(18)警告‐Warnung‐
「薬師寺丸薬袋。今から彼女と合流するわ」
そう言う紙縒の言葉に従って、とりあえず騒ぎになっているヴァニパル港を離れ、外へ出るための外門に向かっていた。
「なんで今、薬師寺丸薬袋の名前が出てくるの?」
多少刺々しさが入り交じった言い方で、ヘカテーは首を傾げた。その質問に紙縒は振り返って、後ろ向きに歩きつつ、
「理由はわからないけど、薬師寺丸薬袋には狂悦死獄を止めなきゃいけない理由があるみたいね。それで目的が同じだったから共闘することにしたの」
「目的が同じ……って紙縒も狂悦死獄を!?」
「あぁそっか……その話からしなきゃいけないんだったっけ。康平、いい?」
「あ、うん」
康平が頷く。
そして紙縒も頷き返し、前に向き直った。
その時、紙縒のさらさらとした茶がかった黒髪が宙を横切り、アルヴァレイは一瞬目を奪われる。
「康平は『狂悦死獄の櫃』なの」
今何て言った?
いや、信じられないモノを聞いたが故の聞き直しではなく、つい紙縒の髪に見とれて大変なことを聞き逃した気がする。
それはそうとして、実際に口に出すことができない小心者のアルヴァレイは、話の続きで何を言ったか推測できることを心から祈っていた。
「『櫃』……って紙縒、何それ?」
ヘカテーがそう言った。
櫃? 櫃って何だろう。
「こよりん、その説明はボクに任せてくださいよ。最近、あんまり出番がねぇのでちょっとつまんなくて」
それ以上に少ない俺やアリア、シャルルやルーナはどうなる……。
紙縒はアプリコットをチラッと一瞥すると、少し思案顔になり頷いて見せる。対するアプリコットは小さくガッツポーズをして目を輝かせた。
そんなに嬉しい!?
「それでは『狂悦死獄の櫃』とは何なのか、フリップで説明いたしましょう」
やたら丁寧な喋り方で、アプリコットの『狂悦死獄の櫃』講座が始まって、アプリコットはどこからか本当にフリップを出してきた。
「まず狂悦死獄とは何か、これはもちろんご存じの通り伝説的な暴君『狂王』マ
リス=ドストリゲスのことです。優れた魔法センスを持っていましたが、その全てを他国への侵攻に用いました。マリスについてはこれ以上の説明は要らないと思います。それでは『櫃』とは何なのでしょうか? この世界においてもあまり一般には知られていないと思いますが、『櫃』とはマリスの右腕とも言える部下だったアゼルがマリスを封印する時に用いたもののことです」
アプリコットはフリップの絵と説明を対応させて、分かりやすく説明してくれる。そして紙縒はアプリコットに軽く手を振って話の続きを自分に戻した。
「封印はまだ有効なのに、なぜか今狂悦死獄は動き始めてる。『櫃』が無事にもかかわらずね。それでも狂悦死獄は『櫃』を壊そうとしてきた。つまりこの『櫃』はまだ狂悦死獄にとって必要だってことね。動き方からしても全盛期とは程遠い。薬袋は『櫃』が狂悦死獄を封印してる訳じゃなくて力を封印しているからだって言ってたけど……確証はないわ」
なるほど。
狂悦死獄の櫃。それが何なのかはよくわかった。わかったけど新たな疑問が生まれてきた。
「その『櫃』って紙縒のなのか?」
「えっ?」
そんな感じの言い方だったからそうかと思ったけど、違ったのかな。
「じゃあ紙縒にとって必要なのか、近くに置いておきたいとか、そんな感じか」
「なっ、にゃっ、何言ってんのよ! そんにゃわけ……ない?」
なぜ疑問形?
