(5)大角鹿‐Ein unerwarteter Unfall‐
シャルルと出会ってからの1ヶ月を語るには、どれだけの時間がかかるだろう。
ただ出来事や行動だけを坦々と並べ立てるのなら、さほど時間はかからない。半日もあれば言い尽くすには十分だろう。
シャルルと一緒にやったことは、数だけ数えればその程度のことばかりだ。
ただし実際に語ることになった時、そんなつまらない話はない。シャルルのことを語るにはその時の心情まで語らなければもったいないからだ。もちろんシャルルの、ではなく俺の、だが。
つい笑ってしまうような失敗。
何処か外れた返答の数々。
シャルルに教えた多くの常識。
シャルルに教えられた数少ない雑学。
ドキッとしたこともあったがそれはあれ、仕方ないことだ。
よくわからない支離滅裂な反応、仕草。
どれもこれも一言で済ませるには惜しい思い出ばかり。
そんな感じにシャルルと共有する記憶のノートを書いていたとすれば、あるページを境にそこから先は一味変わった文章が数ページ。その先は白紙になっているだろう。
驚きと異常。
絶望と切望。
恐怖と後悔。
そして、悪夢のような夜を経て、シャルルはいなくなってしまったのだから。
ある日のことだった。その日を境にして、シャルルの秘密が俺の日常に組み込まれたのだ。
その朝も、シャルルはいつものように俺を起こしに来た。しかし、いつもと違っていたのは、シャルルは俺が起きたのを確認すると用事があるからと言って帰っていった。
その帰り際に、
「お昼頃にまた来てもいいですよね?」
形式こそ了解を得る質問になってるけど、お前ダメって言っても来るつもりだろ。どうせ後で来るんなら、わざわざ起こしに来なくてもいいような気もする。それを言うと、なぜかシャルルは泣きそうな顔で怒るから口には出さないけど。
「ああ。どうせなら飯食わないで来いよ。ウチで一緒に食おうぜ」
「ホントですかっ? ありがとうございます。とても嬉しいですっ」
そう言って柔らかく微笑んだ。
「それでは私もなにか、おみやげを持ってきますね」
「ああ」
できればマトモなものを頼む。
前にもシャルルがウチでご飯を食べることになった時にお土産を持ってきたのだが、その時はよくわからない木の実十数個だった。シャルルは『美味しいですよ?』と無邪気に食べ進めていたが、異常に甘ったるくて後味がしょっぱく種の周りは異常に辛いそれを一口ずつ食べた俺と母さんはそれだけでギブアップ。シャルルの手前、残すわけにもいかず何とか1つ食べきって、後は世間話で時間を稼ぎつつシャルルが食べ終わるのを待っていたほどだ。
シャルルはいつものように黒い影と共に消え――その影の正体は未だに不明。一度だけシャルルに訊いてみたが、『いくらアルヴァレイさんでもまだ教えられません。こういうのには段階がありますから』と意味深な発言で拒否された――、俺は朝御飯の後で母さんに捕縛された。
「たまには店の方を手伝いなさいよ」
「一昨日も昨日も手伝ったよね……」
「あんなの手伝った内に入らないわよ」
理不尽だ。5,6時間は働いたのに。
そんなこんなで慌ただしかった午前中――だいたい4時間程度――が終わり、仕事からやっと解放された。
「あ~、疲れた……」
「手伝ってくれてありがとね、アル。助かったわ」
4時間前の台詞と噛み合ってない。
結局手伝いになるかならないかの基準ってなんなんだ、と思いつつも部屋に戻り、鉤爪と剣の入った革袋を持ち出してくる。シャルルもまだ来ていないようだし、母さんが昼食を作り始めるのもこれからだから、例の日課を先に片付けてしまおうと思ったのだ。
そして裏通りにつながる戸を開けた直後だった。
「何やってるんだよ……」
そこにはシャルルがいた。
薬局の裏口に背にして、足を投げ出すように座り込み、せっせと何かに没頭しているようだ。
端から見てチョーク石で道に落書きをしている子供にしか見えないのは、本人に言わない方がいいだろう。
加えて言うなら、シャルルは俺に気づいていないようだった。声をかけているのにそれが聞こえないとは、よほど作業に熱中しているのだろう。
俺はシャルルに歩み寄り、気づかれないように手元を覗き込む。
「え?」
そこにあったのは複雑な幾何学模様やいわゆるミミズがのたくったような文字で構成された魔法陣だった。
直径20センチくらいだが、中に書いてある文字は読めない。確かかなり古い時代の文字だったような憶えがある。
管理様式も今は非効率的とされて使われなくなった古い形式だった。
かと思うと、中心にある円の中に描かれた小さな文字はちゃんと読める。
ハ……ク……ハクアクロア?
