(17)苦言‐Einzelner Schlag, der sicheren Tod bringt‐
「お前、まだ性懲りもなく生きていたのか。インフェリア=メビウスリング」
さっきまでの緩い空気が消え失せて、死骸狼が纏う凶暴な野生の殺気に辺りの空気が支配される。
康平は肌にピリピリとした感覚があるのに気づいた。
こっちに来てから紙縒に聞いたことがある。紙縒の言うこととはいえ真偽は定かではないが、肌がピリピリするのは緊張――特に殺気など本能に関わるストレス――を脳が感じた時、それによる負荷を緩和するため身体中の神経に軽い麻痺状態を起こさせて、その電気的な刺激が有効な神経にピリピリとした刺激を感じさせるものらしい。
後日同じことを聞いたら若干違う答えが返ってきたので、本人にも確証はないようだったけど。
「死骸狼。生きてるもなにもこの自演の輪廻はお主がくっつけたモノじゃろう。これのせいでどれだけの痛みを被ったと思っとるんじゃ」
「ただの人間のお前がここまで生き長らえているのは私のおかげだろう」
「お前のおかげ……? 冗談は口だけにしておくのじゃな。そうでなければ長生きは望めんぞ死骸狼。全てはカールフリート様のおかげじゃろう」
「あの老いぼれなど、私は何百年も前に凌駕した。今さらなんの恩義も感じはしない。ただし……」
死骸狼は射殺すような凶悪な殺気を纏った目で、インフェリアを睨み付けた。
「お前と黄泉烏はいつか殺すと決めていた!」
強靭なバネのような脚で跳躍し、インフェリアに襲いかかる。
ガキッ。
死骸狼の爪がインフェリアを引き裂く直前にスッパリときれいに切断された。
「ボクの美味しい情報源に触らないで下さいよ、死骸狼。昇進のチャンスかもしれないんですから」
アプリコットは刃翼で切断した死骸狼の爪先をぽいっと後ろに投げ捨てて笑う。
「小娘が……邪魔をするな!」
死骸狼の爪がアプリコットを襲う。
バチバチッと火花が上がり、死骸狼の爪先は守翼の手前で反発される。
「絶対守護の前には無駄ですから、とっとと諦めた方が精神衛生上良いんじゃねえかと思いますよ……ッと!」
死骸狼の巨体を守翼の一振りで弾き飛ばす。
ズズーンと地響きを立てて地面に背から叩きつけられた死骸狼は忌々しそうに舌打ちし、飛び起きる。
「弱くなったもんじゃのう死骸狼。あの頃のお主はもっと強かに思えたものじゃが」
「黙れ、インフェリア!」
言うなり、死骸狼は大きくその顎を開いた。
轟ッと激しい音を立て、その口の奥に赤い炎が宿る。
「灼火咆号じゃと!? お主ここで……正気か!?」
インフェリアの声色に焦燥が混じる。
「何をする気かはわかりませんけど、ボクの絶対守護なら全く問題は」
「たわけ! あれは奴の力の内で最も破壊力が高い上に結界などはものともせん、あれに耐えられる結界などこの世に存在せん! いわば防御できない一撃じゃ!」
「どれぐらいの威力なんですか?」
インフェリアは急に肩を叩かれて、
「ここなら首都は吹き飛ぶ……ってお主は誰じゃ?」
インフェリアの後ろには魔法陣の痕跡があり、肩に手を置いたのは、
「シャルル!?」
アルヴァレイが驚いたような声をあげる。そして、シャルルはアルヴァレイの方に顔を向けるとニコッ。
「怖っ」
目が笑っていない笑顔でアルヴァレイを恐怖させると、
「どうして私を置いてったのか、後でゆっくり聞かせて貰いますから……覚悟、していてくださいね?」
何の覚悟!? と叫ぶアルヴァレイを視界から外すと、シャルルは死骸狼を観察する。
大きな狼という見た目にはそぐわない本質を感じた。
既に灼火咆号は死骸狼の顎いっぱいまで大きくなっている。
なんとかなるかはわからないけれど、あの子を信用するしかない。
心の内に眠るあの子を、揺りかごを止めて優しく肩を揺するように起こした。
「コロス……コロス……? コワス……コワス……? ナニ、シャルル……? フェンリール……? コロス……コワス!」
瞬く間に黒い闇に覆われた、シャルルの姿が霞んで消える。
その時、今まさに灼火咆号を放とうとしていた死骸狼が感じたのは恐怖だった。神を喰らい、狼から半神となった時に捨てたはずの、抑えようのない本能的な恐怖。生存本能を呼び覚ます圧倒的な狂気と殺意を姿を消した小さな黒い闇から感じていた。
「トジロ」
ビクンッ。
死骸狼の身体が大きく震え、毛が逆立つ。
「トジロ」
その闇は、光を失った小さな瞳を人形のような冷徹な無表情と共に死骸狼に向けていた。高熱で空気すら歪む死骸狼の口のすぐ横で。
「ハ、灼火咆号!」
「サツガイ……『フンサイ』!」
グシャリと嫌な音がする。
死骸狼の口から放たれた灼火咆号がノウェアの手から伸びた闇に包まれ、かき消えるように消滅した。
「コロスコワスコロスコワスコロスコワスコロスコワスコロスコワス!」
「く、来るな! 私に寄るな! 触るな! なんだお前は!」
死骸狼が表情を歪ませて、尻尾を後ろ足の間に下ろして、慌てて後ずさる。
そして笑った。
