(7)破綻‐Das Gefuhl der Unstimmigkeit des Madchens‐
「じゃあね、康平」
気がつくと、いつの間にか紙縒の家の前だった。
考え事をしている間は結構長かったようで、帰路の途中の記憶がなかった。どうやら、無意識の内に足だけを動かしていたようだ。
「うん、また明日」
紙縒は綺麗に磨かれた金属製の門を開けると、中に入って門を閉めた。
そのまま家に入っていくかと思って康平が歩き出そうとすると、紙縒が振り返って何か言いたげな表情を見せた。
「どうかした?」
迷っているように表情がかたくなっていたので、康平の方から助け船を出した。
紙縒と長年付き合ってると、こういうことが度々ある。その度に助け船を出してやると、少し表情を和らげて言いたかったことを口に出すのだ。
「康平……なんか悩んでる?」
心配そうな顔だった。
「いや、悩んでるとかそういうんじゃないと思うよ」
「何かあったら遠慮なく言ってね? 私、康平の力になりたいから。できることなら手伝いたいから」
「ありがとう。そういう時があったらお願いする」
康平がそう言うと、紙縒は少し不満そうな顔をした。
しかしすぐに『じゃね』と言って玄関の扉を開け、中に入っていった。
ガチャリと重く響く扉の閉まる低い音を聞いて、康平は再び歩き出した。
歩き出した、といっても結局十数歩の後に歩く必要は無くなるのだが。
狗坂家と衣笠家は隣接していて、それぞれの家の間には庭がある。ところが何故かはよくわからないが、この庭、狗坂家と衣笠家の敷地を分かつ柵や塀といったものがなく、まるで敷地の中央に中庭があり、それを挟んで二棟の民家が建っていると言う訳のわからない状態なのだ。
康平と紙縒が、幼なじみという意外とありそうで結構レアな関係になれたのにはそういった環境の要因も一枚噛んでいた。
「……ただいま~」
所々にサビが目立つ鉄の門扉を開けて、中に入る。
そして、玄関の扉を開けながら、ふと目を衣笠家に遣ると、ちょうど紙縒が部屋に入ったのが窓から見えた。
「お帰り、康平」
康平の母親、狗坂詩歌が廊下の奥のリビングから顔を出した。
狗坂家には父がいない。とは言っても別に死んだとか出ていったとかの重苦しい話じゃない。
あまり家に帰ってこないだけだ。
父のことを詩歌さんは放浪癖だと言って笑うが、ただ単に海外出張などでなかなか帰ってこれないというのが実の所だ。そんな話は置いといて。
「うん、ただいま。詩歌さん」
康平は適当に手を振った。詩歌さんは年の割に若々しく見える。
20代前半に悪魔と契約でも交わしたのかと町でも噂されている、らしい。そのためか、母親であることを示されて年齢を思い出してしまうのが嫌いで、家の中では詩歌さんと呼ぶことになっている。
あいにく子供の頃からそうだったからあまり違和感を感じないが。
「康平、病院行かなかったでしょ?」
靴を脱いだ時そう言われてギクッとし、危うくバランスを崩すところだった。
「行かなきゃダメでしょ~」
たしなめつつも、『たまにはいいか』的な気分だったのか。そのままリビングのドアを閉めてしまった。
康平は玄関の正面にある階段を上った。
康平の部屋は2階の一番手前、つまり玄関側の部屋だ。
ちなみに、庭向きの窓から紙縒の部屋の中が見えるが、今さらながらあまり気にしたことはない。美少女、紙縒の生着替えが見れるなんてことはないから浅はかな浅ましい期待はするなよ。
部屋に入ると、床に鞄を放り投げて、私服に着替えるとベッドに身を投げ出した。
「ふわぁ……ねむ」
久々に長々と歩いたせいか足に程よい疲労感が残り、康平の意識は確実かつ急速に眠りの世界に誘われていった。
「康平、お客さん」
起こされた時に最初に聞いたのは、詩歌さんのそんな言葉だった。
ベッドから身体を起こして時計を見ると、時計の針は8時を回っていた。帰ってきたのが6時頃だから2時間ほど寝ていた計算になる。
「ご飯は?」
「私は先に食べました。そんなことよりお客さんだよ」
「今、僕の栄養接種の大事な機会をそんなことって言ったよね……? まあいいか。詩歌さん、お客さんって誰? 紙縒?」
「ううん、もっと小さい女の子。待たせてるから、早く行きなさい」
「はいはい」
詩歌さんは先に部屋を出ていった。階段をおりるトントンと木を叩く音が聞こえてくる。
康平は伸びをするように立ち上がると、部屋を出た。
「お客さん……ね。誰だろ?」
階段を半分おりたところであることに気がついた。
"今晩迎えを遣りますので何処にも行かず、家で待っていてくださいね~?"
