでいたマンションに向かった。
車から降りると、河村は懐かしい思いでマンションを見上げた。やがて意を決したように力強く階段を上り始めた。一段ずつ上るにつれて、緊張と不安と期待が入り混じっていく。その後ろからは女マネージャーがしっかりとした足取りで続いた。ここで東光一が女と密会ということにでもなれば、マネージャーとしての力量を会社から疑われる。それだけは絶対に阻止しなければならなかった。たとえ女と密会したとしても、女であるマネージャーが一緒だと言い逃れもしやすくなる。
河村が部屋の前に立って、表札に目をやったが、そこには河村という文字はなく空白のままだった。急に不吉な予感が全身を駆け巡り、ゾクッとするような身震いをした。
河村は目を瞑り大きく深呼吸をしてから、インターフォンを強く押した。しばらくの間緊張しながら返事を待ったが、いくら待っても誰も出てくる気配はなかった。河村が腕時計に目をやると八時前だった。出勤するにはまだ早い時間だったので、必ず部屋にいる筈だった。もう一度インターフォンを押した。
「おかしいな…必ずいる筈なんだけど…」
河村はそう呟くと、ドアをドンドンと強く叩いた。
「河村さん、河村さん」
その時ガチャリと隣の部屋の鍵が外される音がした。河村が隣のドアを見ると、三十歳すぎの見覚えのある女が出てきた。ここに住んでいた時に何度か見かけたが、一度も話したことはなかった。
「そこには誰もいませんよ」
女が迷惑そうな顔をして河村に言った。
「えっ、引っ越したんですか?」
その女の言葉に、河村は驚いたような顔をして言った。
「さあ…私がここに来た時には空室でしたから」
女はそう言うと、部屋の鍵をかけて立ち去ろうとした。
「そんな馬鹿な…ちょっと待って下さい」
河村が女の後を二三歩追いかけるようにして、大きな声で言った。
「確かに河村祐という人が、隣に住んでいたでしょ?」
「変な言いがかりは止めて下さい。そんなに疑うのでしたら、管理人さんに訊いてみればいいでしょ」
女は断定するような強い口調で言うと、足早に去って行ったが、河村にはまだ信じられなかった。間違いなくここに住んでいた本人が言っているのだから、これほど確かなことはなかった。
「一体どうなっているんだ?…」
河村は呆然としたように言うと、今にも頭が爆発しそうな気がした。
「残念だったわね」
女マネージャーが慰めるように言った。
「俺はどこに住んでいたんだ?確かにこの部屋だ。そう、この部屋に間違いはない」
河村は大きな声で叫ぶと、何度もドアの回りを見つめた。
「あなた、頭がおかしくなったの?」
女マネージャーが怪訝そうな顔をしてその様子を眺めていた。
「そうだ、勤務先に行ってみれば、もっとはっきりとするかもしれない」
河村は気を取り直したように言うと、女マネージャーと車に戻った。
「あのバカ課長、まだいるんだろうな」
そう思うと億劫になるが、ここで確認しておかないと、二度と河村祐という人間には会えないような気がした。
河村が会社の中へ入って行くと、受付の女性や周りの女性が騒ぎ始めた。
「ねえねえ、あの人、東光一じゃない?格好いいわ。素敵ね」
そういう声がアチコチから聞こえてきた。次第に河村の周りには多くの人が集まってきた。河村は自分が東光一だということをすっかり忘れていた。
「サインして下さい」
「私も」
「私も」
次から次へと紙とペンを差し出され、その度ににこやかに微笑みながらペンを走らせた。その場に立ち止まったまま、一歩も前に進むことができずに、周りの人だかりは増えていくばかりだった。
女マネージャーはここぞとばかりに、河村をエスコートしながら出口に向かわせた。
「あなた、しっかりしなさいよ。街中を歩けばどういうことになるか、そのくらいのことは分かるでしょ。もう子供じゃないんだから!」
女マネージャーは河村を車に押し込むと、口を尖らせながら言った。
「あ、ああ…」
河村は疲れきったように言うと、深くシートにもたれかかった。
「会社に直接行かなくとも、電話で確認したらどうだい?」
東光一の声が頭の中でした。
「そうだな。とりあえずそうしよう」
河村は呟くと、電話機を取り出して番号を押した。
