(5)意地‐Ein in die Enge getriebenes Tier ist ein gefahrlicher Gegner‐
最後の最後ですが、またまた登場します、よく暗躍しているあの人が。
人ではなく人外ですが。
残酷な表現が多々ありますので、注意して読んで下さい。
「無様ですね~、衣笠紙縒特別遺失物取扱審査特例管理官サマ~。元気そうで何よりも残念なのですよ~」
チェリーの声に反応した紙縒が身体中の痛みに堪えつつ、無理に顔を上げておぼろげな視線をさ迷わせる。
「チェリー……どうして……」
「ふふふ~。最初は黒乃に理不尽な命令をされて仕方なくお前とそこの『櫃』を回収しに来たのですが~。黒乃がちょっとした事情で文句も言えない状態になってですね~。ちゃっかり勝手に動いているという訳なのですよ~。ただ私様だけの利を求めて~」
チェリーはやけに楽しそうな調子で甲板に広がる凄惨な血肉の中をゆっくりと歩き始める。
時折目をパアッと輝かせたかと思うと、少し歩くと不機嫌そうに血まみれの人の身体を蹴る。
「4人とも動かないように願います~。さっき打ち上げておいた『アルテミス』が現在あなた達を絶えず監視しているので~命の保証はしませんよ~」
「鈴音様。なぜ私を数に入れているのですか?」
「何となくです~」
チェリーはさも可笑しそうにクスクスと笑うと、未だに動きの鈍い紙縒に向かってゆっくりと歩を進める。
「少しばかり痛め付けられたようですが~大丈夫なのですか~?」
紙縒の前にしゃがみこみ、愉快そうに紙縒を見下ろした。
「チェリー……」
紙縒の瞳に光が戻る。
チェリーはその目付きを見て、笑った。
「あははははははは、見れば見るほど無様です~。気づいていないかもしれないけれど~負け犬の顔になっているのです~」
紙縒の顔を見て笑うチェリー。
「1度折れた! あの衣笠特例管理官が1度心を折られてる、っぷ、あはははは! 案外被虐趣味なんじゃ、ぷっ、ないの、あは? あははははは! あははははははは!」
紙縒は怒りと悔しさで拳を震わせ、羞恥で顔は真っ赤になった。しかしその直後、紙縒の目が鋭くなった。
「『身式』装甲、式動!」
紙縒の背中に、『身』の文字が浮かび上がる。それと同時に紙縒の服が一気に燃え上がった。
いや燃え上がるように見えた。実際は紙縒の身体から魔力が溢れているのだ。
「破壊する破壊する破壊する破壊する破壊する破壊する破壊する破壊する破壊する破壊する破壊する破壊する!!」
紙縒が吠えた。
チェリーは少しも動じずに後ろに跳び、ヒルデガードは紙縒の頭を踏みつけた。紙縒は何の抵抗もなく、顔面を甲板に叩きつけられる。
「せっかくの綺麗な顔が台無しになりますよ、牝犬」
紙縒の頭を踏みにじり、冷たい表情で責め苦を与える。
「ヒルデガード~、私様は離れた方がよいと思うのです~」
チェリーは楽しそうにそう告げる。
「何を」
「殺すわ」
ヒルデガードの足の下から紙縒が消える。紙縒の頭に足を乗せ、下向きに強い力を加えていたヒルデガードはバランスを崩してよろめいた。
「……『無限式"縛鎖牢"』式動……!」
紙縒はどこからか叫んだ。
その瞬間、ヒルデガードの足元に魔法陣が現れた。すぐに発動し、淡く光る。
「くっ」
焦りを初めて顔に出したヒルデガードは大きく上に跳んだ。
しかし、この時ヒルデガードの耳にはチェリーの声が届いていなかった。そこで跳んではいけないのです、という警告の言葉が。
「『喰式"黒壷"』式動」
空中で身動きのままならないヒルデガードの背後に現れた巨大な壷。それは紙縒が"黒壷"と呼んでいる代物で、人を喰らう呪われた器だった。
ヒルデガードが後ろの壷に気づいた瞬間、"黒壷"は側面から割れるようにその口を開いた。
いや、伸びた。
どす黒い何かが壷の中から現れ、ヒルデガードの身体に覆い被さるようにまとわりつく。ヒルデガードはその黒い何かを引き剥がそうともがく。しかし、次の瞬間その表情は青ざめた。
「あ~あ~、ヒルデガードなら死ぬことはないと思いますけれど~、助けようにも助けられないので痛みぐらいは我慢して貰うしかないようですね~」
壷から出てきた膜状のそれの内側には、びっしりと鋭い歯が生えていた。
「~~~~~~~~っ!」
普段の彼女を知っている者なら間違いなく目を疑うような表情で、声にならない悲鳴をあげた瞬間、その"口"にヒルデガードは呑み込まれた。
