(9)戦場‐Das Schlachtfeld des Jungen‐
特別遺失物取扱課――。
「くろの……」
宵闇黒乃はちょうど執務室を出たところで後ろから声をかけられた。
その声の主は振り向かずともわかる。
なぜならその声はおとなしそうな幼い女の子の声だったからだ。
このオフィスで聞ける子供の声は基本的には2パターンしかない。
そのうち一方は聞いてるだけで苛立つしゃべり方をする幼女を模した巨大な兵器格納庫。
『戦々狂々』こと個体名、チェリー=ブライトバーク=鈴音。
そしてもう1人――。
振り返りつつ腰を落とし、相手の目の高さまで頭を下げる。
声の主は釘十字神流という。
銀髪に、綺麗な紫色の瞳。黒いゴスロリドレスに身を包み、その腕の中に必ず小さな黒兎のぬいぐるみが抱えているあどけない女の子の姿だが、その本質は完全に人外。
「どうかしたの? 神流」
いつも男勝りな話し方をする黒乃でさえ、甘噛みするような声になってしまう。
「ううん。見にきただけ……」
ふるふると首を振るその姿は、どうみても普通の女の子にしか見えないが、その正体は呪われた釘だ。幾度となく呪殺のためにしか用いられず、その結果、持ち主の身代わりに呪われてしまった。
その呪いは、呪いを受けた他者の痛みを引き受けてしまう、というもので常に激痛を伴うため、特別遺失物取扱課で保護、呪いを軽減するため解呪を施したが呪いが強すぎるため管理下に置かれている。
「本当?」
紫色の瞳をまっすぐ覗き込み、母親が子供にするように目にかかる前髪を払う。
実際、黒乃は神流のことを我が子のように思っていた。
神流の過去は黒乃の過去に似ているが、黒乃の過去は神流の過去ほど酷くはない。
もしかしたらそれは感情なんて高尚なものではなく、呪われた物同士の共鳴のような反応なのかもしれないが、黒乃は神流に対して今までに感じたことの無い何かを感じていた。
これがいわゆる母性というものなのかもしれないが、人ではない自分にそんなものがあるのかどうか疑問にもなる。
「うぅ? ん、あのね……」
「ん?」
「チェリーちゃん、どこにいるの?」
おそるおそるという感じに前髪の間から窺うようにそう言った。
「チェリー? 今は仕事で出かけてるけど、チェリーがどうかしたの?」
「チェリーちゃんがいっしょにあそんでくれるって言ってたから……」
餌付けでもしようとしてるんじゃないかと心配になった。
「チェリーは今衣笠を迎えに行ってるから、帰ってきてからね」
頭を撫でてやると神流の表情がほころんだ。嬉しそうな顔を見ていると、黒乃の方も何だか嬉しくなる。
「きぬがさってこよりちゃん?」
「そうだけど。もしかして私以外は全員ちゃん付けで呼んでるの?」
「う~う。くのうさんはくのうさん」
さすがにあの歳でちゃん付けは本人としても厳しいだろう。
「っ!」
激しい殺気。
今だかつて無いほどの強大な力を感じ、思わず辺りを警戒する。
「?」
きょとんとした顔で不思議そうに黒乃の顔を見上げる神流。
「ごめんなさい」
誰へとなく呟く。
誰へとなく頭を下げる。
身体が自然と直角に曲がる。その行動を見たからか、肌でビリビリと感じていた緊張はすっと無くなった。
え? なに、なに? と首をかしげてきょろきょろと周りを見回す神流の様子に心をほんわかさせながら、神流を抱き上げた。
「あわわっ」
黒乃の突然の行動に驚いたのか、慌てた声をあげる神流。
その反動でバランスを崩しそうになるものの、何とか体勢を立て直し、神流の姿勢を安定させる。
「チェリーに会いたい?」
1拍、2拍3拍4拍。結構長い間をあけて、神流はこくりとうなずいた。
その間に何を考えていたのか気になるが、神流を見ていると、些細なことはどうでもよくなってくる。
「どうする? 行こうか?」
本当は仕事が山積みだけど。
ちょうどあのバカどもがちゃんとやっているのか知りたかった所だ。
ずっと会いたかった人もちょうどあの世界にいる。
別に仕事を投げ出したかったからじゃない。衣笠がいないと滞る書類もあるってことだ。
それに過去に行くにも申請が要り、数々の審査をパスしなければ話を通すことすらできない。暇だから、なんて理由が通るべくもないが、結構面倒な作業になるのだ。
サボる気など毛頭無いが、サボりたいなら神流を遊園地にでも連れて行ってやる。