「あ……」
あの電話の向こうの小さな女の子の声。
その声と不釣り合いな言葉。
「……まさか、ね」
ありえないと思っていても、自分の部屋に引き返して携帯電話をポケットに無造作に突っ込んでしまうのは何故だろう。
万が一のことを考えたのか、それともただの気まぐれか。
「確か充電はできてるはず……」
自分でも何故こんなことを口走っているのかわからなかった。
そして康平は玄関に立った。
「……何でも来い」
靴を履いて靴紐をしっかり結び、扉の取っ手に手をかける。
そして、開いた。
扉の隙間から生暖かい残暑の夜風が入ってくる。ぬるい空気が康平の首筋を吹き抜けて、ただでさえ緊張で強ばっていた康平の身体を震わせた。
「狗坂康平くんですよね~?」
突然前からかけられた声は電話の向こうの声と同じ話し方だった。
その声に身体が勝手にビクッと震え出す。何でもない、ただの女の子の声なのに。
「いてよかったです~」
その声の主は門扉の上に立っていた。
まず目に入ったのは、黄色と紫のツートンカラーだった。
表が紫、裏地が黄色の物語に出てくるような魔女のかぶるような帽子。それとその下から覗く可愛らしい女の子の顔。
同じく表が紫、裏地が黄色のマントローブ。そのローブの表には、黄色いぐるぐるの渦巻き模様が所々に飾られている。
ローブの下には黄色と紫の横縞模様のタンクトップを着て、下には紫一色のショートパンツをはいていた。
「君……誰?」
少女の手から目を逸らしつつ、少し声を低くして言った。
なぜ逃げなかったのか、と言われると足が動かなかったとしか言い返せない。
「私に関しては誰より何が正しいですが~。申し遅れました~。私は特別遺失物取扱審査官チェリー=ブライトバーク=鈴音と申します~。転生のほうじゃなくて、鈴の音の方ですのであしからず~。私はご存じの通り、貴方を迎えに来たのですよ~」
コロコロと鈴が鳴るような声でチェリーと名乗った少女は言った。
「特別……何?」
「特別遺失物取扱審査官です~。さあ一緒に来て貰いましょうか~。狗坂康平、いいえ。『狂悦死獄』」
とりあえず何を言っているのかがわからなかった。チェリーは戸惑う康平の姿を見て、クスクスと笑った。
「どうせわからないでしょうが、別に結構ですよ~。ここでは貴方は一般人と何も変わらないですから~」
チェリーは門扉から音もなく飛び降り、すたすたと康平に歩み寄った。右手に持つそれを隠そうともしないで、左手で康平の手を握った。
「え、ちょっ……」
子供とは思えない力だった。振りほどこうと、力を入れて腕を振ってもびくともしない。
その瞬間、首筋に冷たいそれが当てられた。
少女が最初からずっと右手に持っていた巨大な銀色の鎌。その鋭い光沢を放つ刃が首の皮膚に食い込み、一筋の生温かい液体が首を伝っていくのを感じた。
「大人しくしないようなら破壊も許されるのが特別遺失物取扱審査官なんですよ~。ぐちゃぐちゃ騒ぐようなら、グチャグチャにしますがよいですか~?」
「っ……」
康平が腕から力を抜くと、チェリーはニコリと笑って凶器をどけた。
生きた心地がしなかった。今もしてはいないのだけれど。
「それじゃあ見つからない内に早めに逃げますので~。あ……」
先に立っていたチェリーが、振り向いたと思ったら口に手を当てた。悪戯を咎められた子供のような表情になり、そのままゆっくりと後ずさる。
「鈴音」
静まりかえる住宅街に、凛とした聞き覚えのある声が静かに響いた。
康平が振り向くと、そこにはお気に入りの薄い黄色のキャミソールを着て、右手を上に挙げた格好の紙縒が立っていた。
「アハハ、バレてしまった~。なかなか勘が鋭いね~、衣笠紙縒特別遺失物取扱審査特例管理官サマ~」
「どういうことですの? 貴女の管轄はこの地区ではないのではなくて?」
紙縒の様子もおかしい、悠長にそんなことを考えていた自分が恥ずかしくなった。
紙縒の挙げられた手の先に掲げられた物の全容に絶句した。
「答え次第では貴女を破壊することもいといませんよ?」
「紙縒……?」
「すみません。康平くんは黙っていて下さい。今は鈴音と話しておりますので」
紙縒の手に握られ、細い腕で支えられた物。
細い持ち手が2メートル近く伸び、その先端に先を尖らせた巨大で無骨な金属塊が配されている。
敵の肉体を叩き潰すことだけを目的として作られた武器、メイスだった。
月明かりを受けて黒々と光るそれは、か弱い紙縒の印象と不釣り合いで、不格好だ。
「こんな危険なルーラーは早めに壊すべきなんですよ~。何故それがわからないのです~? とはいえ私は破壊の権化ではなく、あくまでも徴悪の化身ですので~。わざわざまだ何もしていないルールを壊すつもりはないのですよ~。だからせめて私たちの監視及び管理下に置いてですね~」