ゴキッ、ボリッ、バキン、グシャ。
聞くだけで恐怖で失神しそうなくらいに生々しい音が、静かになったその場に響く。宙に浮いたまま咀嚼を続ける"黒壷"のわずかな隙間からはボタボタと鮮血が流れ出している。
「相変わらずえげつない光景です~」
そう言いながらもチェリーは目を逸らそうとせず、むしろ凝視するようにその光景を眺めていた。
その時、チェリーの首筋に小太刀の刃が突きつけられた。
「説明しなさい、『戦々狂々(ドッペルシュナイデ)』チェリー=ブライトバーク=鈴音。なぜ貴女がここにいて、なぜこの行動に至り、また黒乃に何があったのかを全て聞かせて貰えるかしら?」
紙縒はチェリーと康平の間に自分の身体を挟み、かつチェリーと"黒壷"が常に視界に入るように身体をずらす。
「説明など不要なのです~。そもそもよいですか~? ここに来て黒乃もアプリコットがいない今、ただの民間協力者でしかないお前に教える義理は無いのです~」
チェリーはその場でくるくると回って、右手に拳銃を取り出した。
「今の私様の仕事は『狂悦死獄の櫃』狗坂康平を破壊することですので~、いつもの通りお前と私様は敵同士というわけです~」
チェリーは『破壊』を強調するような口調でそう言うと、拳銃を構える。その銃口は紙縒からわずかに外れ、その背後に立つ康平に向いていた。
「やめなさい、チェリー!」
チェリーの細い指が引き金にかかるその瞬間に紙縒はメイスを振り下ろした。
ガッ! ゴン!
チェリーの手から叩き落とされた拳銃が甲板に当たって鈍い音を立てる。
ガシャン、ジャキィッ!
チェリーは紙縒の一撃であらぬ方向に曲がった左腕を肩ごと換装した。
新たな腕は、金属棒と金属部品から成る無骨なロボットアームだった。その先にはショットガンが備え付けられ、ガチャガチャと不快な金属音を響かせている。
「あははははは!」
チェリーは歪んだ笑みを浮かべると、そのアームの先についたショットガンを紙縒に向けて引き金を引いた。
ドンッ!
銃口を飛び出した散弾は、銃口のわずか前方にあった金属塊にいとも簡単に弾かれて、その内の幾つかが銃口に逆戻りして跳弾を繰り返し、銃身と直結していたアームを内側から破壊した。
紙縒のメイスが間に合ったのだ。
「ふふふ~。なるほどなるほどなのですよ~。予想通りと言っても差し支えないようですね~。まさか本当にお得意の式紙が尽きているのですか~?」
チェリーにそう言われた時、紙縒はギクリとした。しかし、それを表情に顕著に現すことはなかった。
「貴女などメイスだけで十分というだけですわ、チェリー。特別遺失物取扱課では上下関係イコール能力の高さだと貴女もわかっているはずでしてよ」
「戦い始めると上からの物言いになるのも相変わらずですね~。やはり私様はお前が大嫌いですよ~」
チェリーの歪んではいるがかろうじて笑みだった表情は、一瞬で悪意と殺意に満ちた表情に変貌した。
「動かなければミンチで許してあげますので~、無様に逃げ回れ」
ギィッ。
静かに響いたその音にチェリーは振り返って上を見上げた。宙に浮く"黒壷"の方を。
さっきまでわずかに開いていた隙間が大きく開かれ、犠牲者の手が覗いていた。鉤裂きになったような痛々しい傷の残る手はそれでも力強く、否、必死にもがき"黒壷"を無理矢理こじ開けた。
「普通の人間なら開けるどころかすぐに死んでしまうのですが~。さすがは人外と言うべきでしょうか~」
チェリーは楽しげに笑う。
昔に会ったことのある殺人鬼、黒子御影を思い出しながら。
黒子御影は殺人鬼だった。
刃物類を愛用し、大量の凶器を所持し、大量の狂気に触発され、大量の人を殺してきた。そして、その死体を1つの大きな壺に詰めてきた。まるで漬け物のように重石を乗せ、一杯になっては捨てる。
それを繰り返している内に死んだ。
1人の人外の手によって殺されたのだ。
しかし、黒子御影は残った。残らされた。自分が手にかけた人々の怨み辛みが黒子御影に呪いをかけ、その意志を壷に留められた。
文字通り手も足も出ない、何もできないただの壷に。
しかし、ここまでは良かったのだ。
1人の殺人鬼が死んだという事実さえあれば、それだけだったなら何の問題もなかった。しかし、違った。
