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ソスピローソ

番外編的な内容です。

「……」


 アントニウス・イレイラスは自作の教科書を閉じて無人の部屋を一瞥した。

 並んだ長机には人がいた痕跡すらない。


 彼は王都から一週間程の距離にある村で私塾をやっている。場所は利用頻度が低いからと村の集会場を提供してもらった。

 教える内容は読み書き計算。日が昇ってから沈むまで開いているが、その間ずっといる生徒は殆どいない。

 子供が飽きっぽいとかそういう事情ではなく、この辺りでは子供も労働力なのだ。


 それでもこの村は比較的豊かだし、子供に出来る作業には限度があるので余暇はそれなりにある。

 けれど遊び盛りなので子供達の集中力は長続きしない。

 ゆえに私塾は閑散としている事が多い。


 もっとも、勉強を教えられるのはイレイラスだけだし、教材も十分とはいえないので助かるというのも本音である。

 ただ、今日は特に集まりが悪かった。


「こんな日もあるか」


 日も暮れ、そろそろ夕食の準備を始めようかと思っていたイレイラスは、集会場の外からこちらに近付く足音を聞いた。


「……ん?」


 音の大きさと間隔から足音の主の体格は子供ではない。

 ならば保護者かと判断したイレイラスは髪や服装に乱れがないかを確認して相手を待つ。




 扉を開けて入ってきたのは風雨に晒されて色褪せた外套と帽子を纏った男だ。

 男の外見を見て取ると同時にイレイラスの顔に渋いものが浮かぶ。


「何の用だ、フィルロス」


 発した声は存外に冷たく、拒絶の色が含まれていた。


「それは私のセリフだ。二十代前半で宮廷作曲家に選ばれた天才であり、貧しい音楽家への支援を惜しまない人格者、アントニウス・イレイラスがこんなところで何をしている」

「……」


 男、フィルロスの言葉にイレイラスは沈黙した。

 フィルロスが的外れの事を言ったからではない。彼の言葉は概ね事実だ。

 天才やら人格者については自身が納得するか別として、そういう見られ方をしていたという自覚はある。


 沈黙したのは、意識して遠ざけていた事柄を目の前の男が勢いよく叩きつけてきたからだ。


「後進育成の為に音楽院に行ったという話だったが前に訪れた時にはいなかった。それでどこに行ったかと思えば。ヘイデンも心配していたぞ」


 正直なところ、フィルロスに心配をかけるのは大して心が痛まないが、共通の友人であるヴァイオリニストの名前を出されると辛い。


「一種の気分転換だよ。お前だって「旅をしない音楽家は不幸だ」とか言ってたろ」

「あれは宮廷や音楽院の勧誘がしつこかったから適当に言っただけだ」

「……ともかく、気分転換だ」


 何かを創り出す芸術家に共感する者は多いだろうが、興が乗った時に驚くほど短時間で作品が完成する事もあれば、どれだけ時間を費やしてもまるで進まない事もある。

 後者の現象をスランプと呼ぶ。

 この村に来るまでのイレイラスはそのスランプに近い状態だった。


「何が原因だ? お前をここまで追い込んだのは」

「何で聞きたがる?」

「お前の事はどうでもいいが、お前の新作が聞けないのは些か寂しい。相談くらいになら乗ろう」

「……お前、いつか俺に毒とか盛られないように気を付けろよ」


 悪態をつきながらもイレイラスは相談を選択肢の一つに加えた。

 癪ではあるが、フィルロスは音楽に対する見識は深いし、自分を取り繕わず本音を言える相手だと認識していた。

 この男に相談しても絶対に解決しない問題である事は重々承知だが、吐き出すだけで改善に向かう場合もある。


「……努力は報われる。俺の嫌いな言葉だ」


 視線をフィルロスに固定しつつ近くの椅子に腰かけ、フィルロスが座るのを待たずに言葉を続ける。


「努力を否定する訳じゃない。身に付くものはあるだろう。だが報われるかどうかは別問題だ」


 フィルロスが対面に座り、神妙な顔でイレイラスを見る。

 「世間から天才と持て囃された男が何を」とでも言いたげな顔だ。


「……音楽院には報われずに消えていく奴が大勢いた」


 元々音楽家というのは職業として成立しているとは言い難い。

 コンサートなどの収益だけで生活出来る人間は少なく、多くが貴族などのパトロンに生活費を貰っている。

