(7)不運‐Das Madchen errotete‐
気がつくと、目の前には果てしなく広がる青い空が見えていた。
俺の名前はアルヴァレイ。
よし、正常だ。たぶん……。
手や、背中に感じる硬い木の感触。
身体を起こす。
ビキキッ。
「痛ェよ!」
身体中が痛い。
思い出した。
甲板で、ヘカテーと話していた時のことだ。突然、名前を呼ばれた気がして、振り替えったら。
目の前に狗坂康平がいた。
慌てた表情で宙に浮いていた。
そこから先は記憶がない。
「何だったんだ? いったい……」
そこは甲板のだいたい中央だった。
たぶん何らかの事故で狗坂康平とぶつかって、そのまま気を失ったのだろう。
気がつくと、隣に狗坂康平が転がっていた。うつ伏せのままピクリとも動かない。その姿を見ていて、何となく不安になり、肩を揺する。手がピクリと動いた。とりあえず生きてはいるようだ。
「っつーか、放置かよ」
ヘカテーの姿が見えない。
俺は立ち上がると、狗坂康平を引きずり、船縁にもたれさせる。
「ヘカテーはどこ行ったんだ?」
部屋か、と思って階段を降りる。足が重い。歩くのが億劫に感じるのは初めてだ。
そのまま廊下を進む。
俺たちの部屋は甲板から1階層降りた、船の舳先側にある。部屋といっても、ヴァニパル・テオドール間の4時間程度の時間を潰すためのもので、中にはテーブルひとつ以外に何もなく空き部屋に近い。それでも、荷物を置いたりと、結構便利に使える。
「はぁ……」
ドアの取っ手に手をかけて、押し開ける。しかし、中には誰もいなかった。
「あれ?」
中に入り、足でドアを閉める。
「ん?」
視界の端に肌色が見えた。
何の気なしに振り返る。
躊躇いも疑いも用心もなく。
「こ、紙縒……どうして……」
そこにはどういう経緯か知らないが、久しぶりに見る衣笠紙縒の姿があった。
何でだろう。
久しぶりに見る紙縒の姿は、一糸纏わぬ、わかりやすく言えば服も下着も何も着ていない状態だった。そして、その背後にはヘカテーがいて、紙縒の口を塞いでいる。おそらく、俺が突然入ってきたためにドアの後ろに隠れたものの、慌てていてつい気づかれないように口を塞いでしまったのだろう。紙縒にとってか俺にとってかは見方によるが救いがあるとすれば、紙縒の両手が隠すべき所をしっかりと隠していたことだろう。
とは言え紙縒の顔は羞恥で真っ赤に染まり、ヘカテーのこめかみにはあからさまな青筋が走っていたためその救いがあろうがなかろうがあまり関係はないだろうと的確に悟った。
「目を塞ぎなさい! 違う、後ろ向きなさい! 違う、今すぐ出ていきなさい!」
ヘカテーにそう怒鳴られるまで、紙縒の綺麗な肌や、整った顔や、抜群のプロポーションに思わず見とれていたことは否定しない。
たぶん、否定したところでヘカテーも聞く耳を持たないだろう。
とかなんとか考えながら、部屋を飛び出し、ドアを引っ張って勢いよく閉める。
バターン、とかなり大きな音にその階にたむろしていた大多数がアルヴァレイに疑問の視線を送ってくる。
その視線に応えることはできず、曖昧に笑ってごまかす。心臓の鼓動は激しく脈打ち、汗が止まらない。もちろん冷や汗だが。
扉に背を預け、大きく息を吸う。
ギィッ。
ミシミシ。
ギィッ……?
ミシミシ……?