遺族たちの手によって割られることになったその壷は、何度金づちで叩いても、転がしても落としても、泣く泣く手ずからを諦めて重機を使っても欠けることすらなかった。
そして、壷自体も呪われた。『殺人鬼の意志が込められた壷』として恨みを集め、殺意を受けて、受呪者となった。
そして黒子御影と壷の呪いは共鳴し、長い年月を経て運悪く1つになった。
『殺人鬼』黒子御影は『殺人器』黒壷となったのだ。生前と同じことを行い、以前と同じ役割をして、犠牲者は増えていった。
そうしている内に当時12歳だった衣笠紙縒と出会い、特別遺失物取扱課に追われ、紆余曲折を経て今に至るわけなのだが。
ミシミシッ。
"黒壷"の軋む音に、紙縒はハッとして、メイスの柄に刻まれた『喰』の字に意識を集中する。
「『喰式』"黒壷"式解!」
紙縒が叫ぶのと同時に"黒壷"は薄れるようにフッと消えた。
そして、解放された赤に染まった塊が甲板に力無く落ちてきた。
「美しい姿ですよ~。ヒルデガード~」
「ゴホッ……お褒めに預かり光栄です、鈴音様。貴女も体験してみませんか? きっとお気に召すかと」
ヒルデガードは生きている方がおかしい有り様だった。
身体中に引っ掻き傷や鉤裂きが絶えず、左腕と右肩、右足と左脇腹を欠損していた。しかし、その断面はまるですりガラスが張られているようにぼやけていた。
「私様は既に経験済みですので~」
「それは経験豊富なようで何よりです。ちなみに『櫃』。どれだけ見ても私の本質を見ることは叶いませんよ。お前はこの世界にしかいないのですから」
ヒルデガードはそう言うと、自分の身体を眺め回して、
「恥ずかしいので見ないで下さい」
右腕を器用に使い、自らの血で赤く染まったメイド服を上から下まで引き裂いた。そして、紙縒と康平が呆気にとられている瞬く間に、ヒルデガードは下着姿になる。
「なななな、何やってんのよ!」
紙縒がそう叫ぶと、ヒルデガードはキョトンとした顔で紙縒を見た。
「修復ですが」
「なんで脱ぐのよ!」
「不都合だからです。それと恥ずかしいので見ないで下さい、とお願いしたつもりでしたが聞こえませんでしたか?」
「敵に自分を見るなと言われて目を離す馬鹿なんているわけないでしょ!」
ヒルデガードはわずかに口を閉じ、視線をずらした。
「『櫃』とレックスは大変紳士的のようですが」
「なっ!」
紙縒は思わず背後の2人を振り返る。
確かに2人はヒルデガードから目を逸らすようにしていた。
「しかし、戦場では貴女が正しいですよ」
背後、吐息が首筋にかかるほどの至近距離からヒルデガードの声がした。
そして、紙縒が振り返る前に冷たい金属の何かが首筋に当てられた。
「くっ……」
「動かないように願いますよ。……トリエル=レツィンデル。私の身体機能の修復をお願いします。……つべこべ言わずにやりなさい」
「誰と話し」
ぐっ。
紙縒の肌に冷たい感触が押し当てられ、紙縒の言葉を遮った。
そして次の瞬間、欠けていたはずのヒルデガードの左腕が紙縒の首に回された。
「調教を始めましょうか? 牝犬」
ヒルデガードの腕に力が入る。紙縒の首が締め上げられ、紙縒は思わずメイスを手放し、その手を引き剥がすため掴んだ。
「鈴音様、この少女の目の前で『櫃』を壊して下さい」
「だめっ! あぐっ……チェリー……やめて……やめてぇっ!!」
「心配しなくてもよいのですよ~衣笠~」
鋭い歪みを口元に称えて、チェリーは左腕のロボットアームの残骸を引きちぎると、それを丸めて口に押し込んだ。
ゴキュン。
上を向いてそれを飲み下すと、懇願するような目を向ける紙縒に向かってニッと笑いかけた。
ガチャガチャ、ガキン、ジャキィンッ!
チェリーの肩から再び似たようなロボットアームが現れる。その先には、
「痛みを感じる間もなく頭を撃ち抜けば問題ないのです~」
Snayperskaya Vintovka Dragunova。
通称SVD。チェリーが愛用するスナイパーライフルが装着されていた。
「邪魔するようならあなたごと撃ち抜きますよ~レックス~」
愛おしそうに銃身を撫でると、引き金に指をかけて銃口を康平に向けた。
そして、歌うように突然叫んだ。
「早く出てきたらどうですか~? 誰だかはわからないですけど~。失理」
ヒルデガードと紙縒は、その言葉にハッと目を丸くした。
薬師寺丸薬袋です。
薬師寺丸薬袋じゃありませんから。