(1)嘆息‐Ein Seufzer‐
どうも徒立花詩人です。
第七章始まりです。
第三世界にいた頃、康平はあまり船に乗ったことがない。
子供の時に1回乗ったことがある、と詩歌さんに言われたこともあるが、その時のことは全く覚えていない。
加えて紙縒に強制乗船させられた時も、航行が終わるまでの約4時間、終始意識を失っていたので、実際船に乗るのは今回が初めてのようなものだった。
今回は船に出るまで余裕があり、慌てることもなかった。だから、康平は船旅を楽しむつもりでいたのだ。いたのだが。
康平は、ゆっくりと揺れる船縁にもたれ掛かり、遥か遠くにうっすらと見える陸地をぼんやりと眺めて、慌ただしかった時を回想していた。未だに状況をよく理解していないけれど、この第一世界に来てからの怒濤の毎日は過ぎ去ってみると笑い話のようだった。
今も現在進行形でその一部だけど。
ダメだ。考えがまとまらない。
何故だかはわからないけど……。
隣で紙縒がピリピリしている。
「あ、あのさ紙縒」
おそるおそる聞いてみると、
「なに?」
不機嫌そうな声で聞き返された。
「僕何かやった?」
「なんで?」
質問を質問で返してくるだけでマトモな答えが返ってこない。
「なんか怒ってるみたいだったから……」
「なんで私が怒ってるってわかったの?」
見れば誰でもわかると思う。
さっきから辺りをキョロキョロ見回したり、急に立ち止まって足踏みしてみたり、何処かをじっと睨み付けてみたり。
余談だが、人がこのような態度をとるのは別にこれによって怒りを発散させようというものではなく、無意識の内に周りに『苛立ってます』というサインを送るためらしい。これも紙縒から聞いたことだから、確証は無いが理由としては納得できる。
「ごめんなさい」
「なんで康平が謝るの? 別に康平に怒ってる訳じゃないのに」
「よかったぁ……」
「なんでそれだけでそんなにホッとしてるのかな~?」
「だって紙縒って怒ると怖いし、長引くから色々と気を遣わないといけないし」
なんて言えるわけもない。そんなにはっきり言ったら、紙縒は間違いなく怒る。オブラートに包んでも怒るぐらいだからね。
だから言わない。
「紙縒が怒ってるのってあんまり見たくないからさ。紙縒は笑顔の方が可愛いのに、僕に怒ってる時はしばらく顔を合わせてもくれないし」
気がつくと、紙縒はうつむいてプルプルと拳を震わせている。
あれ?
「康平のバカ……」
顔を真っ赤にして怒っていた。
「ご、ごめん紙縒。今、何か気に障ることでも言った?」
「うっさい! 康平のバカ!」
「えぇー!?」
紙縒は甲板を走り、船室に下りる階段を駆け下りていってしまった。
何で怒ったんだろう。
『お~い、ナイト。姫が行っちまったけど、追いかけなくていいのか?』
いつかのクラスメイトの言葉が脳裏によみがえる。
「はいはい……わかってるよ……」
ため息をついて肩を落とすと、康平はトボトボと歩き出す。
紙縒の様子がおかしいのはいつからだっただろう。
紙縒がなんとなくおかしいのはいつものことだけれど、最近は特におかしい。
そう考えてみると、テオドールに来るまではいつもの紙縒だったような気がする。
「前に船に乗った時に何かあったのかな……? 後で聞いてみよう」
階段を下りると、船尾の方にある割り当てられた船室に向かう。
『――戻って――』
「え?」
突然聞こえた女の子の声に反応して、康平は辺りを見回した。
しかしその声の主と思われる女の子は見当たらず、いるのは船室からあぶれて廊下でたむろす若い男たちだけだった。
「紙縒……じゃないよね。なんかもっと子供っぽい、透き通って響くような……」
「誰が子供っぽいっての?」
気がつくと、目の前に紙縒がいた。不機嫌そうに眉を歪め、ジトッとした視線を康平に向けていた。
「うわっ」
至近距離まで顔を近づけてきていた紙縒から、思わず飛び退こうとした途端、足がもつれて転んでしまった。
「ちょっとー。大丈夫?」
「あ、うん。ちょっと腰を打っただけ。痛くもないし、たぶん大丈夫」
紙縒は急に心配するような表情で、康平が立つのを支えてくれる。
「ありがとう、紙縒」
「あ……うん……」
紙縒は急にそっぽを向いて、ぶつぶつと何かをつぶやき始める。どうやらまだ許してくれた訳じゃなさそうだ。
「さっきの声聞いた?」
ふと思い出して聞いてみると、
「私が子供っぽいって言ったこと!?」
「違うよっ。紙縒”と違って”子供っぽいって言ったんだよ!」
「ならちゃんとそう言いなさいよっ」
紙縒が聞き間違えたんでしょ、なんて言ったら間違いなく地雷を踏むことになる。
「ごめんなさい……」
世界って基本的に女の子に優しいよね。
「で? 誰が子供っぽいって言ったの?」
「えっと……今、なんか急に聞こえたんだよね。女の子が『戻って』って言ってた。すごく綺麗な声だったけど……。それらしい人は見当たらないんだよね」
紙縒が怪訝そうに眉をひそめ、辺りをキョロキョロと見回す。
「どっかの船室からでしょ?」
「ううん、もっとはっきり聞こえ」
『――テオドールに戻って――』
「ほらまた聞こえた! 女の子が『テオドールに戻って』って言ってる。紙縒……何で目を逸らすの?」
「ごめんなさい。狗坂くん。私がもっとしっかりしていればよかったんだわ……」
「何で急によそよそしくなるの!? だわ、なんていつもは絶対に使わないじゃないか! ちょっと紙縒、無視しないでよ……なんか悲しくなるから」
「じゃあどうすればいいのよ!?」
逆ギレ!?