そろそろ少しだけ説明しておこう。
衣笠紙縒はあくまでも民間人だったが、魔術の才に秀でていたので今は民間協力者といった立ち位置にある。
現界。
時代ごとにそう呼ばれる世界はあったけれど、こと現在においては神界、魔界、人間界、竜界、機界、精霊界、天界の7つの世界が融合して出来た第3世界のことを指す。
最初に神界、魔界、人間界が融合し、次にその世界と竜界が融合、さらに機界、精霊界、天界が融合したことがわかっている。
これらの情報はある1人の女性からもたらされたものだ。
ロードと名乗った彼女は自らを『旧き理を背負う者』という存在だと公言し、曰く『旧き理』による超能力を行使して見せた。
真偽に関しての賛否両論を経て、その存在は断定された。
そして現在。
暦にして、1973年。
機界からもたらされた技術と理論を下敷きにした時間移動の技術が確立されたが、悪用を防ぐため、計画は凍結された。
しかし、その技術の恩恵を受けられる組織として、先進国の一部に作られたのが、人知を超えた異形の存在『旧き理を背負う者』についての情報を管理、統制、及び保護、抹殺、研究などを一手に引き受ける特殊部署『特別遺失物取扱課』だ。
黒乃はこの国でその執務官を勤めている。
かく言う黒乃も人ではない。
黒乃は元々、愛刀『闇桜』と双つで1つの剣。つまり、双剣だ。
その名前は『桜花双刀』。
個体名がそれぞれ『宵闇黒乃』そして『闇桜影乃』という。
もちろん、影乃の方も人の形をとることができるが、基本的に面倒くさがりなので、黒乃が人、影乃が刀という形をとることが多い、というわけだ。
「行く」
少し悩んでから、神流は一言そう言った。
本当にチェリーの思い通りになついてるなと少し心配になるが、神流は黒乃の前だと本当に楽しそうなのである程度は許すことにした。
あとはチェリーが何もしないように24時間ずっと監視をつけておくだけだ。
過保護な親と同程度のやり口だが黒乃本人はその事に気づいていない。
もっとも、気づいたところで何かが変わるとは思えないが。
「今から申請してくるから、おとなしく待っててね」
「うん」
妙に心踊るのは、神流と一緒にいられるからだけではないだろう。
ヴァニパル・ブラズヘル国境、レインの森――。
聞こえてくるのは爆音と悲鳴。
それと隣で呼吸を調えているヘカテーの息遣いくらいのものだった。
爆音は大気を震わせる。
悲鳴は心を震えさせる。
現在、戦線はヴァニパルの国境付近に広がる森に移り、その途中でルーナとははぐれてしまった。
ヘカテーが心の中でコンタクトをとれているため、無事ではあるようだ。
ヘカテーが言うには怖くなって前線から退いたらしいので心配するほどじゃないだろう。
時折起こる爆発や衝撃音は、魔法か竜騎兵の爆撃によるものだ。
その轟音の下では多くの人の命が失われているのだろう。
かく言う俺も、ヘカテーがいなければ3回ほど死んでいる。冷静なわけじゃない。冷静になれるわけがない。事実焦っていた。
国境付近の街道は完全にブラズヘル軍が制圧し、更なる増員のための物資補給中継拠点となっている。戦場上空はブラズヘルの竜騎兵隊が制空権を掌握し、地上では魔導騎士団を中心とする部隊が激しい侵攻を続けている。ヴァニパル軍は森に隠れながら何とか後退するのが精一杯だ。
というのが、ヘカテーの得た情報からもたらされた現状で、このまま何もなければ負けは確実だ。
俺は善人ではあっても聖人じゃない。
戦争中にもかかわらず敵兵の命すら心配して殺すのを躊躇うわけではない。
この言い方が卑怯なのはわかっている。
現状、俺が躊躇わなかったのはヘカテーに人を殺せといった内容のことを言っただけで、自身は誰も手にかけていないのだから。
潔癖。
そう綺麗事のように表現していいかわからない。
敵も味方も誰も死なないように戦争を終わらせようなんて大それたことを考えるような器ではないし、そんな自意識過剰な生まれついての主人公でもない。
そのぐらいの分別がつく程度の一般人である自覚は十分あるし、自分の限界を超えてやろうと躍起になっている現実逃避主義者じゃない。
結局、自分は何もできないのだ。
「アル君っ……!」
ふと気づくと、ヘカテーに小声で呼ばれていた。
「何ボーッとしてるんですか!」