嫌な予感よりも早く。
バキッ。
思っていたより軽く、とてつもなくあっけない乾いた音だった。
背中に感じていた扉の抵抗がなくなり、身体が重力に従って落下するような感覚に、ただ何となく、何者かの陰謀を感じずにはいられなかった。
ドォンッ。
倒れた拍子に脇腹に取っ手が食い込んだ。
激しい痛みに悶える暇もなく、予想通りの光景が目に飛び込んでくる。
「あ……アッ、アルッ……」
右足を下着に通し、下ろしたような体勢で硬直する紙縒。
今度の光景には先ほど紙縒の手や腕がもたらしていた救いはまったくない。
完全なノーガード状態。逆光ならまだしも俺の方からは順光。どうしようもなかった。
顔を真っ赤にする紙縒。その目元には大粒の涙が光り、その手にはどこから持ってきたか手頃な木の板。
「アルヴァレイィ、クリスティアース~ッ!」
それがこの部屋にあるテーブルの天板と気づいたところで何かが変わるわけもなく。視界に映る紙縒の裸体の肌色が消え、続いて壁の白が消え、迫り来る茶色の板の色さえ明かりに陰って黒くなり。
「がっ……」
顔面強打。
むしろ加害者は机の方なので顔面殴打。
「アールーく~ん?」
ヘカテーの怒りに震える声がどこからともなく聞こえてくる。
「そんなに……」
声が近づいてくる。
そして、未だに上に乗ったままのテーブルの天板が急に重くなった。
ヘカテーが天板の上に乗ったのだろう。
重くなったとは言ってもヘカテーの体重なんてたかが知れている。
支えようと思えば簡単に支えられる。
「紙縒の裸が見たいのかーっ!!」
「不可抗力だ!」
「不可抗力も罪だよアルヴァレイさん」
理不尽だ、とも思ったが結果的に紙縒には悪いことをしてしまったので、それ以上の抵抗はしなかった。
鼻骨を手で覆って守っただけ。
「ヘ、ヘカテーちゃん。もういいから、アルが死にそうだから許してあげて」
「ちっ」
ヘカテーの舌打ちなんて初めて聞いた。どんだけ不機嫌なんですか。
天板がどけられる。
「アルヴァレイさん、早く起きて。正座」
「こんだけやってまだ続ける気か!?」
「当然です。さっきまでのは罰則で、これからのは指導です。アルヴァレイさんが2度とこんな気を起こさないように」
「やろうと思ってやった訳じゃ!」
「調教します」
ヘカテーの笑顔が、恐ろしく怖い。どことなく陰りがあり、ルシフェルの歪みにも似た笑いを浮かべたヘカテーは俺の前に正座した。
「ヘカテー」
「言い訳は聞かないけど、遺言なら」
「大好きだよ」
「あ、えっ、その……」
ヘカテーの表情が緩んだところで、隔てるドアの無くなった部屋の入り口から飛び出した。もちろん逃げるためだ。
「アルヴァレイさん!?」
後ろから聞こえる叫び声を聞き流して、全力疾走。
階段を駆け上がり、甲板に出る。
それから船がテオドールに着くまでの3時間、甲板でかくれんぼだか鬼ごっこだかよくわからない逃走劇を続ける羽目になった。
後が怖い、なんて事は考えなかった。
その時の俺はヘカテーのこの笑顔こそ最上級の恐怖だと信じて疑わなかった。
「何か言うことは?」
「ごめんなさい……」
「紙縒にも」
「すいませんでした」
「生まれてきて」
「何を言わせる気だ?」
船を降りてからの方が怖いことに今さら気づいた。冷静に考えればこれからまず向かうのは薬局、つまり俺の両親の店だ。そこで何を言われるか……。
「ところで紙縒と康平は何であの船に乗って……きたんだ?」
あまり直視はできないが、聞いておきたかったことだ。仕方がない。
「そこなんだよね」
不思議そうな顔で首を傾げる紙縒。
「ここだけの話、ブラズヘルの残党があの船で何かしようとしてるって情報が入ったからあの船に頑張って乗ってみたんだけど、4時間ずっとそれらしいことは何も起こらなかったし……」
「誰からの情報だったんだ?」
「匿名希望だってさ。ブラズヘル側にいたから名前を出せないのかもって思ってひとまずその情報を信じることにしたんだけど……。この様子じゃガセだったみたい。でも、なんか納得がいかないんだよね……。結局服濡らして疲れただけじゃ気に食わないっていうのもあるんだけど」
「確かに何か引っかかる話題だよな」