「もしもし、営業二課の河村祐さんをお願いします」
河村は電話で自分を呼び出す羽目になった。
「少々お待ち下さい」
明るい女性の声が返ってきたが、しばらくすると、
「河村祐という社員は当社にはおりませんが…」
という無情な答えが返ってきた。河村の期待は粉々に砕け散り、目の前が真っ暗になった。
「俺はどこに行ったんだ?・・・」
河村はいくら考えても答えが出てこない迷路の中に置き去りにされたようだった。
河村は帰る当てもなく、仕方なく東光一との奇妙な同居生活を続けていた。東光一は早く体の中から出ろと、毎日矢のような催促を続けるが、二人にはどうすることもできなかった。
ある日、ドラマのロケを公園で行った時、勝手気ままな暮らしをしているホームレスの姿がふと目に入った。
「あいつらは何を考えているんだろう。毎日好きな時に起き、好きな時に寝て、自由に人生を過ごしているんだろうな?気楽な人生で羨ましいよ」
河村は東光一に呟いた。二ヶ月も同じ体の中にいると、二人でうまく会話ができるようになっていた。
「そうだな。それに比べると、僕たちは何をやっているんだろう。朝早くから夜遅くまで、ただ働き続けるだけで、一体何があるんだ…」
東光一がやり切れない思いをぶちまけた。
「元の俺もたいしたことはなかったけど、今のおまえはそれよりひどい。すべてが人の言いなりで、決められたスケジュールをこなしていくだけだ。こんなことをしていたら早死にするぞ。そろそろ考え直した方がいいんじゃないか?」
河村は同情するように言った。
「そう言われても、僕には他に何もできないし、体が続く限り、この仕事をやり続けしかないんだ。もう少し経つと人気が落ちてくると思うから、そうすれば自由な時間が増えて、好きなことができるようになると思うんだ。それまではおまえも僕に付き合うしかないんだよ」
「それを言われると辛いな…」
河村は沈んだ口調で言った。
翌朝、河村は体の節々が痛くて目が覚めた。
「痛!」
河村は思わず腰に手をやった。自分の体に何が起こっているのか、しばらくの間は分からなかった。薄い毛布を被り、寝ている布団がやけに固い。ぼんやりと目を開けると、天井が目の前に迫っていた。河村が立ち上がれば、すぐにでも頭が当たりそうだった。よく見ると、青いシートのようにも見える。部屋中を見回しても、二畳ほどの広さしかなかった。
「何だ、これは?」
河村は驚いて布団の上に起き上がった。もう一度ゆっくりと見回したが、どう見てもホームレスの家としか思えなかった。河村が戸惑っていると、50過ぎの愛想のいい男が青いシートの端をめくるようにしながら言った。
「山ちゃん、生きているかい?」
その男はやさしそうな微笑を浮かべた。
河村がキョトンとした表情でその男を見た。
「どうした?寝ぼけた顔をして…ほれ、山ちゃんの分までもらってきたから、ここに置いておくよ」
男はそう言いながら、消費期限切れのコンビニ弁当を置いて行った。
「ああ、ありがとう」
河村は反射的にそれだけ言った。
「今度はホームレスか…一体どうなっているんだ」
河村はうんざりするように言うと、何度も頭をかきむしった。
「嘆いていてもどうにもならないか」
河村は諦めたようにため息をつくと、シートをめくって表に出た。周りには青いシートや寄せ集めの木片で作られた住居が二十ほど並んでいた。河村があたりをブラブラ歩き始めると、気さくに声をかけてくる。
「山ちゃん、おはよう」
「おはよう」
河村も慣れたもののように軽く手を上げて、微笑みながらそれに応えた。どうやら今度は山ちゃんと呼ばれているらしい。元の山ちゃんはどこに行ったのか、東光一のように頭の中で声はしなかった。
公園の片隅にあるトイレを見つけ、河村はその中に入った。今度はどんな顔になっているのか、緊張と不安で胸がドキドキとし始めた。こんなところで生活をしているんだから、あまり期待もできないだろう。しかし昨日は確かに東光一だったが、それがどうして今日になると山ちゃんになっているんだ?いくら考えてもそんなことは分かる筈もなかった。
