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ファチルメンテ

 音楽学院の生徒にとって食事は重要である。普通の人間が考える以上に演奏は体力を使うからだ。

 今日の昼食はパンにスープ、それに野菜のサラダと焼いた肉の切り身が幾らかある。

 このセットは食堂のメニューの中では値段も量も手頃な品だ。


 だが、肉の切り身を一口食べた途端、胃から吐き気が込み上げてきた。

 咄嗟に手で口を押さえ、何とか堪える。

 それでも料理を食べる事は出来ず、殆ど残したまま食堂を後にした。


 通路を歩きながら手の平を眼前にかざす。

 いつになく青白く、そして汗ばんでいた。軽く眩暈もする。

 明後日に演奏会を控えているのにこのままでは駄目だ。


「……練習、しようか」


 やはり日々の積み重ねが大事だ。

 ……けれど気分が悪いなら休んだ方がいいかもしれない。演奏会も。

 いや、でも……

 迷いながらも音楽室に向かう途中で懐かしい人物と遭遇した。


「久し振りだな、リヒター」

「フィルロス先生!」


 フィルロス先生は楽聖とも呼ばれる偉大な音楽家で、何度か指導を受けた事がある。

 気紛れな面もあるがその実力は確かだった。

 傍らには見知らぬ少女がいるが、弟子か何かだろうか?


「……リヒター」

「は、はい」


 名前を呼ばれてリヒターは体を強張らせた。

 ただ名前を呼ばれただけなら緊張する必要はなかったのだが、フィルロスの声に落胆が混じっていたのだ。

 額に汗が浮かぶ。


「顔色が悪いが体調管理はしっかりとしているのか?」


 大丈夫です。そう言い繕うとしたが、途中で断念した。

 フィルロスの言葉は問い掛けではなく断言だったからだ。

 体調管理が出来ていない事を見抜いて暗に責めているのだ。


「……すみません」

「お前、プロの音楽家を目指すのはやめろ。向いていない。趣味に留めておけ」

「……っ」


 体調管理の不備を叱責されるのは覚悟していた。

 しかし、そこを飛び越えて夢を否定されたリヒターは両目を見開き、続いて視線を下に落とした。

 息が苦しくなり、両手が無意識のうちに震え出す。

 それから数秒が経ち、


「リヒター」


 自分を呼ぶ無感情な声にリヒターはゆっくりと顔を上げる。

 そこにあったのは冷めたフィルロスの顔だ。失望の感情を隠そうとすらしていない。


「この程度で動揺するからお前は駄目なんだ」


 フィルロスの一言一言がリヒターの胸を穿つ。


「趣味ならとやかく言わない。やめたくなったら好きにやめればいい。だがプロはそうはいかない。気分次第で逃げる事は許されない」

「あの……」

「貴様、今のざまでプロになれると思うなよ」

「くっ……」


 それ以上この場に留まる事がリヒターには出来なかった。

 逃げるようにフィルロスに背を向けて走り出す。




「……」


 リヒターと呼ばれた青年が去った後、アマディアは恐る恐るフィルロスを見上げた。

 平生のフィルロスなら絶対に見せない態度にすっかり萎縮してしまったのだ。

 今日は彼に連れられて見学に来ただけなのに妙な事になってしまった。


「……ちょっとした荒療治のつもりだったんだが」


 溜息を漏らしながらフィルロスはアマディアと視線を合わせた。

 それがいつものフィルロスの眼差しだったのでアマディアは安堵した。


「えっと……」

「話は食堂にでも行ってからにしよう。あそこはデザートも美味しい」


 アマディアは先程の態度を尋ねようとするが、それを遮るようにフィルロスが口を開いた。

 立ち話する内容でもないだろうとアマディアもそれに同意する。




 案内された食堂はフィルロスの説明によると、生徒だけでなく保護者や入学希望者が見学に訪れる関係でメニューが充実しているらしい。

 空いている席に座り、注文したデザートを半分ほど食べた頃になってフィルロスが話し始めた。


「さっきの青年はリヒター。ここに在籍するピアニストだ。実力ならこの学院の中でトップクラスなんだが、とにかくプレッシャーに弱い。公演が近付くと緊張で体調を崩すし、逃げ出そうとする。実際に開始直前で逃げ出したのも一度や二度ではない。普通はそんな事をすれば学院側からも処分が下されるべきなのだが、彼の家は音楽家の一族で両親も祖父母も著名な音楽家。学院側も遠慮があって厳罰は行いにくい。そして、それらの事情が余計にリヒターの重圧になっている」


 そこまで一気に言い切り、デザートと一緒に注文していた紅茶を口に含む。


「荒療治っていうのは緊張に慣らそうとしたって事ですか?」


 アマディアはあの時のフィルロスの態度が自分に向けられたらと考えてみる。

 あれに耐えられるなら大分精神的に強くなれるだろう。


「それもあるし、私としては彼の才能をこんな所で潰すのは惜しい。趣味に留めろというのは本心だ」

「そこまで凄いんですか?」

「……一度、逃げ出そうとしたところを捕まえて演奏会に放り込んだ事がある」


 フィルロスは饒舌だった。

 だからアマディアは極力口を挟まない事に決めた。


「序盤は初歩的なミスを連発したが中盤になると落ち着きを見せ始め、終盤の演奏は中々のものだった。力強さの中に神経質な雰囲気が混じった演奏で、それが独特の味があり、もっと洗練させれば個性と呼べるものになるだろう。小手先の演奏だけ上手く、何の個性もない音楽家が多い中では立派な武器になると思ったのだが……なかなか上手くいかないな」

「プロになるのは難しいんですか?」

「皆が私のように大らかなら良いのだが、大半の人間がプロに求める物はどんな状況でも一定水準以上の演奏が出来る事だ。彼の終盤の演奏は水準を遥かに上回るだろうが、逆に序盤中盤は遥かに下回る。……まあ、今のままだと無理だろう」


 こればっかりはどうしようもないと、フィルロスは長い息を吐いた。


「アデル以上に本人の心持ちの問題だからな。もっとも、今回も逃げ出すようなら無理矢理出演させるくらいはするが」




 二日後。

 アマディアは学院内のコンサートホールにいた。

 元々この日に行われる演奏会の鑑賞が目的だったのだ。

 座席に座って開演を待っていると、講師らしき男がやって来て隣席のフィルロスに耳打ちする。

 漏れ聞こえた内容によると案の定、リヒターは逃げ出したらしい。

 フィルロスは仕方ないと呟き、アマディアを残して何処かへと消えた。恐らく有言実行するつもりなのだろう。


 そしてリヒターの順番になった時、傍目にも分かるほど緊張によるぎこちない動きで彼はステージ上に現れた。

 それを見て不安を覚えたのはアマディアだけではないだろう。


 だがいざ演奏が始まるとそんな感想は吹き飛んだ。

 全てフィルロスが評した通りだった。

 リヒターのピアノは最初こそ不協和音を発していたが、やがて壮大でいて緻密な旋律を奏で始める。

 勇壮さと静謐さの融合。その技巧を成し得るのにどれだけの練習を重ねたのか、アマディアには想像出来ない。


 フィルロスが期待している事に納得すると同時に、それほどの才を持ちながら燻ぶっている現状に世の中の儘ならなさを感じずにはいられなかった。

リヒターのモデルはロシアのスヴャトスラフ・リヒテル。

繊細な音楽家ってだけだけど。


facilmenteイタリア語で緊張しないでという意味の音楽用語らしい。

リヒターは無理だったけど。

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