ノイズ
その出来事はアマディアとフィルロスの旅の道中の一幕。
穏やかな木漏れ日の中、二人は林道を進む。
この頃のアマディアはフルートの練習を始めていた。
フィルロスと出会うきっかけになった楽器だし、何より持ち運びに便利だったからだ。初心者用の曲を暗記したのでその気になれば歩きながらでも練習出来る。
やがて視界が開け、二人は湖に出た。
周囲を木々に囲まれ、太陽光を反射して輝く湖面は神秘的な雰囲気を醸している。
そこにいるだけで心が洗われていくようだった。
「ちょうどいい。ここで休憩だ」
「はい」
フィルロスはアマディアから離れ、地面に寝そべって紙を取り出す。
着想を得たので早速楽譜を書く気なのだろう。
アマディマも負けじと湖の縁に座り込んで練習を行う。
奏でられる音はまだぎこちないが、始めたばかりのアマディアは前途に希望を持っていた。
これからどんどん上達していくだろう、と。
そんな時、
「良い音色だ」
「……!」
背後からの声に咄嗟に振り返ったアマディアの視線の先には三十代くらいの男性がいた。
中肉中背、まだまだ若い筈なのに厭世とした雰囲気が漂い、隠者に近いように思われた。
「驚かせてしまったかな」
男性は柔和な笑みを浮かべながら湖まで歩を進め、持っていた革の袋に湖の水を汲んで背負っていた木製の籠に入れる。
その行動から飲料用にしろそれ以外の用途にしろ、男性がこの近辺に住んでいる事が分かる。
フィルロスの話ではこの付近に集落などはないという事だったので、最初に感じた隠者という印象は正しいのかもしれない。
そんな事を考えていると水を汲み終えた男性と目が合った。
「さっきの演奏、上手いと思うよ。何度も聞きたくなる音だ」
「あ、ありがとうございます」
お世辞もあるだろうがアマディアは褒められた事が嬉しかった。
だからだろう。フィルロスが厳しい視線を向けている事に気付かなかった。
「えーと、いつもここに?」
「そうだね。ここで水を汲むのが日課だから」
「それじゃあ、また聞いてもらっていいですか!?」
「……ああ、いいよ」
それから数ヶ月後。フィルロスとアマディアは再び湖を訪れた。
アマディアは逸る気持ちを何とか抑えながら湖の周りで待ち、程なくして籠を背負った男性を発見する。
駆け寄ると男性は驚いた顔になったが、すぐに取り繕う。
「やあ。また会ったね」
「あの、今から聞いてもらっていいですか?」
「……うん。聞こう」
「ありがとうございます」
一礼してフルートを取り出す。
「……ふぅ」
深呼吸してからフルートを口に当て、演奏を開始する。
数ヶ月とはいえ、必死に練習して上達したという手応えと自負はある。
前より楽しませることが出来ると思っていた。
だが演奏途中、男性の顔を窺ったアマディアは彼の笑顔がぎこちない事に気付いた。
はっきり言えば楽しんでいるように見えない。
何故だろうとアマディアは不安になった。
技術はまだ発展途中である。中途半端に上達したがゆえに粗が見えてしまったのかとも思ったが、何か違う気がした。
自分と男性には途方もない溝があるのではないか。そんな気がしてならなかった。
演奏が終わった後、男性は何か言いかけたが口を閉じ、気まずげに視線を逸らす。まるで何を言っても白々しいとでも言いたげに。
アマディアも混乱して立ち竦むばかり。
その時、両者の間にフィルロスが割って入る。
彼は既に自分用のフルートを構え、唇を付けていた。
「……」
演奏を聞きながらアマディアはフィルロスの意図を量りかねた。
何しろテンポもリズムも滅茶苦茶で、甲高い音はただただ耳障りなだけだったのだ。下手というより、わざと不快に吹いているとしか思えない。
しかしアマディアは見てしまった。男性が心地良さそうに耳を傾けているのを。
「……前に、似たようなケースに遭遇した事がある」
フルートを口から離したフィルロスが憂鬱げな口調で語り始めた。
「音に対する好悪の感性が常人と逆なのだろう? だからこんな森に隠棲していたと」
「……」
男性は無言。けれど、その無言の意味が困惑や否定ではなく肯定だとアマディアには分かってしまった。
「難儀だな。鳥の囁きや川のせせらぎ、木の葉の揺れる音も駄目か?」
「気分次第ですが、あまり心地よくはありません」
そこまで言って男性はアマディアに向き直り、
「……済まない」
沈んだ声で頭を下げた。
「自分に良い音として聞こえたという事は、本当は未熟だと分かっていた筈だった。しかし、人恋しさもあって……迂闊だった」
申し訳なさそうにする男性を前に、アマディアは俯いて言葉を発する事が出来なかった。
フィルロスが男性に何かを告げ、彼が立ち去った頃、双眸から自然と涙が零れる。
未熟だと言われた事が悲しいのではない。
ただ、同じ気持ちを共有出来ない事が悲しかった。これからどんなに上手くなっても演奏を聞かせられないのが辛かった。
フィルロスがしゃがんで彼女の肩を抱きしめる。
それでも啜り泣きがとまるまでにはしばらくの時間が必要だった。
前後の話との時系列なんかはスルーの方向で。
明るい話も書きたいなぁ。