トイレの鏡に映った自分の顔を見て、河村は一瞬にして吐き気を覚えた。歳は四〇過ぎくらいに見え、顔はガマガエルを押しつぶしたように下膨れで、まぶたは大きく垂れ下がり、唇は分厚くて醜かった。
「これはないだろう…あんまりだ」
これ以上の不幸はこの世の中には存在しないだろうと思うほどの絶望感を味わうと、泣き出したい気分になった。河村ががっくりと肩を落として意気消沈している姿を見て、弁当をくれた男が近寄ってきた。
「山ちゃん、今日もいい天気でよかったな」
男はうれしそうな表情を満面に浮かべながら、楽しそうに言った。
「ああ…」
河村が俯いたまま気のなさそうな返事をしてので、男はそれ以上何も言わずに立ち去って行った。
河村は自分のテントに戻ると、改めて回りの物を調べてみた。しかし山ちゃんの過去が分かるような物は何一つとしてなかった。
「ああ、だめか。山ちゃんというのはどんなヤツなんだ」
河村はそう言いながら、山ちゃんというヤツの声を聞こうとして、耳を澄ませてみたが、いくら待っても何も聞こえてこなかった。
「おい、どこに行ったんだ。早く出てきて、俺におまえのことを教えてくれ」
河村は空間に向かって叫んだが、体の中にいるような気配を感じなかった。
「出てこないなら、俺が…」
この体の本当の主になるぞ、と言いかけてやめた。こんな顔で一生暮すと思うと、生きた心地がしなかった。
「くそっ!」
河村は腹立ち紛れに拳で自分の顔を殴った。
「痛い…」
痛みを感じると、いやでも自分の体だと認めなくてはならなくなった。
「どうすればここから出ることができるんだ…」
東光一の時もそうだったが、自分の意志で出ることはできなかった。人を羨むようなことを言えば、その人になれることは分かった。しかしただそれだけではその人になれないことも分かった。東光一の中にいた時も、幾度となく人を羨んで出ようとしたが、全然ダメだった。それが昨日何気なくホームレスの姿を見て、羨ましいと言えば、こんな結果になってしまった。その違いがよく分からなかった。もしかするとこのまま一生ホームレスの山ちゃんでいるかもしれない、そう思うだけで恐怖のあまり生きた心地がしなかった。
「またいつか変身する時が来るまで待つしかないのか…焦ってもどうなるものでもないし…」
河村は諦めたように自分に言い聞かせると、表に出て日向ぼっこをすることにした。何も考えることはなく、ただじっと太陽の暖かさに身を任せる。回りを見ると、それぞれの人が好き勝手なことをやっている。河村のようにぼんやりとしている者、日曜大工のようにのこぎりを引いている者、楽しそうに笑い合っている者、走り回っている者など、この公園には様々な人がいる。
しばらくそうしていると、河村は空腹を覚えてきた。ホームレスになったとはいえ、やはり同じように食べなければならない。河村はテントに戻って、もらった弁当を食べることにした。消費期限は切れているが、腐っているような物はなさそうだった。食べ終わると、テントの中や服のポケットをくまなく探したが、お金らしきものは全くなかった。差し迫った問題は食べ物の調達だった。今は空腹を満たすことができたが、夕食となると、それはどうなるか分からなかった。
「あいつに会いに行って頼んでみるか。二ヶ月間一つの体に同居した仲だから、少しくらいのお金や食べ物なら何とかしてくれるだろう。今日はオフだし、きっとマンションに居るだろう」
東光一のマンションはここから歩いて一時間ほどの距離だったので、河村はすぐに歩いて行く事にした。
暖かい陽射しの中を歩いていると、元の自分の顔に戻って歩いているような錯覚に陥るが、時折映し出されるショーウンドウの顔がすぐに現実に引き戻した。
東光一のマンションに着くと、河村はその周りをためらうようにうろうろしていた。そのマンションはオートロックで外部からは自由に出入りできないようになっている。果たして山ちゃんになった顔を見て、東光一がどう思うか、それを考えると不安でいたたまれなくなるのだった。河村自身でさえその顔を始めて見た時には、吐き気を催し、人生に絶望を感じたほどだ。その顔でマンションの一階にある受付のインターフォンを押して、東光一が部屋のテレビカメラに映ったその顔を見ると思うと、中々勇気が湧いてこなかった。
