オーバーチュア
ある国の辺境の村に一人の男が訪れた。閉鎖的な村は男を歓迎したとは言いづらかったが、男は気にした風もなく村を見て回った。
旅の音楽家であり、「優れた音楽を創造するには経験が必要」という持論を持つ男にしてみれば閉鎖的な環境だろうがそれによって冷たい扱いをされようが、それが人の営みが生んだものなら肯定的に受け止められた。(あくまで男の感性が独特なだけで音楽家全てがそうではない)
日が沈む頃、男は村の外の小高い丘にいた。
宿に泊まる金がない訳ではないが、初めて訪れた場所では必ず一度は野宿すると決めていた。部屋の中にいては分からない虫や小動物の鳴き声を聞きたかったからだ。
夜になると村唯一の酒場から賑やかな声が聞こえてくる。
最初こそ雑多な音の集合だったが、誰かが歌い出したのに呼応して合唱が始まった。
貧しい田舎では金や物を必要としない娯楽が発達する。その中の最たるものが民謡だろうか。
民謡と一口に言ってもその地方の気候や風土によって様々である。それを聞いて歌の背景に思いを馳せるのも彼の楽しみだった。
彼は防寒具のマントを夜風にはためかせながら、酒場の灯が消えるまで音に聞き耽った。
翌日、男は村を見下ろせる丘の中腹に無造作に座り込み、数少ない荷物の一つである笛を取り出す。
演奏するのは昨夜聞いた曲。
男は一度聞いた音楽は即座に再現出来る技能を有していた。彼自身は再現にすぎないと言ってこの技能を誇る事はなかったが。
「……」
暫く演奏に没頭していた男はふと、笛を吹いたまま立ち上がって振り向いた。
その先には一人の少女がいた。
服は継ぎ接ぎだらけ、髪には汚れやふけが付いている。十中八九村の人間だろう。
「あの、歩いていたら音楽が聞こえてきて……その近くで聞いてみたいなって……」
「……それは歓迎だが、家の手伝いをしなくてもいいのか?」
少し気になったので笛から口を離して尋ねてみる。
田舎では子供も貴重な労働力である。自分が引き留めて叱られでもしたら些か気分が悪い。
「今日はいいって言われたんです」
「そうか」
仕事の内容によっては子供がいない方が効率がいい事もある。その類だろうと男は納得した。
「それじゃあ演奏を再開しよう」
「はい!」
たった一人とはいえ観客がいると気分が変わる。男の中では自分だけが楽しむのと誰かに聞かせるのでは明確な区切りが存在する。
人に聞かせる用の演奏に切り替えた男は数十分に渡って笛を吹き続けた。
その間、少女は顔に笑みを浮かべ、目を煌かせながら聞き入り、それが男の気を良くさせた。
終盤に差し掛かった頃、男はある事に気付き、笛の咥え方を変えた。
そして少女の方を伺うが、相変わらず楽しそうにしている。
それを見て、男は自分にしか分からないくらい小さく笑う。
演奏が終わった後、ぱちぱちという拍手を身に受けながら男は立ち上がり、ただ一人の観客だった少女に一礼した。
「ご清聴ありがとう」
「とっても素敵でした!」
「そうか」
世辞のない、率直な称賛に男は晴々とした気分になった。
「君は音楽が好きか?」
「はい! 昔隣に住んでた人が演奏が上手で……あの、また聞きに来てもいいですか!?」
「ああ、少なくとも二三日は滞在するつもりだからいつでも。ただし今日はもう帰った方がいい」
空を見上げると、太陽が彼方の山に隠れようとしており、二人の影も長くなっている。
「はーい!」
元気よく返事をして村に戻っていく少女の背を見送りながら男は顔を綻ばせた。
次の日、小鳥の囀りで目を覚ました男が丘の上から眼下を見渡すと、村の入り口に一台の荷馬車が止まっているのが見えた。
降りてきたのは村には不釣り合いな、上質な絹で編まれた服を着こなす男だった。
肌も、村の人間は日中の農作業で焼けているが、男にそんな様子はない。行商人かとも思ったが、どうも雰囲気が違う。
様子を伺っていると、一人の村人が男と言葉を交わし、村人の傍らにいた少女が馬車に乗り込む。それを見届けた男は村人に膨らんだ包みを渡す。
見れば、他の家からも家人が年頃の娘を連れ出すのが分かる。
「身売りか」
寒村では珍しい話ではないし、非難するつもりもない。家族一緒に飢え死にしてくださいとは言えない。
それに今回はむしろ有り難がるべきだろう。色々な手間が省けるのだから。
彼は帽子を押さえながら姿勢を傾けると、一目散に平野を駆け下りた。その速度たるや凄まじく、あっという間に村に入り、娘を連れた村人の前に立ち塞がった。
「な、何だお前さんは!?」
突然現れた男に村人は慌てふためいた。手を引いていた娘が男の顔を見て小さな声を漏らしたが、それには気付かない。
「面倒だから単刀直入に言う。その子を買いたい」
「なんだと?」
「村の入り口にいる売人と同じだ。別に問題ないだろう。そちらは食い扶持を減らせるし、お金も手に入る」
「……」
村人は何も言わずに男の爪先から帽子までを胡散臭げに見つめる。
「悪いが……」