「あ、うん……ゴメン」
「そんなんじゃ約束守れませんよ!」
「あ、ああ」
そうだった。約束を守れなくても、約束は守りたい。
約束をした者に課される義務は、約束を守ることじゃない。約束を守るための努力を怠らないことを義務付けられるのだ。
「行くよ、ヘカテー」
「うん、私は最初からそのつもり」
そんな言い方しなくてもいいじゃないかと思うけれど、余計なことを考えれば大事なものを失ってしまうような場所にいるのだ。小言も愚痴も後回しにする。
俺とヘカテーは周りを警戒しつつ、再び森を駆ける。
「うおぉおおおお!」
不意に聞こえた雄叫びに振り返ると、巨大な鈍く光る戦斧が視界に入った。
「くそっ」
ガキィンッ。
とっさに突き出した左手の鉤爪が斧の重圧できしむ。
しかし、一瞬止められれば十分だった。幸いなことに俺は1人じゃないのだから。
バキッ。
斧を力任せに押し込もうとしていた男の眼に、不可解さに対する疑問の色が見てとれた。
当然だろう。
目の前で頑丈な斧が粉々に砕かれたのだから。
殺そうとしていた敵国の兵士の隣に佇む少女の華奢な右手の、危なっかしさを覚えるほど小さい握り拳の一撃。それがその原因なのだからなおさらだ。
「すみません。邪魔ですから」
そう言った少女の微笑みに男が恐怖を憶えるのがもう少し早かったなら、何かが変わっていたのかもしれない。
ボキッ。
「っあああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」
ヘカテーがやったのは男の腕の間に入り、両腕を掴んだことだけだ。
しかしその腕はつけていた鎧ごとひしゃげ、残っていた斧の柄の部分すら取り落とし、その激痛は男から完全に戦意と意識を奪っていた。
「ありがとう、ヘカテー」
「どういたしまして」
ヘカテーの場合、殺さなかったのは殺す必要がないというだけで、男を助けたつもりはない。その男とヘカテーの力量差が歴然だったというだけだ。
「次が来るから、気を付けて」
ヘカテーの『心を覗く』能力は戦場では『探知できる』と同義だ。戦闘に集中しなければならないような奴を相手にするときは使えないらしいが。
周りを警戒する。
音がしない。
いつのまにか、さっきまで響いていた爆音が消えていた。衝撃音もだ。
「なっんでガキにやられてんだよ、アホがぁ! んなんでよく今まで生き残れたよなぁ。小僧ども! 何でこんな戦場にいるかはしらねえが悪く思うな! 俺は貴様らを殺したい! はっはっは! 俺の名を教えてやろう。貴様らを殺す俺様の名はルオス!! ルオス=グレイグスだ!」
頭の妙に角ばった髭面の大男が現れた。
その肩に担がれているのは、1,5メートルほどの長さの大きな両刃剣だった。
刃は血にまみれ、赤黒く光っている。
何人も何人もその剣で殺してきたのだろう。着ている鎧には返り血らしい飛沫が跳ね、乾くことなく赤く染め上げていた。
「ぷっ……」
その大男の姿に突然ヘカテーが吹き出した。
「あぁん!?」
人を小馬鹿にするように笑うヘカテーに対して、大男はこめかみに青筋をビキビキと浮かべる。
「なぁに? その剣!」
そう言ってヘカテーが指さしたのは、男の担いでいるその両刃剣だった。
「てめぇ、俺の剣を侮辱する気か?」
「クスクスッ。あ、ごめんなさいっ。つい笑っちゃったのは理由があるのよ。確かにあなたの顔もそうとう変だと思うけど知ってるかな? 業物と呼ばれる刀剣は刃に血を残さないの。表面に細かい傷すらないから、振ればすぐに流れ落ちちゃうのよ? まさかご存じなかったの? ナマクラ掴まされたって気づいてなかったの?」
男の顔は怒りと屈辱で真っ赤に染まり、青筋はいまにもはちきれそうだった。
「て、てめぇぶっ殺してやる!」
大男(名前なんだっけ?)は力任せにナマクラを振り回し、ヘカテーとの間合いをつめた。
そして、アルヴァレイから見ても隙だらけの上段構えから躊躇い無く彼女の頭を狙って剣を振り下ろした。
「遅い」
大男がバランスを崩して無様に地に転がった。
目を白黒させて、自らの手を何度も見返すその姿は不謹慎ながら滑稽だ。
かなりの重量だろうそのナマクラは今、ヘカテーの手に収まっている。それがさも自然な流れのように、あまりにも流麗な動きだった。