「この顔、この格好で、あいつに分かるだろうか?」
河村は三十分ほどためらっていたが、いつまでも同じところをうろうろしていると不審者だと疑われそうで、勇気を振り絞るようにしてインターフォンで東光一を呼び出した。
「はい、どなた?」
女マネージャーの取り澄ましたような冷たい声が返ってきた。あの女が見ず知らずの他人を部屋に呼ぶほど、慈愛に満ちているとは到底思えなかった。しかしここまで来て諦める訳にもいかず、当たって砕けるしかなかった。
「あのう、東光一はいますか?」
と言った後で、河村はしまったと思った。昨日まで東光一本人だったので、つい呼び捨てにしたのだ。女マネージャーから冷たい言葉が返ってくると思い、身構えるようにしていたが、意外にも素直に東光一を呼びに行ったらしく、しばらくすると聞きなれた声が返ってきた。
「はい、ご用件は?」
「ああ、俺。昨日まで一緒だった河村祐」
そう言いながら、河村はテレビカメラに映っている自分の顔を想像して、情けない気持ちになってきた。
「えっ、河村祐?」
東光一は過去を思い出すように、その名前をゆっくりと言ったが、テレビカメラに映っているのは、どう見ても四〇歳過ぎの薄汚くて気味の悪い男にしか見えない。
「昨日までおまえの中にいた河村祐だよ。今度はこんな顔のホームレスになっちまった…」
河村は愛想笑いを浮かべたつもりだったが、どうみてもひきつったガマガエルにしか見えなかった。
「変な言いがかりはやめてくれ!おまえなんか見たこともない!」
東光一は語気を強めて言った。
「何を言ってるんだ。この二ヶ月の間ずっと一緒だったじゃないか。そんなに冷たくするなよ」
「悪戯はやめろ!おまえなんかに構っているヒマはないんだ!」
東光一は大きな声で怒鳴ると、インターフォンを切った。
「おい、待てよ、おい…」
河村がいくら叫んでも、返事はなかった。
「くそっ!あの野郎、俺のことを忘れやがって!」
河村は怒りを込めて吐き捨てるように言った。
「しかし、これからどうすればいいんだ…」
河村は力なく呟くと、途方にくれたように来た道を引き返して行った。
疲れきった足取りで、新しい棲家となったテントの前まで戻ってくると、隣に住む男がテントから顔を覗かせるようにして声をかけてきた。
「山ちゃん、どこに行ってたんだい?」
「ちょっと知り合いのところまで行ってきたんだが、門前払いさ」
河村はがっかりした口調で言った。
「世の中、そんなものさ。ホームレスになった途端、今までの知り合いは離れ、有名人になった途端、多くの知り合いができるんだ。元気を出しなよ」
男が元気付けるように微笑んだ。
「ああ、ありがとう」
河村は男の笑顔を見ると、少しだけ心が救われたような気がした。こんなガマガエルのような顔でも、ここの連中は気さくに声をかけてくれる。
「ところで山ちゃん、今日のディナーはどうする?コンビニまで一緒に行くかい?」
男のディナーは消費期限切れのコンビニ弁当と決まっていた。
「今日は疲れたから、もう寝るよ」
「そうか。じゃ、俺が一緒に取ってきてやるよ」
「ありがとう」
そう言うと、河村はテントの中に入って横になった。
「このまま、この顔で、このテントで暮らしていくのか…」
河村は絶望の淵に追いやられたような心境だった。
「こんなことなら、元の俺の方がよほどマシな生活だった。課長にはよく怒鳴られたけど…」
まともな生活をしていた時がはるか昔のように思えてきた。
「それにしても、元の俺はどこに行ったんだ?河村祐はどこにいるんだ?住んでいたマンションでも、勤務先でも、そんな人はいないと言われた。まるで最初から存在しないように…」
そんなことを考えていると、河村は一晩中眠れなくなり、ついには夜が明けてしまった。青いシート越しに少しずつ明るくなってくるのが分かる。両目を見開いてしっかりとその様子を見つめていると、急に希望の灯りを見出したように元気よく起き上がった。
「そうだ、鈴香に会いに行こう。あいつならきっと何かを知っているかもしれない」