やっとの返答は芳しいとは言えなかった。
売人への心証を気にしているのかもしれないし、みすぼらしく見える旅人が金を払えると思っていないのかもしれない。あるいは両方か。
だが後者に関しては男にとって問題ではなかった。
「代金はこれだ」
男は懐から取り出した巾着を放り投げる。
受け取った村人は手から伝わるずっしりとした重さに目を剥き、慌てて結び目をほどいて中身を確認する。
「こ、こりゃあ……!」
中に入っていたのは田舎ならかなり長期に渡って生活出来るだけの金だった。(物的充足より精神的充足を尊ぶ男にとっては大した出費ではなかったが)
「それだけあれば不満はないだろう?」
「ああ。さあ、早くこの人に付いていくんだ!」
村人は娘の手を強引に引っ張りながら男の方に押し付けた。
少女の体を受け止めた男は微かに眉を吊り上げたが、村人は後ろめたさなど一切感じていないようだった。
「前言撤回だ。君さえよければすぐに村を立つ」
「は、はい……」
少女の声は昨日の溌剌としたものとは一転、暗く沈んでいた。
それを痛ましく思いながら、男はすぐにこの村から離れた方が良いと判断した。
二人が村を出て三十分。
周辺の景色を見ながら歩く男の後ろを少女はとぼとぼと付いていた。
「……後腐れがない方法ではあるが、君にとっては失礼極まりなかったな」
「あの、どうして私を買ったんですか?」
教養がなくとも昨日あったばかりの人間が自分を助けるのは不自然だと分かったのだろう。
少女の目には隠しきれない不安が浮かんでいた。
「……音楽」
「え?」
「君に音楽の才能があるから欲しくなった」
人によっては信じられないかもしれないが、男にとってはそれが全てだった。
「……昨日の演奏の時、途中で普通の人間には聞こえない音域の音を出した」
彼は生まれつき人より幅広い音を聞き取る事が出来た。
成長して各地の音楽を研究するようになったが、彼は常に物足りなさを感じていた。「もっと多彩な音を使えば良い音楽になるのに」という気持ちによくなる。
常人より広い可聴域を持つ彼にしてみれば普通の人間が作曲した音楽に不満を持つのは仕方ない事であるが、音楽こそ自分の人生の全てだと考える彼にとっては死活問題であった。
自分で作曲や演奏もするのだが、やはり他人の音楽も聞いてみたいし、本気の演奏を聞いてほしい。
そんな訳で男は旅の傍ら、自分と同じように幅広い音を聞き取れる人間を捜していたのだ。
「そして見付けたのが君だ」
「そうだったんですか……」
男の動機を聞き、自分がこれからどうなるのか不安に思っていた少女も、男が自分に向ける感情が下卑たものではないと分かり、僅かながら表情を緩めた。
しかし、それでも不安が完全に拭い去られた訳ではない。
「あの、もし私が音楽をやりたくないって言ったら……」
「無理強いはしない。付いてくるのが嫌なら別れよう」
音楽をやらないなら捨てられるのではないかと危惧したのだろうが、男にそんなつもりはなかった。
また、男の旅は一箇所に滞在してその地方の民謡を研究する事はあっても基本的には放浪である。
長いこと一人旅だった事もあり、確実に不自由させるだろうと予測出来た。男は少女に辛い思いをさせるのは本意ではない。
一緒の旅が嫌だと思った時の為の選択肢も用意してある。
「アンネイヴの音楽学校か、兄弟子のストレゲイア学院にでも送る。個人的には前者がいいが、音楽家になる気がないなら後者でもいい」
どちらも全寮制であり、衣食住に困る事はない。そして卒業までの授業料を一括で払うくらいの手向けは出来る。
久方ぶりに見付けた逸材を惜しむ気持ちもあるが、強制させて作った音楽には魅力を感じない。(まったく興味がないかと聞かれたらあるというのが本音だが)
「……分かりました。一緒に行きます」
逡巡した挙句に少女は同行を望んだ。
少女は自分が家の中で疎まれている事は子供心に理解していた。そんな中で自分に好意を向けてきてくれた相手と別れるのは辛かったのだ。
「それでは行こうか。といっても目的地のない旅だ。のんびりと行こう」
「は、はい!」
男は歩く速度を緩めて少女の横に並ぶ。それは今後の両者の関係における男の意思表示だった。
少女もそれが分かったのか破顔する。そしてそれが今日初めての笑顔だった。
「あ、あの」
「ん、どうした?」
「名前をまだ……」
少女の言葉に男は意表を突かれたような呆けた顔になり、続いて口を押さえて笑い出した。
「ふふっ、そういえばまだ互いに名前を知らなかったな」
「私の名前はアマディアです」
「アマディア。アマディア、か」
彼は何度か少女の名前を反芻する。
「いい響きだ」
「あの、お兄さんの名前は?」
「テオフィルロス。呼ぶ時はフィルロスやフィルでもいい。改めてよろしくな、アマディア」
「はい! フィルロスさん!」
そして変わり者の音楽家と音楽家の卵の旅が始まった。
こういう二人旅が何だか好きなんです。