チェリーがそう言った瞬間、紙縒はチェリーを睨み付けた。
視線だけで人を殺せるかというような凶々しい殺気を孕んでいて、そこにこめられた悪意を感じ取っただろうチェリーは身をすくめて、もう1歩後ずさった。
紙縒はチェリーの後退に合わせるように1歩前に出る。
「薬漬けにして意識を殺し、生かしつつ保菅するのは監視及び管理と言いませんのよ? この行動に出た理由がその程度なら私は貴女に懲罰を与えなければなりませんの。貴女にその覚悟がおありかしら?」
「ぷっ」
紙縒の言葉に、チェリーは思わずといった表情で吹き出した。
「あははははははっ!!」
後に続く高笑い。
家々の中にも確実に聞こえるようなかん高い声だったにも拘わらず、動きを見せる家はなかった。
「何か気に障ることでもありまして?」
紙縒はさらに棘を含んだ言葉を投げかけた。明らかにチェリーに対して不機嫌になっている。
「いえいえ~。特例管理官ともあろう方が随分とこんな物に現を抜かしておられるもので~。ちょっと笑いが堪えられなくなったんですよ~」
グシャッ。
嫌な音がした。
紙縒の振り下ろしたメイスが道路にめり込み、アスファルトにひびを作っていた。
紙縒はゆっくりとメイスを持ち上げ、再び頭の上に掲げた。
陥没するアスファルトの上に残った物。
赤い液体が裂けた肉の間から吹き出し、元の形から滅茶苦茶に変形し、所々の表面が裂けて赤い肉片や白い骨が覗いている。
腕。
小さな女の子の腕だった。
その腕は肩口のところで引きちぎられ、ボロ雑巾のように道路に転がっていた。
「特別遺失物取扱審査法を適用します。特例管理官、衣笠紙縒の名において、登録27番『戦々狂々』チェリー=ブライトバーク=鈴音を危険因子と見なし破壊します」
「私の腕……」
チェリーは路上でグチャグチャに潰れている腕を見て、さらに自分の左肩に視線を移した。肩の部分から大きくもぎ取られ、ボタボタと血が流れ落ちている。
グシャッ。
ドサッ。
再び振るわれた紙縒のメイスがチェリーの右足をもぎ取り、バランスを崩したチェリーはもんどりうって路上に倒れた。
「失言を謝罪しなさい、鈴音」
「可愛いですねぇ~。このぐらいで私を止められると思わないで下さいよ~」
グジュジュ、ズルッ。
腕が、脚が、生えた。
いや、失われたそれらではなかった。
「さながら化け物のようですわね」
肩から生えたのは、無機質なロボットアーム。
その先端に取り付けられていたのはPTRS1941、現行最強の対戦車ライフルだが、康平がそんなことを知る由もない。
遠距離からの狙撃でも戦車の装甲を易々と貫き、人に対してはかするだけで肉が消し飛ぶ。
そんな馬鹿げた性能を叩き出すほどの銃を、軽々と振り回してみせる。
そして、千切れた太ももの辺りから飛び出したのは、アスファルトの上でギリギリと音をたてるキャタピラだった。
迷彩色の装甲には傷ひとつなく、金属音がガチャガチャとその重厚さを物語っている。
どちらも人の身体から生え得るものではなく、どちらも兵器もしくはその一部だ。
チャキッ。
チェリーは右手に持った鎌の先端刃を紙縒に突きつける。
「私の中にある18000の断罪報復兵器、それらすべてが相手です~。殺し合いましょう~、ただどちらかの死を求めて~」
言い終わると共に、チェリーは何の躊躇いもなく右手の鎌を上段から紙縒に振り下ろした。
紙縒のメイスがその鎌の刃を受けて、不快な金属音を奏でる。
「何てね~ですよ~」
チェリーは突然、笑った。
そして、何処からともなくその小さな手に握りこんだ球状の小物体。
「私はこっちで昇進しますので~。あなた方はあっちで好き勝手やってください~。衣笠~。私はあなたが嫌いなの~」
チェリーが何処からともなく握りこんだのは、銀色に輝く小物体。
知る者が見ればその形は手榴弾のようだと形容するだろうが、それを見た紙縒はどう見ても他の物を頭に描いていた。
「鈴音、貴女それを何処で!」
「この程度の技術、機界出身の私には造作もない作業ですが~。それに忘れてもらっては困ります~。不本意ながら私の父親は~稀代の変態、あ、間違えた。『狂喜の科学者』ですので~」
チェリーの頭を叩き潰した瞬間、チェリーの手にあった小物体は紙縒と康平の目の前で破裂し、複雑な幾何学模様を描いた。
そして、まばゆい閃光が2人を包んだ。
「あっちでくたばれ、死に損ない!」
口を失ったはずのチェリーの叫びが紙縒と康平の耳に届いた。
チェリー=ブライトバーク=鈴音……英語の『桜』と『輝き』に響きでバーク、そして鈴の音で『りんね』です。