前にそんな感じの仕事をしてるって聞いてたから、てっきり必要なのかと思ったけどそうでもないのか……。
「でもその……要らないとかそう言う訳じゃなくて……って話が違うの! それはいいの! アルは関係ないでしょ!」
「いや、関係ない……けどそんな言い方されるとちょっと傷つくな……」
「え!? アルってまさか私のこと……ううんダメ……ってまた話が違う! それはおいといてっ! 今は狂悦死獄の話をしてたの!」
なぜか顔を真っ赤にして、1人だけテンションが異常に高い紙縒が少し心配になった時、康平も同じように思ったのか、紙縒の肩を叩いて落ち着かせるように耳元で何か囁いている。
「コホン。じゃあこれからどうするかとりあえず説明するね」
どうやら落ち着いたようだ。
「えっと、さっき言った通り、薬袋たちと合流して、さっきの狼の魔力痕を追跡します。それで狂悦死獄のいる場所を特定して……」
紙縒は人差し指を前に向け、親指を上に立てるようなジェスチャーをして、
「撃墜するってこと」
その手を跳ね上げるような仕草をする。
「こよりんこよりん、狂悦死獄とは言っても、殺しちまってもいいもんなんですかね」
「本当なら上の判断を仰ぐんだろうけど、今はダメなんでしょ? 特例を適用するしかないじゃない。現に歴史が変わっちゃってるわけだし、最低限の修正義務ってやつね」
話についていけてない大多数はいったいどうすればいいんでしょうか。
「薬袋とはどこで?」
「門を出た辺りでわかるって言ってたから……詳しいことは何も聞いてないの」
紙縒が首を傾げて思案顔になる。
そして指を二本突き出した。
「2人来るらしいの。アルわかる?」
「そう言われてもなぁ……他になんか手がかりないのか?」
「なーんにもっ。薬袋が笑ってたからろくでもないことしようとしてるんだろうけどね」
街の中を大きく迂回して、門の近くにきた時、ワッという大勢の歓声が門の外から聞こえてきた。
「何だろう……外が騒がしい?」
「何かやってるのかしら?」
『いいぞやっちまえ』『もっとだもっと』的な発言も聞こえてきたから喧嘩だろうか、とアルヴァレイが無難な考えに辿り着いた時だった。
うおおぉぉっ、とさらに大きな歓声が聞こえてくる。
「ったく騒がしいな」
門の見張り番がぶつぶつと文句を言っている。紙縒はその人に近づいて、
「何かあったの?」
「ん、お前か。最近見なかったな。少年は何処だ? 一緒じゃないのか?」
「康平ならそっちよ」
とこっちの方を指差してくる。
どうやら知り合い、かどうかは別として話したことのある人のようだ。話の内容から察するに、ギルドの関係なのだろうか。
「また人数増えたなぁ。『パラダイスミスト』の奴らか? 見ねえ顔だが」
「そんなとこよ。ところで外のは何?」
「昼の門開き待ちの通商人が騒いでんのさ。見に行ったわけでもないから詳しくはわからないけどな。で、お前ら出るのか? 出るんなら……」
目で人数を数えつつ、門番は紙縒に問いかける。
「うん、10人ね。よろしく」
「あいよ」
門番はなぜかため息をつくと、大きな外門の隣に据えられた扉に手をかけ、少しだけ開けて首だけ突っ込んだ。
「『パラダイスミスト』10人、中を通してやってくれ」
中にいる誰かにそう言った。
「10人ってやけに多いな。今度はどんな無茶吹っ掛けられたんだ?」
中から聞こえるくぐもった声はそう言ってハハハッと笑った。
「普通に門から出ないのか?」
アルヴァレイが紙縒に訊ねると、
「ほんとはこの時間は開いてないの。多少顔が利くから、門番の駐在所の中を通らせてもらうのよ」
と、ウィンクして見せる。
その流れるような動作が手慣れていて、一瞬ドキッとしてしまった。
でも、紙縒って……俺の周りでは珍しく普通の――人外じゃないという意味で――女の子だ。
紙縒以外にはヴィルアリアやメイランもいるけれど。
数え上げてみると。
シャルル。
ルーナ。
ヘカテー。
ルシフェル――一応エヴァやアリス,シンシアにミーナ,シャルルとかも含まれるけど、結局人外だしな――。
ティアラ。
インフェリア。
アプリコット。
考えれば考えるほど人外ばっかりだ。
「そこの少年、他に見られると面倒だ。早く入れ」
気がつくと、皆いなくなっていた。
「あ、すいません」
言われた通りに中に入ると、ヘカテーが反対側の扉を開けて手招きしていた。
「アル君、早く早く」
「お、おう」
ヘカテーの手招きに従って、扉の前に行くと、そこから外壁内に作られた通路に繋がった扉だった。
「ありがとうございました~」
通路に出ると、ヘカテーは最高の笑顔で振り返って礼を言い、その扉を閉めた。
「そこの扉ね」
見える中で一番近い扉を指差して、ヘカテーは歩き出す。
アルヴァレイもその後を追う。
「ねぇアル君」
「ん?」
2人が扉の前に立った時、ヘカテーはわずかにうつむいて、突然アルヴァレイの袖を引っ張った。
「さっき狼と戦ってた時、アル君は戦ってなかったよね。どうして?」
ヘカテーは呟くようにそう言った。
「え……ああ、俺の武器はお前と紙縒に取られちゃってたし……それにお前がティアラ達を守っててって言ったから」