「どうすればって……どうすればいいんだろう?」
「知らないわよ、そんなの……ってえっ? ちょっと待って、今なんて言ったの?」
「……『どうすれば』」
「そっちじゃなくてっ。もっと前!」
「え? えーっと……『何で急によそよそしく』」
「違うっ。あーもう! 私が戻ってきてから! なんか変なこと言ってたでしょ!? 康平は何て言ったの!?」
紙縒がキレ気味になって、康平の肩を掴んだ。そのまま顔を近づけてくる。
「えっと……えっと……『テオドールに戻って』……?」
「それよっ!」
今まではマトモに聞いてなかったのか。
紙縒は肩を掴む手を離し、黙り込んで何かを考え始めた。
「……魔……そも……櫃……なんで……誰……ううん……これ……」
紙縒は何かを考えるのに集中すると、思考の一部を口に出してしまう癖がある。
その言葉の端々から何を考えているかわかることもあるが、この時の紙縒が何を考えていたのか康平にはわからなかった。
ちなみにこの時の紙縒は、思考がまとまるまで絶対に動かない。
足下が傾いてバランスを崩したり、煙で息苦しくなったり、痛みを感じたり、要するにそういった異常事態でしか戻ってこない。
その集中力は小さい頃から周りからの賞賛を受けてきたが、康平や紙縒のお母さんや詩歌さんにとっては不安要素でもある。
「はぁ……」
一応、気づかせることはできる。
何故か康平だけがこの状態の紙縒を起こすことができる。
ただできればあれはやりたくない。
別に難しいことじゃない。
やるだけならやれる。
ただ本当にやりたくない。
「やるしかないのかな……ほっとくわけにもいかないし……」
再びため息をついて、康平は紙縒の正面に立つ。視線を落とし、右手を握ったり開いたりするのを数秒間眺める。
そして3度目のため息。
後はこの手を挙げて、紙縒の身体の一部分を撫でるだけ。
わざわざぼかした表現をしたのは、昔から紙縒はそこを触られるのが大嫌いだからだ。今までもそこに触った人は紙縒の逆鱗に触れている。
それは康平も例外ではない。どう言い訳しようと、どんな弁解をしようと、しばらく不機嫌なまま顔を合わせてもくれない。口をきいてくれるのは説教の時だけという、素敵な生活が待っている。
1度だけほっといた時は6時間考え続けて戻った時に、
『なんで起こしてくれなかったのよ! こんなに時間を無駄にしちゃったじゃない!!』
と怒られた。なんて理不尽な、と思ってくれる方。ありがとう。
結局どっちにしても怒られるなら、紙縒の時間を無駄にしないで、早めに起こすことにしたわけだ。
「紙縒~」
康平はおそるおそる手を伸ばす。
そして、康平の手が紙縒に触れた。
紙縒の頭に。
さらさらして綺麗な髪を梳くように、できるだけ力を入れないように頭を撫でる。
そして、紙縒の耳元に口を寄せて。
「紙縒」
「なっ」
紙縒が気がついたみたいだ。
頭からすぐに手を離しつつ、1歩下がって紙縒と距離を置く。
「おはよう、紙縒」
「なっなっ……頭……ここここ康平のくせに頭触っ、バカーッ! バカバカッ! 康平のバカッ!!」
いきなりバカと連呼し始めた紙縒に周りの視線が集中する。
「バカッ。康平のバカーッ!」
「こ、紙縒。とりあえず落ち着い」
「落ち着いてるわよバカッ! なんで頭に触るのよ! イヤだって言ってるのに!」
ここで理由を言って火に油を注いだこともあった。
それまでの思考と現状把握で混乱して、冷静な判断ができない今の紙縒には、たぶん何を言っても無駄だとわかったのはいつだっただろう。
心当たりが多すぎて、よく覚えていない。
結局、何が言いたいかというと紙縒はすごく理不尽で、子供の頃からものをよく考える癖があったということだ。
「何か言いなさいよ、康平!!」
「そんなこと言われても……」
「おいおい、そこの少年少女。周りの奴らに迷惑だろうが。痴話喧嘩もたまにゃいいが、俺に免じて仲良くしとけ」
突然紙縒と康平の足元が陰り、轟くような太い声が2人の頭上から鳴り響いた。
紙縒が不機嫌そうなままの表情で声のした方を睨み付ける。
「レックス!?」
紙縒の声に驚きの色が混じる。
それと同時に康平も、そこに立っていた人物を見上げた。
「ん? 俺のことを知ってるのか?」
無精髭を生やした大男がそこにいた。
いや、大男なんてレベルじゃない。身長は間違いなく2メートルを超え、いや既に2,5メートル近い。
「そっか……この時のレックスなのね」
