アンダンテ・ファヴォリ
三題噺「音楽」「悪態」「足」というお題。
その日、アマディアは以前アデルの歌を聞いた劇場に連れてこられた。
劇場内は閑散としていて職員はちらほら見かけるが、客らしい人は見ない。それもその筈で、入り口に張られた公演日程によれば今日は何もない日なのだ。
なのにどうして劇場に来たのかアマディアがフィルロスに尋ねると、
「明後日、知り合いの公演がある。今日はそのリハーサルを見に来た」
「どんな人なんですか?」
「アデルと同じビートホーフェン音楽隊の一員で、私が知る中でも有数の音楽家だ」
淡々と、しかしどこか楽しさを見せながら控え室のある区画に移動し、幾つか並ぶドアの中の一つを叩く。
「ヴァルトシュタイン、いるか? 私だ」
「鍵はかかっていません。どうぞ」
「失礼する」
「失礼します」
入室した二人を迎えたのはきっちりとしたタキシード姿の二十代後半の男性だった。傍らには同年代くらいの女性が控えている。
「その子が噂のお弟子さんですか?」
「そうだ。アマディアという」
「よろしく、アマディアちゃん」
にこやかな笑みを浮かべて近付いてくる男性を前にし、アマディアは思わず一歩後ずさってしまった。
「っ……」
最初は丈の合っていないタキシードを着ているのだと思った。
だがそれは間違いだったと直後に思い知らされる。
男性が歩くたびに肩から下がぶらぶらと揺れる。両腕がないのだ。
「幼い頃に事故でね。命があっただけでも幸いだけど」
テーブルに着いた後、ヴァルトシュタインと名乗った男性はアマディアにそう説明した。
彼は終始にこやかで、出会い頭のアマディアの態度にも気分を害した様子はない。
その雰囲気はアデルと似ていて、アマディアは二人が同じ音楽隊なのだと実感した。
「両腕がなくとも優れた音楽家だというのに、醜いだとか下品だとか罵る輩が多くて困る」
フィルロスが機嫌が悪そうに呟き、だからフィルロスはリハーサルの日に来たのだと、アマディアには思えた。
「まあ、こんな状態では色々言われても仕方ない。アデルのように健常者の振りが出来るレベルなら葛藤もあるのだろうけど、自分くらいになると見世物になるのも止むを得ないと諦めもつく」
「見世物って……嫌じゃないんですか?」
「嫌ではあるが、奇異に映るのは事実だし、どうしようもない。それにもう慣れてしまったよ」
慣れた。その言葉はアマディアに重くのし掛かる。
よく考えれば先程の自分のような態度を取られるのが初めてな筈がない。今までずっと嫌悪や侮蔑の感情を向けられてきたのだろう。
「それに、考えようによっては良い事かもしれない。話題性には事欠かないから聴衆の数は同年代の音楽家よりずっと多い」
「でも、そんな理由で聴きに来られても……」
アマディアの言葉に、ヴァルトシュタインはしょうがないとでも言いたげに視線を落とした。
「音楽に限らず芸術の分野は個々の感性に依存するから明確な指標が作りにくい。そんな中で聴衆の数は一番分かりやすい評価だと思う。聴衆が多い音楽が質の高い音楽とは限らないが、聞く人がいなければどんな素晴らしい音楽でも意味がない。好奇心で聴きに来た中の一部でも、音楽を評価してくれるならそれでいい」
「……」
正当に評価されたい。ただそれだけなのになんて難しい事か。
アマディアは偏見という概念の存在を身に染みて理解した。
「……」
空気が重くなったのを察したのか、不意にフィルロスが「そういえば」と呟いた。
「ヴァルトシュタインが何の楽器を演奏するか分かるか?」
「えっと……アデルさんみたいな声楽とか管楽器? でも……」
まだ聞いていなかったとアマディアは頭を悩ませる。
一番有り得そうというか現実的なのは歌だが、フィルロスは楽器と言ったので除外しなければならない。
そして手を使わずに演奏出来る楽器は少ない。管楽器も口だけで演奏するのは困難だろう。
余談だが、フィルロスがあまり情報を寄越さない時は自分を試しているのだとアマディアは気付き始めた。
ヴァルトシュタインもフィルロスの意図を読み、敢えて説明しなかったのかもしれない。
「……分かりません」
数分間悩んだ後、アマディアは降参した。
それに対し、フィルロスは心なしか優越感を垣間見せ、
「ピアノだ」
「ピアノ……」
正解を教えられてもいまいち釈然としない。
「実際に見た方が早いな。リハーサルは今からでも?」
「大丈夫ですよ」
笑みで答えたヴァルトシュタインと別れ、フィルロスとアマディアはホールに向かった。
前日のリハーサルという事で観客席に人は殆どいない。というか彼等二人だけだった。
やがて舞台袖からヴァルトシュタインが姿を見せる。
彼は通常より高く設定された椅子に座ると上体は僅かに後方へと傾け、両足を顔の高さまで上げる。
その状態を維持したまま大きく深呼吸。
ゆっくりと指を鍵盤の上に置く。
「構造的に足の指で手の代用をするには限界があるが、ヴァルトシュタインの限界は凡百のピアニストの指を遥かに上回る」
そして演奏が始まった。
奏でられるのは、とても足で弾いているとは思えない滑らかな調べ。
柔らかな音調は聞いている者の心を和ませ、深い感慨を与える。
後半になるに連れて曲調が激しくなっていくが、素早く、的確に足を動かしてミスをせずに演奏を続ける。
演奏が終わり、一礼して舞台から去るヴァルトシュタインを拍手で見送る。
今まで何人もの音楽家と出合ったアマディアだったが、人が音楽にかける情熱とそこから生まれる可能性いうものを改めて思い知らされた。
実際いるから凄いよね、足でピアノ演奏する人。
書き溜めが尽きたので次の話は遅れると思います。