ハクアクロアと言うのは山の名前だ。そこを中心に件の黒き森が広がっているため、人がほとんど寄りつかず、学者ですら敬遠するため半ば秘境のようになっている。噂では亜竜類の巣窟になっているとか独自の生態系があるとか色々と囁かれているが、誰も確認しに行こうとはしない。これもあくまで噂だが、時のエルクレス王が調査隊を派遣したが、1人として帰った者はいなかったらしい。
でもなんでそんなところの名前が魔法陣に組み込まれてるんだ?
「シャルル」
「わ!」
俺が声をかけつつ肩に手を置いた瞬間に、過剰反応したシャルルはペタンと尻餅をついた。おい、それが俺を戦技で投げ飛ばした奴の反応かよ。
シャルルはプルプルと震えながら、おそるおそるゆっくりと振り返り、
「わっ!」
またビックリした。シャルルお前、俺だってちゃんとわかってるだろ。なんでそれで驚くんだよ。
「ア、アルヴァレイさんですか。私、ちょっとびっくりしちゃいました」
うん、見ればわかる。
「何をしてたんだ?」
と、シャルルの手元を指差して言うと、
「も、もしかして見ちゃいましたっ!?」
「今、もう見てるだろ」
この至近距離で見ない方が無理だろう。
「これはその、アルヴァレイさんをビックリさせようとしていたんです。先に驚かされちゃいましたけど」
「俺を?」
何のためにそんな暇なことを。
「お前、いつからいるんだ?」
「1時間くらい前です」
いるんなら顔出せよ。店の方にいたから、全然気づかなかった。
「もうすぐ飯ができると思うぞ」
「はい、わかりました。じゃあそれまでに終わらせる気で頑張りますね」
1人息巻くシャルルに『それで何をする気なんだよ』とツッコむ気にもなれず、再び魔法陣に向かったシャルルから逸らした目は、自然と左手の革袋に向いた。
「暇になりそうだしな……」
ただ眺めてるだけだと。
シャルルから数メートル離れたところに立ち、左手に鉤爪を装着する。
ちらっとシャルルに視線を遣ると、時折思案顔で手が止まりながらも、地面のタイルの上に魔法陣を描いていく。その顔は真剣そのものだった。
魔法陣、後でちゃんと消せよ。
「やるか」
シャルルのことはとりあえず気にしないでおく。集中しないと怪我するからな。真剣だけに。
準備運動、数回の素振り練習、そしていつもは3回やる流撃――戦技用語でいわゆる連撃、それも文字通り流れるような動作で一連の技を極める攻撃だ――を1回終えたところで、トントンと肩を叩かれた。
振り返ると、シャルルが立っていた。
「アルヴァレイさ……」
「凶器振り回してたってのに危ないだろうが!」
「ご、ごめんなさっ……!」
何かを言おうとしていたらしいシャルルは、縮こまったまま何も言わなかった。
その姿を見ていると、こっちが悪いことをしている気分になる。
「はぁ……で、どうかしたのか?」
「は、はひっ。その……お母さまがご飯だって……呼んでます……」
「あぁ、先に行っててくれ。コレ置いてからすぐに行くから」
「あ……わ、わかりました」
シャルルは後ろの俺を何度も振り返りながら、裏口の戸を開けて中に入っていく。
たぶん怖がらせてしまったんだろう。そんな感じだった。
手早く鉤爪を外し、短剣を鞘に納めると、それらを革袋に放り込む。そして、裏口の前に立った時だった。
「ん?」
ふと見ると、シャルルの描いていた魔法陣は、直径40センチくらいになっていた。
「あれ? この形、どっかで……」
見たことがあるような気がする。しかし、しゃがみこんで細部を確認してもやっぱりいつどこで見たのかもわからなかった。
「ま……気のせいか」
俺は魔法陣には疎いし。身近に使える奴がいるわけでもないしな。
そう思いながら、立ち上がろうとした時だった。
「アルー、ご飯だって呼んでるでしょう」
ガチャッ――ドンッ。
「え?」
突然開いた後ろの戸に押し出され、魔法陣の上に倒れ込んだ。
カッ。
途端に視界が紫色に塗り潰された。淡い光、魔法陣の行使光だった。しかも、この紫色の光が表すのはシャルルが得意じゃないと言っていた高等魔法。
空間転移魔法。
「嘘だろッ……!?」
目の前が色彩を失い、全ての輪郭が消え失せる。
そして世界が真っ白になった直後――。
なんか黒いのが目の前にいた。
現実逃避も兼ねて後ろを振り返ると、そこに薬局の裏口の戸はなく、何処に視線を遣っても見慣れたテオドールの光景はない。それどころか――。