「くくくっ、はははははっ! お前が何かは知らないが、こんな気分は久しぶりだ。また会おう、小さな闇よ」
死骸狼は瞬く間に黒い炎の塊となり、急激に小さくなって消えてゆく。ノウェアは何をするでもなくじっと黙って、その様子を眺めていた。
死骸狼が消えると、ノウェアはゆっくりと胸に手を当てて、
「……寝てていいですよ、ノウェア……落ち着いて、落ち着いて……」
黒い闇が震え、もやが晴れるように吸い込まれて消えていき、胸を押さえて静かに佇むシャルルが残される。
「もう大丈夫です……」
シャルルは静かに呟いた。
「シャルル……今のってノウェア、だよな……。まだ昼間なのにどうして……」
アルヴァレイが恐る恐る訊ねると、シャルルは少し目を伏せて、
「ノウェアと……話をする機会があったんです。その時に私が危ない時は昼間でもノウェアが出てくるって。でも、夜の方は相変わらずですけど……昼間はちゃんと言うことを聞いてくれるので大丈夫です」
ゆっくりと歩いてくるシャルルはどこか不安げな表情だった。同じ表情をいつだったか見たことがある。そう、シャルルが黒き森の魔女だって知った時の顔と同じだ。
何かを怖がっている目。
そして、アルヴァレイは気づいた。同時に反省した。シャルルは何を怖がる子なのか、もっと早くに気づいてあげるべきだったことを。
「シャルル。ここにいる皆はノウェアを見たからってお前を避けるような奴は1人もいないから、安心していいぞ」
「え? ぶっちゃけボクは怖いと思ってますけど……」
「ちょっとアプリコット!? なにいきなりいい台詞ぶち壊しにするようなこと言ってんのよ! シャルルも泣きそうな顔にならないの! アルも落ち込むくらいなら無責任な台詞言わなきゃいいじゃない!」
「そ、そうだよ! お兄ちゃんもシャルルさんもあまり気にしないでっ」
「実際アプリコット以外の7人は怖いという感情は持っていないのじゃろうし、アプリコットの表面的な台詞はどこまでが本気かわからないしの。まあ気にする気にしないは本人たちの勝手じゃからその点に口出しする気はないんじゃが」
「そうですよ。アル君もシャルルちゃんもいつまでその話題を引っ張る気なんですか? 私たちは……って言ってもアプリコットとインフェリアは知らなかったかもしれませんけど……まあとにかく他の6人はもうノウェアのことは聞いてるんです。それで怖がるくらいなら、黒き森で会った時にもう逃げてると思います。結果論でごまかす気はないですけど。逃げなかったんですから、心配しないでもあの時からシャルルちゃんはアル君の人外パーティの仲間なんですよ」
紙縒とヴィルアリアとインフェリア、加えてなぜか感情が動いている時の丁寧な口調のヘカテーのフォローでなんとか立ち直ったシャルルははにかむように笑って、アルヴァレイパーティに駆け戻った。
「皆さん、ありがとうございます」
頭を下げる時に帽子を押さえる仕草も久しぶりだった。
「ところでルーナはいないのか?」
直前まで人外人外とぶつぶつ言っていたアルヴァレイがパッと顔を上げて、シャルルにそう言った。
「えへへ、忘れてました。ルーナ、さっきの死骸狼さんを見て、どっかに逃げちゃったんです」
シャルルは指を口にくわえるとピィーッと鳴らした。
ダダカッ、ダダカッ。
蹄の音が近づいてくるのが聞こえ、音のする方に振り返ろうとする暇もなく、ベルンヴァーユのルーナは地面を軽く削りつつ、シャルルの前で止まった。
直後、ルーナが人の形を取ろうと変化を始めた瞬間に、アルヴァレイと康平はそれぞれ、ヘカテーと紙縒に首をギリギリまで曲げられた。
「いっ、痛ててててっ!」
「こ、紙縒! 目を塞ぐだけでいいのになんで首までぐえっ」
「「大人しくしてなさい」」
「「……はい」」
本当に色々と理不尽だった。
「何なんだ、あの化け物は……」
死骸狼ラスウェルは森の中を風と同じぐらいの速さで走っていた。元々はブラズヘルの領土だった土地だが、前の戦争の後一時的に人民は避難して、今や広大な空き地となっている。
「インフェリア=メビウスリング……か」
最近はほとんど思い出すことすらなかった、そんな昔の話だった。
カールフリート。
名を聞くのも久しい。
一時とはいえ、かつて霧の森でインフェリア、黄泉烏と共に仕えていた主人の名だ。
カールフリートは言霊を司る神そのもので、『実理』と呼ばれる理の代行者としての役目を負っていた。
しかし、カールフリートが死を迎えた時、その亡骸を喰うことで私は言霊を操る能力を手にした。そもそも死骸狼という部族は何かの死骸を喰うことでその能力を得る。
それはラスウェルにとっては当然のことであり、むしろカールフリートが逝った時点では使命感にかられての神喰らいだった。
ここまで永く生きてきた故の達観、私は力に溺れていることに違いはなかった。しかし、それを後悔はしていない。
「ん?」
気にくわない匂いを感じ、ラスウェルは足を止めた。
辺りを睨み付ける。
しかし、何の気配も感じられない。
「……?」
「何首傾げてんのさ死骸狼。私はここにいるよ?」
ビクッ!
