(16)咆哮‐Der Konig des Wolfes‐
「私の名はラスウェル。神を喰らい、半神となった狼の王。呼び名は幾通りもあるから好きにするといい。今この時間を単なる余興とするにはほとほと惜しい。私も享楽に耽り愉悦を好む人に近しい欲はあるのでね」
ラスウェルは静かに呟くように言っているつもりなのだろうが、ラスウェルとは身体の大きさから違う紙縒やヘカテーにとっては耳を塞ぎたくなるような声量だ。
もっとも、耳を塞ごうものならその隙に叩き潰されてしまうだろうが。
「ペラペラと訊きもしねえ情報どうもありがとうございます」
アプリコットが軽口を叩く。
するとラスウェルは目を細めてアプリコットを睨み付け、前足でそばに積まれていた煉瓦の山を打ち崩すと、アプリコットに向けて跳ね飛ばした。
「『宙の煉瓦』など『千刃』と同義」
ラスウェルの言葉と同時に空間と理がねじ曲がった。そしてその言葉通り、無数の鋭い刃が高速でアプリコットの身体を通り抜け、細かい塊へと寸断する。
「何……今の……」
ヘカテーが一歩後ずさり、手に持っていたメイスを取り落とす。
「ルシフェルと同じ……変な感じ……」
ヘカテーの呟きに、ラスウェルは一瞬何か物思うように動きを止め、口角をぐぐっとつり上げた。
「くくっ、おもしろい。お前はあのルシフェル=スティルロッテを知っているのか」
「ルシフェルを……知ってるの?」
「会ったのは数百年前、それも一度っきりさ。あの小娘、私を散々小馬鹿にしてくれたのでね。嫌でも憶えている。しかし、お前があの化け物を知っているのなら、そう感じ得るのも当然というものよ。お前は知らないだろうが、あれも私と同じ……理をねじ曲げる存在だからねぇ」
まるでヘカテーとルシフェルの関係を知っているような口ぶりで、ラスウェルはヘカテーに意味ありげな視線を向ける。
「理を……ねじ曲げる……?」
ヘカテーはうつむいて、ラスウェルの言葉を反芻するように呟く。
「……お前の顔には憶えがある。私と何処かで会ったことがあるね」
目を細めてヘカテーを凝視するラスウェルは、アプリコットの再生を目の当たりにして口元を綻ばせた。
「はははははっ!」
まるで爆音のような笑い声をあげて、ラスウェルは大きく後ずさった。
「ただの小娘どもだと思っていたがおもしろい! 狂悦死獄がわざわざ私に任せたのもうなずける」
「さっきからいったい……お前は何!?」
ヘカテーが声を荒らげる。
「思い出したぞ、娘。その白銀の髪に金色の瞳、その生まれに相容れぬ呪いを受けているようだし、間違いなかろう。お前、『ラクスレルの人形師』だろう」
アルヴァレイは、ドクンというヘカテーの心臓の鼓動が聞こえた気がした。
「ヘカテー=ユ・レヴァンス」
「それが……どうしたの……?」
「私は理を歪められる、お前が望むのならその呪いを私が喰い尽くしてもいい、と言っているのさ」
ヘカテーの眼に危うさが宿る。
歪んだ希望に惑い、呑み込まれる1歩手前の表情。その眼は大きく見開かれ、ラスウェルをじっと見つめていた。
「狂悦死獄の力の一端を見せてやろう。私はお前の望みを叶えられる。お前は私に何を望むのか、自分の口で言ってごらん」
ラスウェルは射抜くような視線をヘカテーにまっすぐ向ける。
「ヘカテー=ユ・レヴァンス、お前の呪いを私が消してやろうか?」
