(8)妹‐Die wahre Absicht der jungeren Schwester‐
「お兄ちゃん……何かあったの?」
完全に日は落ちて街灯が点き、街の騒がしさが港や市場から酒場を中心とする集会場に移った頃。
クリスティアース薬局に帰ってきたヴィルアリアは、両親の前で気丈に振る舞っているヘカテーの様子に何かを察したのか、早々とアルヴァレイの耳元に口を寄せるとそう訊ねてきたのだった。
アルヴァレイは一瞬躊躇ってから――ヴィルアリアがルシフェルに対してある種の苦手意識を感じていたのを知っていたからで、そんなヴィルアリアをヘカテーとルシフェルの事情に関わらせてもいいのかと思ったからだ――、
「ルシフェルのことがまだ気になるのかもしれないな……」
と、素知らぬ顔で曖昧にごまかした。
「そっか……。ルシフェルさんならあんなこと言っててもすぐ帰ってきそうだから、ちょっとだけ期待してたんだけど……」
ヴィルアリアも過ごした期間が短い中で、短い割にちゃんとルシフェルを見ていたようで驚いた。かくいうアルヴァレイもそれを何処か期待していた。
確かにルシフェルの行動には一貫性がなく、支離滅裂な所があり、原因と結果、論拠と結論の間に理論的な何かが成立していないようだ。さらにそれは発言にも同じ傾向があり、(鬼塚とは別の意味で)二者がまるで噛み合わないことが多い。
しかし、ルシフェルのあの性格もあって、ある程度長い間見ていないと関心すら持てないと思うのだが。
「やっぱりルシフェルなんかのことも結構見てるんだな、アリアは」
「うん、まあ……ね」
ヴィルアリアはちょっと気まずそうに笑うと、両手の指を絡ませた。
「ルシフェルとかみたいな奴は苦手だと思ってたけど、そうでもないのか?」
アルヴァレイの言葉にヴィルアリアはピクリと整った眉を動かし、
「苦手かぁ……うん、苦手なのかも」
と、苦笑を交えてそう言った。
まあ、あいつに苦手意識を持つなって言うのも無理があるけどな。
カツン、と床で音がして、アルヴァレイがわずかに下を向くと、ヴィルアリアは、
「でも、ちゃんと見てたかったからね」
とため息をつくような――下手すると聞こえなかったかもしれない――小さな声で呟き、ヘカテーの死角でうろうろおろおろするティアラに視線を向けた。アルヴァレイが思わず顔を上げると、
「私の周りには私が大好きになれる人は少なかったから」
その悲しげな表情を見て、アルヴァレイは初めてヴィルアリアが、数年前までのクリスティアース本家で一緒に暮らしていた頃のヴィルアリアとはわずかに違っていることに気がついた。
「お兄ちゃん、ちょっとだけ……私の話聞いてくれる?」
ヴィルアリアはそう言うと、賑やかな――主にテンションが高いのは両親だが――リビングを横目に、階段を上がっていく。アルヴァレイの返事を聞くような素振りも全く見せなかった。
信頼。信用。
状況だけ見ればそう言ってもいいような場面だが、なんとなく違和感を感じる。
そう思いながら、アルヴァレイは静かに階段を上っていった。
2階に上がると、ヴィルアリアはアルヴァレイの部屋――既に『元』かもしれないが――の前に立っていた。
そして、ゆっくりと確かめるようにドアノブに手をかけて、押した。
カチャン、と小さな音がしてドアが開き、ヴィルアリアは中に入っていった。
アルヴァレイも部屋の中に入った。
「掃除、してないね」
ヴィルアリアは窓を開けて、換気のために風を通す。
「1年以上帰ってなかったから、父さんと母さんも放っといたんじゃないかな」
「その1年って……シャルルさんを探してたんだよね」
「ああ、そうだよ」
「お兄ちゃん、シャルルさんのこと……好き……なの?」
アルヴァレイは『は?』と思わず声を漏らしそうになった。
「いなくなってすぐに探しに家を出たって、お母さんから聞いてるけど」
俺がシャルルを好きかどうか……。どちらかと言われれば好きだと答えられるけれど、ヴィルアリアが聞きたいのはたぶんそういうことじゃないんだろう。
確かに俺はあまり女の子と接する機会がない人生を送っていたけれど、だからって人の気持ちに全く気づかないほどにぶい――もしくは疎い――つもりはない。
ただそれでもヴィルアリアが急に言い出した質問の意図を完全に読み取ることはできなかった。
「あ、ごめんね。言い方を変えてもいいよ。お兄ちゃんは、『アルヴァレイ』はシャルルさんのことを大切に思ってるか。かけがえのないモノかどうかを聞きたいの」
