(4)禁句‐Die Worter, die verboten wurden‐
翌朝。
昨日は罰として、ずっと店の手伝いをさせられて身体中が悲鳴をあげている。結局最後まで何についての罰なのかも教えてくれなかったし。
父さんがいないからと、父さんがいつもやっているらしい仕事が俺に回ってきて、ほぼ力仕事を夜遅くまで続けてやっと解放された俺は、それから日付が変わる直前までやれていなかった鍛練をやっていたのだ。心はともかく身は芯まで疲れ果て、そのままベッドに倒れ込むように寝ていたらしい俺は――くしょんっ。
自分のくしゃみで目が覚めた。春とはいえ、海沿いのこの街の朝は少しだけ寒い。
「大丈夫ですか、アルヴァレイさん」
寝起きではっきりしない視界の向こうから聞こえてくる優しい声は母さんの声とは全く違うもので、
「なんでお前がここにいるんだよ……」
どうして同じ台詞を2日連続で言わなきゃいけないんだ……。
昨日の朝に戻ったような気分だった。
ベッドの脇の昨日と寸分違わない位置に、昨日と全く同じ前屈みの姿勢でシャルルが立っていたのだから。
「いけないんですか?」
「いけないかと言われたらそうでもないけど非常識ってものだろ、コレは。まさか習慣にでもするつもりなのか?」
「習慣じゃないです。日課です」
人はそれを毎日の習慣と言う。
「日課っていうのは習慣と同じもんだ。自分が繰り返しやってることなんだから」
「では慣習です」
「こんな非常識なふるまいが昔から決まっていると……?」
「えっ、む、昔から……? 決まってた……運命……? は、はいっ!」
んなわけあるか。
「で、今日は何の用だ?」
「お詫びです!」
だから何のだよ。いまだによくわかってないけど、お前がおかしくなった時のことか? アレは自覚はないけど俺が気に障ることを言ったからだって納得してるからお詫びなんてどうでもいいって――。
「……何度も言ってるんだけどな」
「何がですか?」
「いいや、何も」
俺はごまかすようにそう言うと、手を振ってシャルルを避けさせてベッドから起き上がる。
「別に来なくてもいいんだぞ」
シャルルに一応そう言うものの、実は結構嬉しかった。ただ非常識なだけ、最初はそう思っていたけれど、何だかんだシャルルみたいな可愛い女の子に起こしてもらえることに、幸福を感じてしまう。だから今の気分は嬉しさ半分非常識半分といったところだ。初対面から2日しか経っていないことを考えれば明らかな非常識なのだが。
「いいえ、遠慮しないでください」
少なくとも半分は遠慮じゃないけどな。
「私がす、好きで来てるんですから」
人を起こすのが好き、ってことかな。だとしたらかなり変わった趣味だな。趣味は人それぞれ、典型もあれば少数派から独自まで様々なのであまり首を突っ込まないことにしているが、シャルルのは他と一線を画している。それ、何が楽しいんだ?