河村は居ても立ってもいられなくなり、すぐに出かけることにした。ここから鈴香の家まで歩くとなると、三時間はゆうにかかる。今から歩き始めても、出勤前の鈴香に会えるかどうかは分からない。もしも鈴香が家を出てしまえば、そこで一日中待たなければならなくなる。そう思うと、河村の足は自然と早くなった。
「この顔、この服で、鈴香に分かるだろうか…」
河村は不安そうに呟いてみたが、やはりムリだという風に首を横に振った。そんなことを何度も繰り返しながら、ようやく鈴香のマンションに辿り着いた。
「このマンションだったな」
河村が鈴香のマンションを見上げた時には、全身汗まみれになっていた。袖で額の汗を拭うと、ぷうんと汗と何かが混ざったような臭いがする。急いで体のいたるところを嗅いでみると、強烈な臭いが鼻の奥まで入り、思わず咳き込んでしまった。
「山ちゃんというヤツはどのくらい風呂に入っていないんだ?」
河村がうんざりするように言った。
「これじゃあ、また門前払いかもしれないな…」
河村は自己嫌悪を感じながらも、勇気を出して行くことにした。
鈴香の部屋の前に立つと、警戒されないように、満面の笑みを浮かべながらドアをノックした。
「はい、どなたですか?」
懐かしい鈴香の声が返ってきたので、河村は内心ホッとした。
「あのう、河村祐さんのことでお伺いしたいのですが…」
河村がはっきりとした声で言うと、ドアを少しだけ開けるようにして、鈴香が顔を出した。
「どのようなことでしょうか?」
鈴香は河村の全身を探るような目で見た。河村が自分の臭いを恥じるように、一歩後ろに下がって言った。
「実は彼の住んでいたマンションに行ったのですが、どこに行ったのか分からなくて、鈴香さんならご存知だろうと思いまして…」
河村は怪しい男と思われないように、できるだけ丁重な言い方をした。ここで鈴香にドアを閉められると、もう二度と元の自分に戻れないような気がした。ここは何としてでも鈴香の協力がほしかった。
「私が知りたいくらいだわ。急にいなくなって、電話をかけても全然つながらないし」
鈴香は怒りをにじませるように言った。
「彼が住んでいたマンションは、確か小学校の近くでしたね?」
「そうよ。それがいつ引っ越したのか、私が訪ねて行った時にはもう誰も住んでいなかったわ」
「そうでしたか…」
河村は困ったような表情をしながら相槌を打った。
「私と別れたければ、はっきりとそう言えばいいのよ。それなのに黙って姿を消すなんて、ほんと、頭にくるわ!」
「お怒りはごもっともですが、彼には彼なりの話せない理由があったのかもしれません」
河村が穏やかな声で宥めるように言った。
「どんな理由があるというの?」
「さあ、それは分かりませんが…私も彼を探しているんですが、もし彼の写真をお持ちでしたら、ぜひお見せいただけませんか?」
河村が哀願するような口調で言ったが、鈴香の目は急に警戒するような鋭い目に変わった。
「私の知っている河村祐と、鈴香さんがご存知の河村祐とが同一人物かどうかを確認したいだけです。見せていただくだけでいいのです」
河村は鈴香の不信感を取り去ろうとして、慌てて言葉を付け足した。河村祐という自分が写っている写真を見れば、確かに存在しているという証拠となる。山ちゃんとなった河村には、それだけが元の自分がいたという確かな証しだった。
「分かったわ」
鈴香はそう言うと、部屋に飾っている写真を持ってきて、河村に見せた。
「これよ」
河村が瞬きもせずに真剣な表情でその写真を見つめ続けた。そこには見覚えのある元の自分の顔が鮮明に写っていた。探し求めていた元の自分にようやく出会えた感激で胸が熱くなると、急に涙が溢れ出した。
鈴香は写真を見て涙を流し始めた河村を好奇な目で眺めた。男の写真を見て泣き出す男など今までに見たことがなかった。もしかすると河村とこの男はホモ同士かもしれない、そういう考えが鈴香の頭に浮かんでも不思議ではなかった。
「どうもすみません」
河村が涙と鼻水を袖で拭うようにしながら言った。
「い、いえ」
鈴香は戸惑ったような答えしかできなかった。