 多くが、と言ってもパトロンを得られる音楽家すら一握りだ。


「あそこも所詮営利組織だからな。ある程度の実力があって金を払えば誰でも入れる」


 近年「家柄より実力を」という風潮が強くなってきている。

 それ自体は結構な事だと思うのだが、不相応な夢を抱く人間も多くなった。

 音楽に限った話ではないが、専門的な技能や教育は他の分野に利用しにくい。

 音楽院の途中で挫折すれば数年に及ぶ教育と金が無駄になる。


 イレイラスはそんな伸び悩む生徒を見捨てる気はなく、むしろ熱心に指導した。

 だが、才能の壁はあまりに大きかった。努力をすればするだけ才能の差がまざまざと見せつけられるのだ。

 失意の中で退学していく生徒を一人、また一人と見送っていくうちにイレイラスも調子を落としていった。


 自分がそうだったからと、努力で何とかなると錯覚していた。

 努力で何とかなるなら、それはつまり才能があるという事なのだと気付くのに時間がかかってしまった。


「先生と呼ばれる職は相手に感情移入しすぎると辛いか。音楽はとても繊細で儚いものだ。一度調子を崩すと取り戻すのは難しい」

「……お前は見込みがある奴にしか指導しないよな。昔はそれに怒りを感じていたが、今になって思えばそれも正しかったのかもしれない」


 傲慢な考えだが、才能のない人間に指導して希望を見せるのは酷な話なのかもしれない。

 貴族の子息子女なら芽が出なくても道楽で続けられる。趣味に留めれば平民でも問題ない。

 しかし、才能のない平民が本気で音楽をやりたいと言ったら、「お前には無理だ」と切り捨てるのも優しさなのではないか。


 そこで音楽を愛する子供達を否定出来なかったのがかつてのイレイラスだ。


「……」


 話せば話すだけ憂鬱な気分になっていく。

 酒でも飲んで酔いたかったが、醒めた後の自己嫌悪が酷いので控えた方が賢明だろう。




「ここでの生活は楽しいか?」


 それまで黙って話を聞いていたフィルロスが不意に口を開いた。


「音楽なんて潰しがきかないことを教えるより充実感がある」

「音楽を捨てる気か?」

「……それはしない。いや、無理と言った方が適切か」


 いっそ本気で音楽を捨てて教師になろうとした時期もあったのだが、それは出来なかった。

 イレイラスにとって音楽とは人生と同義だ。

 それを捨てるのは過去の否定であり、自己の損失である。


 ふと視線を落とすと強く握りしめた拳が白くなっていた。


「で、フィルロス。相談を受けたお前は何かアドバイスがあるか?」

「苦しんでまで続ける必要はない。ただ、苦しみの中からしか生まれない音楽もある。個人的にはそれも聞いてみたい」

「……お前本気で自分本位だな」

「他人の為の行動はいずれ限界が来る。今のお前のようにな」

「……」


 フィルロスの言いたい事は分かる。

 自分が苦しんでいるのは音楽家というより教育者としての部分だ。

 自分の事だけ考える音楽家ならこんな事で悩まない。むしろライバルが減って幸運だとさえ思うかもしれない。


 それに苦悩の源泉は音楽界、いや芸術界全体が抱える問題だ。

 個人が悩んでどうこうなる問題ではないのかもしれない。


「それすら私に言わせれば余計なお節介だがな。才能がない人間がどうするかは当人が決める事。他人に悩まれてもいい迷惑だ。指導者が自分のせいで苦しむというのは応えるんだぞ?」

「……ばっさりだな、お前」

「優しくされたかったのか?」

「いや。結構辛いが、再起の為には向き合わないといけない問題だからな」


 音楽を捨てる気がないのならいずれ心に折り合いをつけなければならない。

 後進にどう接するのか、そもそも関わらないか。

 その判断材料としてはそれなりに有意義な時間だった。


「お前、もう宿屋は取ったのか?」

「まだだが」

「じゃあ家に泊まってけ。王都の話でも聞きたい」

「分かった」




 そして二人は夜通し音楽について語り合った。

 これまでは精神的に不安定になる事が多かったイレイラスも、その時だけは純粋に音楽の話をする事が出来た。

アマデウス。

フィルロスやアマディアはモーツァルトがモデルなのでサリエリも出したいなぁと思った次第。

まあ、「才能について苦悩する音楽家」という要素だけ貰ったけど。

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