「ヘカテーも、本当はヘカテーもアル君に守って欲しかったよ?」
ガシッとヘカテーの白くてすべすべした柔らかい手がアルヴァレイの首を掴んだ。
「えっ?」
ドガァッと、ヘカテーはそのままレンガ造りの壁に叩きつけた。
「私もちゃんと『よろしく』って言ったよね。アル、君?」
「ヘ……カテ……?」
打ち付けられた後頭部がずきずきと痛む。絞められている首がミシミシと嫌な音を立てる。息が、苦し……。
「お前……ルシ……フェルか……?」
「ピンポーン! よく今の今まで気づかなかったねアルヴァレイ=クリスティアース。誉めてほしいならそう言って、頭ごと叩き潰した後で誉め殺しにしてやるから」
ヘカテーの髪も瞳も、血のような赤い色に変わっていく。
ルシフェルはグイッとアルヴァレイの顔に顔を寄せると、
「お前には力がない。ヘカテーを守れるだけの力がない。そのくせにその力を求める様子もない」
ルシフェルはギリッと歯を強く噛み締めて、アルヴァレイを睨み付ける。
「私はお前がヘカテーにとって必要だったから、ヘカテーのことをお前に任せたのに……ティアラがお前の元に行きたいと、お前のそばにいたいと言ったから叶えてやったのに! 私はお前に期待していたのに! アルヴァレイ=クリスティアース、お前は誰の願いにも耳を傾けようとしない。上辺だけの言葉で飾り立てて誰の思いに応えようとしない! シャルルにもヘカテーにもティアラにも……私にも……。お前がいつまでも誰にも返事をしていないのはどうして……。いつまでもはぐらかしているのはどうしてだ?」
ルシフェルの手は震えていた。
「ルシフェル……」
「いい。お前の言葉なんて聞きたくない。いつもお前の善人気取りの綺麗事みたいな言葉ではぐらかされてきたんだ。そんな奇跡みたいな台詞には騙されない」
ルシフェルの手から力が抜ける。
「アルヴァレイ=クリスティアース。お前は頷くか、首を振るだけでいい。しゃべるな。私はもう一度だけお前にチャンスをやりたいと思ってる。お前次第だけど……」
今までのルシフェルの言動とはかけ離れた台詞に、アルヴァレイは身体が自然と強張るのを感じた。
「……お前を信じてもいいかな……?」
不安げな、あの残虐で冷酷な愉快犯のルシフェルとは思えない表情。
「お前、本当にルシフェルなのか?」
自然と口をついて出た。
「他の誰に見える」
「お前の場合見た目は当てにならないんだよ、ルシフェル」
「見た目が当てにならないのは確かにそうだけど、私は間違いなくルシフェル=スティルロッテだよ。『魔界の真理』の方だけどね。でも、意志は全く同じもの。それより誤魔化すな。私の質問に応えろ」
急に不機嫌になるルシフェルの台詞にわずかな疑問を覚えつつ、アルヴァレイは静かに口を閉じて、一瞬考える。
「よくわからないんだ……好きとか嫌いとか、恋をするってことも。経験がない。だけどヘカテーやシャルルの気持ちに気づいてない訳じゃない。2人とも、俺のことを好きって言ってくれたし正直に言えば嬉しいのは確かだよ。俺はヘカテーのこともシャルルのことも好きだけど、それが恋愛感情かって言われるとなんか違うような気がする。でも」
「残酷な優しさ」
「え?」
ルシフェルに言葉を遮られた。
「アハッ♪ 2人を傷つけたくないからって、それを隠して誤魔化してるって言うんでしょ♪ それは優しいんじゃなくて残酷だって気づいてないね。残酷だね~斬哭だね~。いいよいいよ~教えてあげるよ~お前の考え方は最悪なんだよ♪ 最低で一番酷い考え方だよ♪ 2人の傷口を鉤爪で引っ掻いてるようなもの。うんうん、いいね~、無自覚は人を殺すって言葉に聞き覚えは? お前がシャルルを見て思ったことだよね♪ 人に言える資格無いよ♪ 天然なんて言葉で誤魔化す気も起きないね」
ルシフェルがいつもの調子に戻った。唐突に、突然に。
「まあいいや。どうせ変わるもんじゃないだろうしね。いいよいいよ~あと1回だけチャンスを貰え、お前に拒否はさせない。『ヘカテーをよろしくね』なんて二度も言わせないでよね。ついでにティアラもよろしく」
ルシフェルは一方的に捲し立てるように言い切ると、
「私の力を貸してアゲル」
んちゅ、と湿っぽい音がした。
『は?』と口に出そうになったが、肝心の音が出ない。
ルシフェルの顔がゼロ距離に迫っていて、その唇がアルヴァレイの口を塞いでいた。いわゆる口づけ、キスという奴だった。
ルシフェルは目を閉じることもなく、ピントが合わない至近距離にルシフェルの綺麗な赤い瞳があった。
唇が離れる。
「初めてじゃないから、安心していーよ」
顔を赤くすることもなく、いつも通りの済ました顔で言ってのけた。
「何をッ」
「刻印、お前ならすぐにわかるよ。と言うかすぐに感じ取れるはず。じゃあまたね。ヘカテーをよろしく。それとヘカテーにはこの事言わないでね」
そう言うと、ルシフェルはヘカテーの姿に戻ると、奥へと続いている通路の中をやや早歩きで消えていった。
バタン。
扉が開いて顔を出したのは、ヘカテーだった。
「どしたの? アル君」
「いや、何でもない」
言うべきかどうか迷ったが、ルシフェルの言葉に従って、言うのはやめておいた。