「ふ~ん、結構軽いんだね。でもこれって本当に剣なの? なんか使われてる金属柔らかすぎない?」
そう言いながら刀身を捻じ曲げるヘカテーは、ちらちらと大男の様子を窺い、1人でくすくすと笑っている。
バキッ。
「あ、ごめん、折れちゃった。でも脆すぎだよね、この剣も」
あまりにも無残。無情。
大男は打ちひしがれた表情になり、しかし本能に従ってどこかに逃げていった。
「弱いなぁ、人間ってさぁ。アル君みたいにもっと強い人はいないのかな? ねぇアル君」
どこか不満そうな表情だった。
「お前は戦闘狂か。それとさりげなく俺を比較対象にするな」
それに一般人とお前と比べるな。
パチパチパチ。
突然聞こえた戦場に不似合いな拍手の音に即座に反応し、ヘカテーは音のした方向を探る。
しかし、周りに人影はなかった。
ヘカテーの頭の中も、冷静を装っているが心の中では慌てふためくアルヴァレイの少し可愛い心の様子だけが響いている。
要するにアルヴァレイとヘカテー以外誰もいなかった、はずだった。
「貴女、強いわね」
くぐもったような、しかし妙に響く声が近くの木の陰から聞こえてきた。
「素晴らしい力だわ。その才能があれば大抵の人は下せるでしょうね」
その声は女性の声だった。
「でも、フフフ……手練れとは違うようだけど」
微かな笑い声。
「姿をっ」
姿を見せなさい、とでも言おうとしたのだろうが、ヘカテーの言葉は途切れた。
無理もない。
ヘカテーが言い切る前にその声の主が姿を現したのだ。それもヘカテーの前方わずか数十センチのところに。
ヘカテーはバックステップで間合いをとる。しかし俺は動けなかった。
まさに瞬間移動。
高速移動では説明がつかないほどの極端な自然体。その姿にはリィラに似た凛々しさを感じずにはいられなかった。
簡素な装飾の金属とレザーの鎧を着て、その上に頭からローブのようなものを被っている背の高い女性だった。髪の色は見えないが、一挙手一投足を見ていると、神族のような印象を受ける。
が、神族かと言われればどこか違和感が残る。
「あなた、誰!?」
ヘカテーの問いかけに対して、その女性がクスリと笑った、気がした。
なんとなくそんな雰囲気を感じたのだ。しかしその顔を見ることはできなかった。
「私?」
そう言ってその女性は自分を指さした。黒い仮面で素顔を隠しているその顔を。
「ブラズヘル側の雑兵の1人だと思ってもらっていいわ、フフ……今はね」
含むように笑う。
「雑兵……雑兵ね、ルシフェル」
ヘカテー、もといルシフェルの口元が邪悪に歪む。
その姿はいつかと同じようにぐにゃぐにゃと波打ち、今までに無いような武者震いに奮っていた。
その髪は赤く、紅く染まり、瞳が金色に変貌した。その華奢な身体にまとわりつく金色の鎖がじゃらじゃらと音をたてる。
「どいてないと間違って殺しちゃうよ、アルヴァレイ=クリスティアース。この女、涎垂らして、泣き叫ぶまでいたぶってやるから、見たくなかったら離れとけば? 観賞するのも楽しいけどね♪」
「威勢がいいのは嫌いじゃないわよ」
互いに挑発しあう2人。
「やめろ、ルシフェル! ……っぐ!」
ルシフェルの手がアルヴァレイの首に強く食い込んだ。
ルシフェルに強い力で引き寄せられる。至近距離まで顔を近づけるルシフェルの目には嫌悪の色が浮かんでいた。
「そこんとこを勘違いしないで欲しいんだよ。ヘカテーが殺さないでって言ってるから殺さないでおいてやってるんだよ? ヘカテーや他の妹たちみたいに私とも馴れ合えると思わないでね♪」
呼吸ができない。
食い込む爪の痛みすら麻痺してきてわからなくなってくる。
「わかった?」
屈託の無い微笑みを演じてみせるルシフェル。
『ティーアの悪霊』ルシフェル=スティルロッテは最悪の意味で健在だった。
「……」
ルシフェルの手から力が抜かれる。
首の痛みがよみがえり、酸欠の肺の中に急激に新鮮な空気が入ってくる。
「……げほっ! げほっ!」
「おとなしくしてるんだね♪」
突き飛ばされて、木か何かに背中を強く打ち付けた。
首に手をやると、ぬるっと生温い感触が手のひらにまとわりつく。
赤く染まった手。少なからず出血しているようだ。背中も首もずきずきと痛む。
「さぁ、ルシフェル様のショータイム! 今度の羊は生き残れるかな♪」
黒々とした殺気がその森の一画を支配した。