「アルヴァレイさん……なんか変なこと考えてませんか?」
「いや、シャルルって変わってるよな~って思って」
途端、シャルルは眉を顰めた。そして、パッパッと帽子に手を遣り、背中を肩ごしに覗き見て、
「どこが変わってますか?」
「見た目の話じゃなくてさ」
ていうかお前の見た目は変わるんかい。
まあ水準以上の外見という点で他から外れてはいるが。
「どこかおかしいところはありますか? 普通の人と違うところがありますか?」
やけにつっかかってくるな。
「答えてください、アルヴァレイさん」
前言撤回。つっかかってくるんじゃない、一生懸命なんだ。なぜかは知らないが、シャルルは……
『普通』にこだわっている。『普通』にこだわることはいいことだが、それにしてはお前の行動は非常識なのが多いぞ。
「ん~そうだな……」
真剣な目つきでじっと見つめてくるシャルルの前で少し考えるフリをして、
「シャルルが他と違うところは……」
コクコクと頷いて俺の二の句を待つシャルルを観察しつつ、溜めに溜めて、
「他の奴らよりシャルルの方が断然可愛いことかなっ」
ボッ。
期待通りの反応ありがとうございます、シャルルさん。
頬は紅潮し、口は魚のようにパクパクと開いたり閉じたりする。
ちなみに普通なら俺もこんなこと言えない。同年代の女の子に『可愛い』だなんて気軽に言えるほど手慣れてもいないし、その機会も限りなく0に近い。それでも何の緊張も感じずにこんなことが言えるのはやはり、シャルルが本当に子供っぽいからだ。
「か、か、かわっ」
シャルルは顔を真っ赤にしたまま、よろよろとした足取りで後ずさっていく。
どうやら想像以上に効果覿面で、
「わきゃっ」
自分の足につまずいてコケた。コケたと言うよりは尻餅をついた感じだから、怪我はないだろう。それにしてもたった1回でここまでの悪影響が出るとなると、シャルルに『可愛い』は禁句かもしれないな。次は尻餅ですまないかもしれないし。
「ア、アルヴァレイさん……」
足をバッと閉じ、両手を膝の上に置いて弱々しくそう言ったシャルルは、
「た、たったたた、立たせてくれませんか……? その……こ、腰が抜けちゃって」
うん、禁句指定確実だな。それとも言い続けると慣れたりするのだろうか。
「はいはい」
シャルルが控えめに伸ばしてくる右手を握ると――ぎゅっ。
シャルルも控えめに握り返してくる。
女の子の手ってこんなに柔らかかったっけ……。しかも小さくてすごく温かくて、やばい――自分でからかっておいて、意識しちゃってるぞ、俺。心臓が少しずつ高鳴るのを感じる。顔も熱くなってきてる。赤くなってないだろうな。
「アルヴァレイさん?」
「え!?」
声が裏返ってしまった。どうやらシャルルの手を握ったまま硬直していたらしい。思わぬ破壊力に耐えきれなかったのだ。我ながら手を握ったくらいで硬直するとは……。
平静を装いつつ、シャルルの手を再び握り直し、助け起こしてやる。
シャルルは足の調子を確かめつつゆっくりと立ち上がると、ホッと息を吐いた。
そして握っていた手も放す。
「あ、ありがとうございます」
シャルルは深々と頭を下げた。
「ああ、いや、うん」
言葉が出てこない。
シャルルは顔をほんのり染めて――たぶん完全赤面の残滓――、右手を握ったり開いたりしている。
「アルー、ご飯って言ってるでしょー!」
初耳なんですけど。
「シャルル、ご飯は食べてく?」
「あ、いえ。もう食べたので……それに今日は用事があるので、もう帰ります」
本当に俺を起こすためだけにしか来てないのかよ。
「そう言えば、シャルルってどの辺に住んでるんだ?」
「えっ!?」
そんなに驚くことか?
今まで会ったことがなかったから近くに住んでないことはまず間違いないだろ。最近は誰も引っ越してきてないし。となると後は別の地区か、という思考回路を辿ってきての質問だったのだが。
「え、えっと……黒き森……の近くです!」
黒き森?
ああ。確か黒き森の北側に街があるって聞いたことがあるけど、確かあれってテオドールでたんまり儲けた商人やエルクレス貴族など富裕層が居を構えるから、豪邸が立ち並ぶ居住街じゃなかったっけ?