「あ~あ、バカみたい。こっち来たことなかったし色々見てから帰るよ。任務中の費用はギルド持ちだし服濡れたから、その経費ぐらい出るでしょ。ずっと寝てたんだからそのぐらい付き合いなさいよ、康平」
「寝てたんじゃないよ。紙縒が無茶苦茶やるから気を失ってたんじゃないか」
「私のせいじゃないから康平のせい」
「いつもいつもホントに理不尽だね……」
本当に康平には親近感が湧く。
もう火山の噴火の時の溶岩みたいに次から次へと湧き出てくる。
「じゃあまずアルヴァレイさんの家に行きましょ。すぐそこだから」
ほら来たー。
自然と足が重くなる。
必然と言えば必然だが、ヘカテー、紙縒を先頭に、その後ろをルーナ、久遠、稲荷、ヴィルアリアが続き、最後尾に俺と康平の似た者同士。女の子比率が高いのも相まって、男子勢の立場が弱い。
ヴァニパルに置いてきた2人が加わっても悪化していただろうから文句を口には出さないが。
隣でとぼとぼと歩く康平の姿が妙に印象に残る。自分を客観で見るとこんな感じなのだろうか。
「あ、あれですよ」
そうこうする内に着いてしまった。
「ほらほら、アルヴァレイさんとアリアちゃんが一番前に来なきゃですよ」
ヘカテーに無理やり前に押し出される。
わずかばかりの抵抗も虚しく店の中に突き飛ばされた。
「いらっしゃ、帰れ、よく来たね!」
因みに父さんの視線は新聞から開いたドアに、そして俺を流し見てヴィルアリアといった移り変わりを見せてくれた。
前に来た時より扱いがひどい。
前は丁寧なお断りといった感じだったが、既に拒絶になっている。
「これはこれはまた大人数だねー。えっと7人か。これはリビングじゃあ狭いだろうし……」
たぶん数えられていないのは俺だろうな。今さらながら泣けてくる。
「ま、とにかく上がって上がって。2階に空き部屋があるから。母さん! アリアが来てくれたよ!」
たぶん俺の部屋……。
と嘆きつつ階段を上がると、一応俺の部屋は残っているようだった。その隣の部屋の扉が開いていて、中を覗くと何もない。
ここって何の部屋だったっけ? そういえば開いているところを見た記憶がない。
「たぶんこっちの事だよね。あそこの部屋は鍵開いてないみたいだし」
「ハハ、たぶん封印されたんだと思うよ。いろんな意味で」
全員が部屋の中の思い思いの場所に陣取る。
紙縒と康平は窓際に、稲荷は久遠とルーナに挟まれるように入り口の近く。
ヘカテーは俺の手を引っ張って、空いている壁際に座った。ヴィルアリアは俺の隣に自然に腰を下ろした。
トントンと階段を上る音。
その直後にはティーセットとお菓子を2つのトレイに分けて器用に運ぶ母さんが姿を現した。
「久しぶりね、アリア。元気にしてた? お祖母ちゃんは元気? アルヴァレイ、そこのテーブルだして」
部屋の隅のクローゼットの引き戸を示す。そしてアルヴァレイが出してきた小さなテーブルにトレイを並べる。
「うん、私もお祖母ちゃんも元気だよ。お母さんも元気そうで良かった」
「戦争があったんでしょう? 大変だったわね、怪我はない?」
「うん、大丈夫」
「そう、じゃあゆっくりしてってね。アルは早く帰りなさいよ」
最後の最後で棘が痛い。
母さんはヴィルアリアに手を振って、ニコッと笑うと、次に俺をキッと睨みつけ、部屋の外へ。そのまま階段を降りていった。
「さてと……」
ヘカテーがコホンと咳払いをした。そして、周りの皆の顔をゆっくり見回して、ニコリと一度微笑んで、そして、口を開いて。
「何する?」
「そこからか!」
本当に『まず』来ただけだった。
「だってアルヴァレイさんの家に一度は顔出さないと。本当に縁切られちゃいますよ?」
「縁……って? ちょっとお兄ちゃん……何やったの?」
だんだん面倒な方向に話が進む。
何か話を逸らさないといけない。
このままじゃ色々と厄介なことになること間違いない。
何か……何かないか?
話を逸らせる都合のいい話題が。
「よし! 黒き森に行こう! 皆で」
「「後でね」」
ヴィルアリアとヘカテーの2人が強い。
そこで、突然1人が立ち上がった。
「私を黒き森に案内してください!」
はっきりとした大声による意思表示。
信じられないことにその声の主は火喰鳥久遠だった。
「私は、シャルロット=D=グラーフアイゼンという旧き理を背負う者を探してるんです」