紙縒はハッとしたように身体を震わせると、ヘカテーに駆け寄りその肩を掴んだ。
「言っちゃダメ! きっと『口蜜伏犬』よ!」
「無駄さ。私がこの娘を知っているのは偶然だったけどね。そいつはもう私の術中に入り込んだ。もう抜け出せない」
ラスウェルの言葉通り、ヘカテーは今にも何かを言おうとしているように見えた。望みを、呪いを解いて欲しいという願いを口にしてしまいそうに見えた。
「私……私は……」
「しっかりして!」
虚ろな目でブツブツと呟くヘカテーの肩を揺さぶって、紙縒は呼び掛け続ける。しかし、ヘカテーは振り向きもしなかった。
「呪いなんて嫌い……呪いなんていらない……呪いなんてものがあるから私は皆を……呪いなんて!」
「ヘカテー!」
アルヴァレイの呼び声に、ヘカテーの肩が大きく跳ねる。
そして紙縒の呼び掛けには応えなかったヘカテーが大きく振り返った。
「アル……君……」
その目元には寂しげな雫が光っていた。
「大丈夫……私は大丈夫だから……」
ヘカテーはギュッと拳を握ると、ラスウェルをキッと睨み付けた。
「ぷっくくくっ……全くお前たちには本心から驚かされる。私の言霊から逃れたのはお前で初めてだよ」
「光栄ね。私も思い出したわ、ラスウェル。いいえ『死骸狼』!」
さっきまでの崩れそうな姿勢からは考えられないような、いつものヘカテーからは考えられないような殺気を放っている。
「その名で呼ばれるのは数百年ぶりだね」
死骸狼はやけに嬉しそうな声色でそう言ったかと思うと、ヘカテーを見下ろし、巨大な爪で地面を引っ掻いた。
「『ヘカテー=ユ・レヴァンス』など」
「させない!」
ヘカテーは一瞬で死骸狼の足元に入り、直前に拾った紙縒のメイスを、その前足に叩きつけた。
「なかなか速いようでいいじゃないか」
ヘカテーの一撃をものともしないと言うように、振り下ろされたメイスごと、ヘカテーを弾き飛ばした。
「きゃあっ!」
メイスと一緒に吹っ飛ばされたヘカテーは、アルヴァレイの隣でなんとか受け身をとって立ち上がった。
「ティアラ、大丈夫?」
さっきの一連の事態を見ていたのか、ヘカテーは横たわったまま治療に専念するティアラに心配そうに声をかける。
「問題ない。私、感謝、ヘカテー大姉様。ありがとうございます……」
「よかった。アル君と康平君はティアラとアリアとあの子を守ってて」
ヘカテーはいまだにアイアンメイデンの影に隠れているインフェリアを指さし、ティアラの傍にしゃがみこむアルヴァレイと康平の2人に耳打ちする。
「あっちは私と紙縒と、アプリコットだっけ……で何とかする」
「あんな化け物倒せるのか?」
「任せて。アル君は私が守ってあげる」
「いつかと立場が逆なのは何でなんだろうね……俺、そんなに弱いのか?」
「それもありますけど、あの狼は普通じゃないんです、詳しくは後で」
話を切り上げて駆け出そうとしたヘカテーの視界に、突然手招きをするインフェリアの姿が映った。
「弱い……俺……」
とぶつぶつ呟きながら落ち込む様子のアルヴァレイをおいて、ヘカテーは紙縒たちの様子を一瞥しつつアイアンメイデンの後ろに走り込む。
そして、悠長に座りこんでいるインフェリアと視線の高さを合わせるために、ヘカテーもしゃがみこんだ。
「あの狼は本当に『死骸狼』なんじゃな?」
「間違いないです……けどなんで?」