紙縒は急にうつむいてぶつぶつと何事か呟くと、すぐに顔を上げた。
「紙縒……この人……知り合い?」
康平の言葉に紙縒はふっと息を吐いて、
「|ううん(ヽヽヽ)、|知らないわ(ヽヽヽヽヽ)。あなたは誰?」
笑顔でそう答えた。
「どういうことか釈然としねえが、まあいいか。俺の名前は気にすんな。俺のことはアドミラル・レックスと呼んでくれ」
大男はそう言うと、口の橋を大きくつり上げて、白い歯をのぞかせるように笑った。
「さて、喧嘩も収まったようだし、俺ぁ行くぜ。俺がいなくなったらまたすぐに喧嘩みたいな野暮なことするんじゃねえぞ」
「ちょっと待ってくれない? レックス」
紙縒がレックスを呼び止めた。
「私の部屋に来てくれないかしら?」
紙縒は、いつもとおかしい口調でそう言った。直後、何かを訴えるように康平に目配せした。
「おいおい、少女。お前はまだ子供だろ? 俺は子供は抱かねえ主義だし、お前にはこの少年がいるんだろうが。いくら喧嘩してるからってさすがにそりゃあ可哀想だ」
顔を真っ赤にして、わなわなと肩を震わせていた紙縒のこめかみに、ぴくんと血管が浮き出てきた。
「違うわよ! ああもう! コイツはなんでいつもこんなんなのよ! あなたセクハラしか頭に無いの!?」
紙縒がすごい剣幕でわめきたてる。
「よく見たら、少女。子供のくせにえらい綺麗な顔してんなあ。やっぱさっきの前言撤回だな。子供でも女は女だし、そこは尊重するべきだろう」
「人の話を、聞きなさいよっ!」
耳まで真っ赤になった紙縒の手に、巨大なメイスが出現する。
そのメイスに廊下の端に座り込んでいたた若者たちはぎょっとして、わたわたと甲板に上がる階段に逃げていった。
「おいおい、少女。女だからってこんなとこでそんな物騒なモン振り回しちゃ危ないだろうが。よくわからんがとりあえずそれを下ろせ。命に関わるかもしれん」
「いいからグチグチ言わずに来てくださるかしら? レックス」
アドミラル・レックスは康平の耳に口元を寄せると、隠す気もないような声で、
「少年、いつもこんな感じなのか?」
と訊ねてきた。
「大体こんな感じです……。なんで今こんなにおかしいのかはわかりませんけど」
つい、そう言ってしまった。
「面倒にゃなりたくねえからなぁ……。見た目が一級品なのに性格があんなんじゃ将来苦労するぜ?
少年」
紙縒は顔を真っ赤にすると、口を金魚のようにパクパクさせて、何を考えたかメイスをアドミラル・レックスの足に向かって振り下ろした。
「っうお!」
バキィッ。
紙縒のメイスが足を叩き潰す寸前に、レックスは大きく足を引いて一撃を避けた。そしてメイスは船の床の一部を叩き割り、突き刺さったまま止まる。
「危ないだろうが」
「いいから早く来なさいって言ってるでしょ! なんで大人しく言うことが聞けないの!? ああもう!」
紙縒はどこからか取り出した文字の書いてある紙――式紙というらしい――を手のひらにのせて、持ち上げたメイスをどこかにしまい、木造の床に大きくあいた穴を睨み付けた。
「『立式』式動!」
『立』と書かれた式紙が淡く光り、紙縒はそれを穴に向かって投げ捨てた。
バチッ。
火花が散って、式紙が細切れになった。そして、その破片が割れた床の穴に張り付くように集まって。
気がつくと、床の木板は木目まで元通りになっていた。
「なんだそりゃあ。魔法か?」
「厳密には近いけど違うわ。そんなこといいから早く来なさいよ!」
「何の用で」
「用なんか無いわよ」
「少年、この少女言ってることがおかしくねえか?」
「大体こんな感じです」
メイス、再登場。
紙縒、危ないからね?
「いいから来なさいって言ってるでしょ! 何回言わせる気なの!?」
「まあそんな熱くなるなよ、少女。生理でも来てるのか?」
「また……。っ~~~~。このセクハラ魔人! いちいち文句ばかり言ってないで早く来なさいっ!」
紙縒がキレた。
「あ~、面倒なことになっちまった。わかったわかった。どうせ暇だったし、付き合ってやるよ」
紙縒は康平とレックスから顔を背けて、船室に向かって歩き出した。
そして割り当てられた船室に入ってから、レックスが開口一番に、
「おいおい、そういやあこの船。ベッドもないよなぁ。というかそれ以前に少年も一緒なのか? 少女も2人相手はキツイだ」
紙縒のこめかみに青筋が浮き上がり、魔法で強化されたメイスが、レックスの脇腹にめり込んだ。