ラスウェルは思わず後ろに跳んだ。
「久しぶりだね~死骸狼。今ヒマ? 時間ある? なくても作って貰うよ。ああ、あの時みたいに何の意味もない暇潰しで声かけた訳じゃないから安心して。ちょっとお前に用があるんだ♪」
「ルシフェル=スティルロッテか……。私はお前に用は無い。先を急ぐのでね。通らせて貰うよ」
ラスウェルはやっとそれだけ絞り出して、ルシフェルの隣をすり抜けようとした。
「待てよ」
その声を聞いた瞬間、身体が強ばり、うまく動かせなくなる。
「お前、私のヘカテーを殺そうとしただろう。私は見ていた。聞いていた。故に知っている。お前、死にたいか?」
小さな身体から溢れ出す殺気は、ラスウェルでさえ今までに感じたことがないほど凶々しく、そして悪意に満ちていた。
喉が詰まる感覚。
舌が乾き、足が震える。
「アハッ♪ ねぇねぇ死骸狼。お前、走馬灯って見たことある? 私は見たことないけどさぁ、ちょっと見てきてくんないかな。でどんな感じだったか教えてよ。頭だけになっても死なないようにしてやるからさぁ~」
黒く鋭くなったルシフェルの手がキシキシと音を立てる。その時ラスウェルはルシフェルが笑みからはかけ離れた歪みを浮かべているのを見た。
ズバァッ!
肉が裂ける音が耳に響く。
ルシフェルの手が、ラスウェルの首を引き裂き頭ごとねじ切ったのだ。
ラスウェルは視界が暗転する直前、首を失った自分の身体が崩れ落ちるのを見た。
「はい、1回死~んだ♪」
確かに見た。
しかし暗闇の中でルシフェルの殺気を感じ、開いた目に映ったのは楽しそうに大笑いしているルシフェルの姿だった。
手足の感覚も全く元通り。
首もちゃんと胴体に繋がっている。
どういうことだ? 幻魔術か?
「お前は1回死んだんだって言ってるでしょ。人の話を聞け死骸狼。死んだお前の身体を治して、魂を冥府から引っ張ってきたんだよ♪」
魂を冥府から……。
「馬鹿なことを言うな。お前がどれだけのことができたって、狂悦死獄と同じことができるなど!」
「狂悦死獄? ああ、あのザコのことかぁー。最初からあの程度相手にすらしてないよ♪ 私の『魔法』に不可能はないから♪」
私ですら素で敵対すれば凌駕する狂悦死獄を、よりによってザコ呼ばわりだと……。
「とにかく、これでアレとの契約は切れたわけだし。問題ないよね♪ 『死骸狼』など『ルシフェル=スティルロッテの下僕』と同義」
「私の口蜜伏犬までも……ありえない!」
「私の『魔法』に不可能はない♪ いいから跪けよ。カス狼」
嫌悪感すら通り越し直接的な殺意を覚える声に、関節が勝手に曲がり、身を伏せてしまう。言霊を操る魔法、口蜜伏犬が効果を持っている証拠だった。
「しばらくはアレに従っててもいいけど、直接ヘカテーたちに手ェ出したら殺すからね♪ お前が最も屈辱と苦痛を感じる方法を10年単位で延ばし延ばしにしながらお前が泣いて謝ったら、そこで殺す。みたいなことになるから破ったら覚悟しててね♪ 死骸狼」
そう言い残して姿を消したルシフェルがいたところを睨み付ける。ルシフェルは匂いすら残さず消え失せていた。
「今日は厄日だね……」
死骸狼は立ち上がると、再び狂悦死獄の居城を目指して走り始めた。
後ろを一度も振り返らずに。