「フム、となるとあの姿はあくまで仮じゃったのか。それか今のあの姿が仮かのどちらかじゃの。ヘカテーとか言っとったか? ワシを彼奴のところまで連れていってはくれんか」
「えっ!?」
「詳しくは話せんがの。ワシは彼奴を知っておる。知っておるどころか、繋がりをも持っておるが。正直を申せばお主らに奴の相手はきつかろう。ここはワシに任せておくがよい」
「あなた、いったい……」
「自分で歩いていければよいのじゃがの、如何せん。腰が抜けて身体が言うことを聞かん」
ヘカテーはもう一度死骸狼の様子を窺った。
紙縒とアプリコットは素早い身のこなしでなんとかラスウェルの攻撃をかわしているが、紙縒の動きが明白に遅れてきていた。生身の紙縒ではスタミナに限りがあるからだ。
「わかりました」
ヘカテーがそう応えると、インフェリアは身を寄せてきた。
ヘカテーはその小さな身体を抱きかかえ、バランスを取りながら立ち上がると、アイアンメイデンの陰から飛び出した。
「ちょこまかと煩わしい」
死骸狼は急に身を低くすると、
ドガッ。
地面を砕いて前に跳んだ。
「なっ……アルッ! 危ない!」
「うわああああぁっ!」
死骸狼はアルヴァレイ達の上を軽々と飛び越え、着水した。
激しい水しぶきと大きな水音の中、
「『私が触れている海の水』など『水蛇妖の群れ』と同義!」
直後、海の中で立ち上がる死骸狼の身体を覆うように、海水が這い上がり。
大量の半透明な蛇のシルエットに変貌した。
死骸狼はさらに、狂悦死獄の残したアイアンメイデンに目を遣ると、
「『狂悦死獄のアイアンメイデン』など『金竜』と同義!」
キシャアアアアアアッ。
ガタガタと震え始めたアイアンメイデンがかん高い声で咆哮し、ほどけるように姿を変えて刺々しい金竜の形になる。身体中に針が生え、まるで細長い針鼠のようだった。
「『私が崩した煉瓦の山の残骸』など『爆震亜竜』と同義!」
ガラッと煉瓦の崩れる音に紙縒やアプリコットが振り返ると、四本足で体長3メートルほどの火炎亜竜に似たトカゲが死骸狼の崩した煉瓦の山の中から這い出してきた。背中では小規模の爆発が連発し、火が燃え盛っている。
「冗談みてえなチート能力は神流ぐらいだと思ってましたけど、なかなかどうして頭おかしいぐらいにブッ壊れてますね、あの狼」
アプリコットは吐き捨てるように言うと、目の前に現れた三種類の|危険度A級魔獣・竜を睨み付け、
「役割プログラム起動。汎用アンドロイドプロトタイプβ。モード『禁忌果の洗礼』。Passcode【*********】認証。天使の刃翼及び天使の守翼展開確認」
本気の戦闘体勢を整える。
「ヘカテー」
インフェリアを抱えたまま呆けていたヘカテーは、小さい手にペチペチと頬を叩かれて我にかえった。
「降ろせ」
言われた通りにインフェリアを下におろすと、ヘカテーの手をぎゅっと握って、歩き始めた。方向で言えば、爆震亜竜と金竜のちょうど真ん中の辺りだった。
「ワシには傷が見える」
突然そう言ったインフェリアにヘカテーは不思議そうな顔をして引かれるままについていく。
「心の傷、気持ちの綻び、あらゆる怪我も物についた小さな欠けも、全てが浮き出るように見えるのじゃがな」
ピタリと立ち止まった。そしてヘカテーの手を放し、ゆっくりと振り返る。
「こういう傷も見えるのじゃ」
曲げた人差し指を空中の何かに引っかけるような仕草をした。そして、その指を思いきり下に引いた。
バキィッ!