呼び方を急に変えたヴィルアリアにわずかに戸惑いを覚えつつ、
「大切でかけがえのない……人だよ」
即答した。
人、を強調して。
「アルヴァレイは本当に期待通りの答えを返してくれるよね」
ヴィルアリアは窓際から離れて、アルヴァレイの方に小さく一歩近づく。
「だから私はアルヴァレイが大好きだよ。私を私として見てくれる、だから私はお父さんもお母さんもお祖母ちゃんも大好き、メイも大好き」
また1歩、アルヴァレイに近づく。
ちなみにメイと言うのは、メイラン=ハオマオといって昔からのヴィルアリアの親友だ。可愛らしくて礼儀正しく、クリスティアース医薬学院にも入学できるくらい頭がいい。それでいて、アルヴァレイ同様武道に志す一面もある。アルヴァレイにはそんな崇高な考えがあったわけではなかったが、何度も手合わせして実力は認めている。
「クリスティアース医薬学院では、私はヴィルアリアじゃないの」
「どういうことだ……?」
「みんな私を首席って呼ぶのよ。首席さんとか、首席さまとか。学校で私のことをアリアって名前で呼んでくれるのは、メイとエリアル君だけ」
あの野郎、俺がいない間に人の妹呼び捨てにしてたのか。今度会ったら、1発殴ってやる。
「優等生とか、クリスティアースの令嬢とか、あんなの私じゃない。私はヴィルアリアっていう名前があるのに。みんな私がお祖母ちゃんに試験問題を教えて貰ったとか、試験を受けた振りだけして点数を捏造したとか、こそこそ裏で笑ってるの。それがたまらなく嫌だった」
だからアルヴァレイが帰ってきた時は本当に嬉しかったんだよ、と呟いてヴィルアリアはまたアルヴァレイに1歩近づいた。
「その時はヘカテーさんと結婚するって勘違いしちゃってたけどね」
「あれはヘカテーの悪ふざけだ。何だかんだ性格悪いんだよな、ヘカテーも」
また1歩。
「うん、でも久しぶりに見たアルヴァレイは昔よりもすごく楽しそうだった」
ヴィルアリアがまた1歩進んで、2人の間の距離が残りわずかになる。
「アルヴァレイが帰ってきて、私はまたアルヴァレイと一緒にいれた。リィラさんとか鬼塚さんとか、ヘカテーさんとかルーナちゃんとか他の皆も、みんなみんな優しくて、とてもいい人たち。だから皆のことをもっと知りたい。もっと見ていたい。そう思ったの」
結構なイレギュラーが揃ってるからな。ヴィルアリアを敬遠してるクリスティアースの学生たちと違って。
俺の仲間は重かれ軽かれ、一般人と相容れない理由を持っている。
シャルルは夜になると否応なしに、殺戮を好む人格、『ノウェア』になってしまう。さらに耳と尻尾が隠せないため、帽子と長いローブをつけなければ人前に出ることもできない。
ヘカテーは永い時を生き、呪いのために人との接し方がわからない。
リィラさんはシャルルに対して復讐の念を抱いている。
ルーナは動物であるが故に人間社会ではイレギュラーな耳と尻尾が隠せず、普通の人に馴染めない。
ルシフェル=スティルロッテは凶暴な性格もさることながら、あまりにも異常な力を隠そうとしない故に人に恐れられる存在になった。
鬼塚は筋肉以外の能力が非常に乏しく、無駄にテンションが高いのもあって、そこにいるだけで周りに疲労感を植え付ける……などとは言うが、正直説明するのがめんどくさくなるぐらいの他の皆とは一線を画した異常さを持つ生物だ。
鬼塚はともかく。
皆が皆、その辺りの事情を苦に思ってる訳ではないが、一般の人々が距離を置く理由としては十分すぎる。
だから集まる。偶然や運命が後押しして、色々なイレギュラーたちが1つ所に。
それがたまたま、俺の周りだった。それだけの理由だ。
「私も……そうなりたい。私はみんなと『仲間』になりたい。だから私を『仲間』にして、アルヴァレイ」
また1歩、足を踏み出してヴィルアリアはアルヴァレイの手をとった。
「お願い……」
「アリアはアリアでやっぱりなんか変なんだなぁ」
わざとらしい口調で呟くように言って、ヴィルアリアの手を握り返す。
「そもそも今いる皆は俺の許可なんてとらなかったぞ……。そう考えるとやっぱりアリアが一番常識的だな」
常識感覚が麻痺しているのかもしれない、とすごく不安になる。
「遠慮なんかするなよ、アリア。もっと自分を出していけばいいんだ。アリアは可愛いしいい子なんだから、みんな好きになってくれるはずだ」
ヴィルアリアはクスリと笑った。
「実の妹まで口説こうとしてない?」
「そういう意味じゃねえよ」
そこそこにいいシーンだったのに、当事者に水をさされるなんて誰が想像できる?