河村は今までの自分の身に起きたことを話しても、鈴香が信じるだろうかと、しきりに考えを巡らせていた。どれほど言葉巧みに話せても、夢物語のように誰にも信じられないことは分かっていたが、このまま帰るわけにもいかなかった。
「実は、信じてもらえないと思うけど、河村祐はこの俺なんだ」
河村が両手で自分の胸を何度も叩くようにして言った。
鈴香は唖然とした表情になると、やがてその目は狂った者を見るような目つきに変わった。
「あなたが河村祐ですって!バカなことを言ってないで、帰って下さい」
鈴香が腹立たしく大きな声で言うと、ドアを閉めようとした。
「待て、待ってくれ。今、その証拠を見せるから」
河村はそう言いながら、慌ててドアの隙間に足を入れて閉まらないようにした。
鈴香は証拠という言葉に後ろ髪を引かれるように、ドアから再び顔を覗かせた。
「河村祐にしか分からないことを、何でもいいから訊いてくれ。すべて答えることができる。それが何よりの証拠だろう?」
河村の思いがけない申し出に、鈴香はしばらくの間迷っていたが、結局一つ二つ質問してみることにした。
「それじゃ、私の家族は?」
「お父さんとお母さん、それに三つ上のお兄さん」
河村がスラスラと答えたので、鈴香は少し驚いた。しかしそんなことは調べればすぐに分かることだと思い直すと、別の質問をすることにした。
「それじゃ、湖に行った時に乗ったボートは?」
「えっと…あれは確か、あひるの形をしたボートだった」
河村の答えに、またしても鈴香は驚いた。少しは本当の河村のような気もしてきたが、目の前にいる男の顔を見ると、どうしても信じたくはなかった。
「それじゃ、私のどんなところが好きなのか、教えて」
鈴香の質問に河村は一瞬言葉がつまった。それほど好きでもなく付き合っていたので、改めて訊かれるとすぐには答えが出てこなかった。
「そ、それは…」
河村がうろたえたような表情を浮かべながら、言葉を濁しているのをみて、
「やはり私を愛していないんだ」
鈴香は蔑むような目で見つめながら、冷たく言った。
「い、いや、そんなことはない」
河村が慌てて強く否定しようとするが、額から汗が吹き出すばかりで、鈴香の喜びそうな言葉は出てこなかった。
「だったらはっきりと言いなさいよ!」
鈴香は今まで抱いていたすべての鬱憤をはらすかのような強い口調で言うと、鬼のような形相で河村を睨みつけた。河村は今初めて鈴香の心の奥底に潜む鬼の部分を見たような気がした。
「たとえあなたが河村祐だとしても、私を愛していないことに変りはないわ。それに私が愛したのはこの河村祐という男なの」
鈴香は写真を何度も強く指差しながら言った。
「だからあなたがたとえ河村祐だとしても、私には関係のないことなの。あなたはこの写真の河村祐じゃないでしょ?だから私にはもう二度と付きまとわないで下さい!」
そう言うと、鈴香はドアを強く閉めて鍵をかけた。
河村は全身の力が抜けたようにがっくりと肩を落とし、うなだれていた。
「鈴香が言うように、俺はあの写真の河村祐じゃない。山ちゃんという顔をした河村祐だ。でもあの写真の河村祐という俺は確かに存在しているんだ。今はどこにいるか分からないけど、きっとこの広い世界の中で存在しているんだ」
そう思うと、河村の心も幾分かは救われる。しかしいつ元の自分に戻れるのか、このままずっと山ちゃんでいるのか、それは分からなかった。
「山ちゃんも元の俺も、俺に変わりはない。河村祐でも山ちゃんでも俺に変わりはない…」
河村は自分に言い聞かせるように呟きながら、そのマンションを後にした。
鈴香が部屋に戻って、今まで大切にしていた河村祐の写真を眺めていると、奇妙なことにその写真の顔が少しずつ変わり始めた。そして最後には先ほど追い返した男の顔に完全に変わってしまった。
「きゃっ!」
鈴香は小さな叫び声とともに写真を放り投げた。
「こんなバカなことって…」
そう呟くと、鈴香は自分の目を何度もこすりながら、もう一度床に落ちた写真を見た。そこにはやはり鈴香が愛した河村祐の顔はなく、ガマガエルのような男がひきつった笑いを浮かべた顔があった。震える手で恐る恐るそれを拾い上げると、すぐに火をつけた。炎が勢いよく燃え上がり、河村祐の存在を示した写真がその中で消えて行った。
完