「あれ……テオドール、だよな……」
俺の倒れ込んでいた場所の数メートルほど後ろは切り立った崖のようになっていたのだが、眼下にはそのずっと向こうまで黒々とした森が広がり、さらにその奥には海に面した街が見えたのだ。
「じゃあやっぱりここ……」
魔法陣の中心に書かれていた文字が脳裏によみがえってくる。
「ハク……アクロア……なのか?」
背中に嫌な汗が噴き出すのを感じた。
辺りを見回す。
黒き森と同じく、黒い葉をしげらせた"悪魔の木"が立ち並び、恐ろしいほど静かだった。
くるるるるっ。
突如聞こえた何かの鳴き声に、再び現実に立ち返る。目の前に座っているこの動物、一度だけ見たことがある。
黒く艶めく2本の美しい角。ゆうに3メートルは超えている大きさの割に、細身でしなやかなその体躯。大きさに似合わない鳴き声。バネのように強靭な足。宝石のような輝きを放つ黒い毛並み。そして、目の後ろに血のように広がる赤色の毛。
騎乗可能な獣――飛獣・魔獣の一部の種を指し、俗に騎獣とも呼ばれている――の中では最高位に讃えられる大角鹿。
「ベルンヴァーユ……?」
くるるるるっ。
ベルンヴァーユは俺の問いに答えるように鳴いた。
「すげ……」
と思わず感嘆の声をもらしつつも一安心。ベルンヴァーユならとりあえずさしたる危険はない。
ベルンヴァーユは温厚な性格で危害をくわえない限りは襲ってくることはない。後は轢かれないように気をつけるぐらいだ。
ていうかシャルル、完成してる魔法陣を放置していくなんてうっかりで済まねえぞ。しかも触っただけで発動するなんて、明らかな異常効率だ。結果的に暴走は起こらなかったものの、異常効率は失敗の一例だ。目視できるとはいえ、地雷のようなものだからな。
さて、問題はこの事態をどうするかだ。
場所は謎だらけのハクアクロア。
この事を知っているのはシャルルだけ。
結論。
「絶望的じゃねえか」
シャルルがあの魔法陣を描き上げるのに約1時間半、つまり少なくとも1時間半は待たなければならない。
この何があるかわからないハクアクロアの中でそれまで無事でいろと!?
その時、座っていたベルンヴァーユが急に立ち上がり、耳をピクピクと動かした。何かを聞きつけたのだ。
くるるっ。
ベルンヴァーユは短く鳴くと、ダンダンッと足を踏み鳴らし、跳んだ。切り立った、はるか下の方に木々が見えるだけの崖から。
「なっ……!?」
ベルンヴァーユの姿はすぐに崖下に消え、俺は思わず地面に寝そべり、崖から頭だけを突き出す。
呆けていた時間が長かったのか、落ちていく姿は一瞬だけしか見えなかった。
黒き森の中に飛び込んだベルンヴァーユの姿は追えない。身体の色がトイフェルブラットと同じ黒で、しかも上からじゃ枝葉に紛れてわからないのだ。
「ん?」
無駄と知りつつも、ベルンヴァーユの姿を探していた俺の視界に木の生えてない場所がいくつかある。その時、その内の1つに先程のベルンヴァーユの姿が現れ――瞬く間に消えた。
……ちょっと待て。
この崖直下の落下点からあそこまでどんだけあると思ってんだよ。目算でも……数キロはあるぞ!? 今その距離を10秒、多く見積もっても15秒前後で駆け抜けなかったか!? 5キロだったとしても秒速に直せば秒速約333メートル。音速並みだぞ。ベルンヴァーユが異常な俊脚を持っているのは有名な話だが、そんなに速いのって動物として大丈夫なのか!?
そう思っている内にベルンヴァーユが黒き森から抜け出したのが見えた。
「速すぎだろ」
1分経つか経たないかと言う時間で、ハクアクロア――どの辺なのかはよくわからないが――黒き森の中を駆け抜けたのだ。
「あのベルンヴァーユ……テオドールに向かってんのか?」
なら乗せて貰えば良かったと思った次の瞬間には、乗らなくて良かったと思い直した。あんな奴の上に乗ってたら間違いなく何処かで放り出されている。
ぼんやりと眺めていると、ベルンヴァーユはテオドールの高い外壁を2ステップで軽々飛び越え、街の中に消えていった。
俺の視力では、目立っている黒い色を追うので精一杯だったが。
「てことは、あいつ野生って訳じゃないんだな……。誰かの騎獣ってことか」
じゃあなんで黒き森にいたんだ?
「ん?」
テオドールの外壁から黒い何かが飛び出した。たぶんベルンヴァーユだろう。
この距離では相変わらず輪郭すら見えないが、どうやら黒き森に戻ってくるようだった。
あれ……? 誰か乗ってる?