「うん、わかってる。でもありがとね」
そう言うと、ヴィルアリアは静かにアルヴァレイの背中に腕を回して、そっとアルヴァレイの肩にあごを乗せて、抱きついた。
「ありがとう。アルヴァレイお兄ちゃん」
なんてこった。妹に抱きつかれて俺はどうすればいいんだ?
とりあえずヴィルアリアの背中にも腕を回し、軽く力を込める。華奢な肩はこれ以上力を入れたら、壊れてしまいそうなくらい小さかった。
わずかな時間抱きあって、ヴィルアリアは腕の力を抜いた。それに続いて、アルヴァレイも力を抜くと、ヴィルアリアは名残惜しそうにゆっくりと身体を離した。
「ヘカテーさんに何があったかはまた後で教えてね」
もう日も暮れて、外の街灯の光でわずかな薄明かりになる室内。
ヴィルアリアはかかとをトントンと踏み鳴らすと、アルヴァレイの横をすり抜けて部屋の外に出て、立ち止まった。
「あ、お兄ちゃん」
急に振り返ったヴィルアリアは、何かを思い出したかのような口調で言った。
「私、お兄ちゃんとならどんな恋でもできそうな気がする」
「い!?」
ヴィルアリアはしれっとした顔で、鼻歌交じりに階段を下りていった。
「ちょっと待て……、まさかアリアも普通にイレギュラーだったりしないよな……」
この呟きを誰かが聞いていたとしたら、さぞ悲痛なものに聞こえただろう。
アルヴァレイは呆然としながら数分を費やし、気がついた後もおぼつかない足どりでゆっくり階段を下りていった。
「まさかヒルデガードがのぅ……」
たき火――集められた薪の中心で燃えているのはアプリコット=リュシケーが撃退した野盗たちの身ぐるみだが――を挟んで向かいに座る口調老女の見た目少女――面倒なんで以下少女で統一しますが――の名前はインフェリア=メビウスリング。
驚くことに、アプリコットの所属する特別遺失物取扱課の誇るデータベースの未登録者だった少女だ。
「すばらしく面倒くせえことになりましたが、はてさてどうすりゃいいんですかね。ボク的には別に放っといて第三世界に帰ってもいいぐらいにはどうでもいいことなんですが」
「お主、上司がいなくなった途端にはっちゃけるのぅ。多少の義はないのかの?」
「ボクは自分が可愛いですからね。怪我なんかしたくありませんし、痛えのは苦手なんですよ」
インフェリアは目の前であからさまにため息をつくと、体操座りの膝に顔を埋める。その姿は拗ねる子供そのままだ。
「ワシのせいじゃからの……。ワシが見捨てるわけにはいかん。まさかヒルデガードが狂悦死獄と通じているとは思わんかった」
まったく情報が無いこともありますが、気になるっちゃ気になりますね。
「原理であるヒルデガード=エインヘルヤがどうして愚にもつかねえ狂悦死獄に従ってんですかね? ああすみません。お前に話しても何の意味もありませんでしたね、平謝りするんで許してください」
お主ワシをバカにしとるじゃろ、というインフェリアの切実な呟きをさらりと聞き流し、アプリコットは木にもたれ掛かる。
「早く寝といた方がいいと思いますよ」
アプリコットは目を閉じ、視覚情報の伝達回路を待機状態に切り換える。そしてすでに閉じてあった嗅覚・味覚の回路の状態を確認する。
その時、肩口にぽすんと軽い衝撃を受けて、とっさに視覚回路を復活させた。
「…………まったく」
いつのまにか隣に寄り添うように、インフェリアが身を寄せてきていた。既に小さな寝息すら聞こえてきて、安心の色が窺える。
「ボクをなんだと思ってんでしょうね」
そう呟くと、アプリコットはインフェリアの頭を抱き寄せると、再び視覚回路を閉じ、身体中の力を抜く。
「明日からは忙しくなりそうですね……」
チェリーが打ち上げ、未だこの第一世界の空を周回している軍事衛星『アルテミス』。アプリコットの見つけたそれのハッキングコード23000余通り中チェリーに感づかれて潰されたのが12000余通り。残り11000通りを明日試すことになるでしょうし。
「はぁ……人探しかぁ」
自身の待機状態に意識が沈む直前、アプリコットは大きく1つため息をついて、
「面倒くさ」
何よりもダメな台詞を口にした。