シャルルに視線を向けると――まあ、納得できるか。物を知らないのも貴族の子女ならありそうな話だ。一度そう思うと、物腰の柔らかさも言葉遣いも、ちょっとした仕草にも気品や育ちの良さがうかがえる気がする。
しかしたとえそうだとしたら、なんで貴族の子女がこんなところにいるのかという新たな疑問も生まれてくるのだが。
「……ってお前そんなところからわざわざ来てんのかよ! 遠いだろ!」
「?」
「不思議そうな顔をするな、ってああそっか。お前、空間転移魔法が使えるんだったっけ」
「はい、あまり得意じゃないですけど」
「得意じゃないのかよ!」
「はい、成功率は低めなのでこの街に来る時は使ってないですよ」
成功率低めの魔法を俺の部屋に入る度に使ってたのかよ、この天才は。この調子で通われたりしたら俺は毎朝命がけのギャンブルライフじゃねえか。
「でも魔法使ってないってことは、誰かに送ってきてもらってるのか?」
「はい、ルーナちゃ……ルーナっていう子にここまで」
「それでも時間はかかるだろ?」
「はい、かかります」
「ならわざわざ来なくてもいいのに。別に来いなんて言ってないだろ。まったく……どれだけかかるかわかってんのか?」
徒歩なら丸1日、馬で10時間ちょっと、馬車なら12時間はかかるだろうな。
「乃至1時間ぐらいはかかりますね」
「嘘だろ!?」
「えっ? あ、でも急げば30分ちょっとで着けますっ」
シャルルは何を言ってるんだ? なんでだろう、シャルルの言葉が理解できない。
黒き森の北にある街から1時間弱? 急げば30分ちょっと? 普通に考えてありえない。何キロあると思ってんだよ。
「ま、いいや」
思考放棄。シャルルがどうやってここに来てるかは考えるだけ無駄と仮定しよう。
「それではさようならです、アルヴァレイさん。また明日も来ますね」
シャルルはそう言うと、窓を開けた。少し冷たい空気が部屋の中に入ってくる。そして、シャルルは瞬く間にそこから一階の屋根の上に出ると、窓を閉めた。
普通に玄関から帰れないのかよ、そう思っていると、シャルルは窓の向こうから小さく手を振ってくる。
俺が手を振り返すと、シャルルは柔らかく微笑んでくるっと向き返る。
そして、指を口に咥えた。
ピィーッ。
朝のテオドールに高い音が響き渡る。その数秒後――ダンッ。
「!?」
一瞬だけ見えた黒い何かが窓枠に狭められた視界を右から左へ横切って、それと同時にシャルルの姿が消えた。
思わず窓に駆け寄って――ガッ、バン!
急いで開けた窓から上半身を乗り出し、シャルルと黒い影の消えた向かって左側へ視界を広げる――が、既にシャルルと黒い影の姿はなかった。
「……何だったんだ、今の」
窓を閉めつつ、一人ごちる。
カラス? はあんなに速くないし、そもそもカラスの大きさじゃない。
馬? それよりずっと速かったし、黒馬なんてこの辺じゃなかなか見ない。
「アル!」
「うぉあ!」
背後から突然母さんの怒鳴り声。今って鈴の音聞こえたか?
「ご飯だって言ってるでしょう」
フライパンやお玉や包丁が飛んでこなかっただけで運がいいと思ってしまった俺はもうヤバいと思う。
「あ、うん。今行く」
「またシャルルちゃん来てたの?」
窓の鍵を閉める俺に後ろから母さんがそう訊ねてきた。
「うん、なんか起こしに来るのが好きだからなんだって」
「起こしに来るのが好きだから?」
振り返ると、母さんは首を傾げたまま曖昧に微笑んでいた。
「それはたぶん語順が違うわね」
「は? 語順?」
「何でもないわ。早くおりてきなさいよ」
母さんは意味の読めない言葉を言い残して、部屋を出ていった。
「語順……。語順……?」
母さんが何を意図して言ったのかがわからない。後でゆっくり考えるか。
それからというもの、シャルルは度々家に来るようになった。
度々、というのもおかしいのかもしれない。
なぜなら『今日は来なかったな』という台詞が自然に口をついて出るほどに、シャルルがウチに来る頻度が高いのだ。
出会ってから来なかった日はまだ数え上げられるほどしかない。
起こしに来ただけ、用があって来た、など理由は様々だったがよく飽きずに来るもんだと感心する。
まあ友達に飽きる、なんてありえないことだとわかってはいても、普通毎日来るか?
でも俺は気づいていなかった。
シャルルという異常に。
この時の俺はまだ知らなかった。
シャルルと出会った瞬間、むしろシャルルとぶつかった瞬間から、引き返すことのできない異常の巣窟の中に足を踏み入れ、もとい引きずり込まれていたことを。そして、これからの人生は全てがそれ中心に揺れ動くことを。
そして、思いもよらなかった。
あらゆる異常との出会いの全てを経てすら、その発端であるシャルルとの出会いに感謝するようになることを。