「え!?」
何かが割れるような音。
死骸狼が現れた時のような大きな音にヘカテーは思わず一歩後ずさった。
「結界崩しって奴じゃの」
振り返ると、紙縒やアプリコットもそれに気づいたらしく上を見上げたり周りを見回したりしていた。
「結界を破ったか。くくっ、狂悦死獄も堕ちたものだな。どうやったかはわからんが、こんな小娘どもに破られる結界など底が知れる」
死骸狼は口角をつり上げて笑い、爆震亜竜,金竜,水蛇妖と睨みつけた。
「お手並み拝見と言うわけだね」
死骸狼の呟きと共に。
グアアアアッと爆震亜竜が紙縒とアプリコットに。
キシャアアアアアッと金竜がヘカテーとインフェリアに。
シューッと水蛇妖の群れがアルヴァレイやヴィルアリアやティアラや康平に。
威嚇行動を取りながらそれぞれ襲いかかった。
「無駄よ! 『無限式"縛鎖牢"』式動!」
「任せて下さいよ。こっちもちょろっと腹立ってたところだったので。刃翼舞闘!」
紙縒の足元に現れた魔法陣から伸びた鎖に足をすくわれた爆震亜竜が、アプリコットの刃翼の連撃を受けて動かなくなる。
爆震亜竜を瞬殺した紙縒はアプリコットに目配せして、ヘカテーの救援に走る。
「『喰式"黒壷"』式動! ヘカテー! インフェリア! そいつから離れて!」
金竜の物理攻撃を、持っていた紙縒のメイスでなんとか凌いでいたヘカテーが、インフェリアを抱きかかえてバックステップで距離をとる。
その直後、紙縒のメイスの上に現れた黒壷がスーッと宙を浮遊して、ヘカテーと金竜の間に移動した。
金竜は黒壷を警戒する素振りも見せず、地面を踏み鳴らしながら突進する。
無数の棘が黒壷に突き刺さる瞬間、黒壷の中から現れたどろどろとした闇に金竜の姿が丸呑みにされた。
ボキボキッボギンッ!
黒壷の中で大量の何かが折れる音がした。続いてゴリゴリと何かを削るような音が聞こえてきて、大きく膨らんだ黒い闇は巨大な壷の中に吸い込まれるように消えた。
その時、紙縒たちの時間稼ぎのおかげで治療を終えていたティアラは、アルヴァレイ達を背にかばうように水蛇妖と対峙していた。
「構成抜刀『十六夜月に舞い散る紅蓮』」
ティアラの手に現れた大太刀が迫ってくる水蛇妖の1匹を両断した。
斬られた水蛇妖が海に落ちた瞬間、まるでそれに怯えるように他の水蛇妖も襲いかかるのをやめ、ティアラの大太刀を警戒し威嚇し始める。
「この刀、斬る、物、限定、生まれた、逆らって、自然」
相変わらずティアラの言葉は読み取りにくいが、意味が通る文で言うとこうなる。
『自然に逆らう形で生まれたモノのみを問答無用で切り裂く刀』。
自然に逆らう形、とはつまり母体を通さない形でという意味であり、例えば魔法によって生み出された合成獣やティアラの目の前にいる水蛇妖などのことだ。それだけでなく、紙縒や狂悦死獄が使った魔法やそれに準ずる何かでの召喚術式――アイアンメイデンの出現や肉咲薔薇,『無限式"縛鎖牢"』などがそれに当たる――も含まれる。
母親から生まれている魔獣や飛獣,人類や、火から生まれる火炎亜竜や水から生まれる水妖などの魔物は、逆に斬ることができない。どんなに力を込めても形が歪むこともなければ傷ひとつつけることもできない。
そんな一長一短な能力だが、紙縒の式紙術式や狂悦死獄の召喚術式、そして死骸狼ラスウェルの口蜜伏犬の天敵とも言える力を持っていた。
水蛇妖はそれを本能的に察したのだろう、ティアラがその太刀を掲げるように構えた途端に海へ潜って姿を消した。
水蛇妖の消えた水面を睨み付けた死骸狼は、ザバァッ。
前足を上げて、海から上がる。そして、身体を震わせ水滴を振るい落とすと、
「『十六夜月に舞い散る紅蓮』など『ただの刀』と同義」
「無駄。それ、否定、真名、私の鳥籠」
ティアラの呟くような声に死骸狼は耳をピクピクと動かす。
狼の表情など見慣れもしない者には見分けのつくものではないが、どこか迷っているような表情にも見える。
「久しいのう、死骸狼。ワシはお主のその姿を見るのは初めてじゃが、お主はワシのこの愛らしい姿に見覚えがあるじゃろう?」
老人のような喋り方の子供の大声がその場に響く。
その声の主に目を遣った死骸狼は、大きく目を見開いた。そして、グルルルルッとただの狼のように低く唸り、尻尾の毛を逆立てる。
「お前か、インフェリア……」
死骸狼はただ事じゃないほど殺意のこもった声色で、その声の主の名を呼んだ。