(11)饗宴‐Die Nacht des Alptraumes Ⅲ‐
周りの森が後ろに流れていく。
ルーナに乗っていると、まるで風になったような気分になる。こんな事態じゃなければ、十分楽しんでいたんじゃないかとも思う。シャルルが一緒じゃないと怖いが。
ていうかこのスピードで走ってるともろに皮膚が冷たくなって痛いんだけど!?
今までシャルルと乗った時はこんなことなかったのに……シャルルが力場でも張ってくれていたのだろうか。
――ん? 今の……。
「止まって、ルーナ!」
ガガガ、ガグン。
「っ痛ェッ!」
さすがベルンヴァーユは止まるのも早いね。バランスを崩して落ちちゃったよ。
「つつつ……」
軋んで痛む腰をかばいつつ、なんとか立ち上がると、さっき視界の端に飛び込んできたものを確認しに来た道を戻る。
そしてさっき見えた通りのものが、俺の目の前に広がっていた。
「うっ……げぇっ」
思わず吐きそうになり、近くの木に手をつき体重を預ける。
そして吐き気をこらえながら、全ての事情を知ったような気がした。
そこにあるのは、まさに惨劇。
この世の地獄にも成りうるような、凄惨な光景だった。
周囲の木々はくまなく赤く染め上げられ、わずかに残った食い残しが、それが人だったことを示している。ここで、この場所で、何人もの人が獣に食い荒らされたのだ。そして、そこには猟銃やら斧やらが投げ捨てられたように落ちている。
よく目を凝らすと、一番近いところに落ちているごつい猟銃、木がはめ込まれた肩当ての部分に人の名前が彫られていた。
すなわち――ガスク、と。
そして、ガスクさんはルーナに興味を持っているようだった。
これは推測だが、ガスクさんはベルンヴァーユであるルーナを盗もうとしたのではないだろうか。ベルンヴァーユは一度主と決めたものに従う習性があり、賢いためそれ以外の人を乗せようとしない。そのことを知らない人が意外と多いのだ。ガスクさんもそういう無知ゆえに行動を起こしたのだろう。おそらくシャルルを、元来親が子供を守るために用いる監視用の使い魔で尾けさせて黒き森に住んでいることを知り、酒場で人を集めてここまでやってきたのだ。そして、運悪く数多の動物たちに食い殺された。たぶんこの地獄から運良く生還した者がいて、そいつがこのことをエルクレス軍に報せたのだ。
これなら全て筋が通る。
王立騎士団が出てきたのも、討伐令がこの森の危険と見なされた生物ほとんどが対象にされたからではないのか。
あるいは、これを機に未開だった黒き森の内情を把握し、国土として管理できるだけの情報を調査するつもりなのかもしれない。
正直、そんなことはどうでもいい。
動物たちの肩を持つわけではないが、推測通りの出来事があったなら、ガスクさんたちのことは自業自得。
そうでなくとも、不用意に黒き森に入ったのだ。こうなったっておかしくない。そもそもそういう意味で恐れられ遠ざけられていた森なのだから、弱肉強食の摂理上仕方のないことだと言える。それは討伐令も同じことだ。
しかしシャルルが危ない。これは俺にとって堪えがたい事実だった。
「行くぞ、ルーナ」
血まみれの猟銃。
持っていけば何かの役に立つかとは思ったが、あからさまな武器を持っていくとトラブルを引き起こす気がする。それにいざとなれば俺にはちゃんと武器があるしな。
惨劇から目を背けつつ、俺はルーナの角に手をかけて、素早く上がる。
ルーナはブルッと身体を震わせて、俺の座る位置をわずかにずらして安定させると、再び地を蹴って走り出した。
走り出してから数分後、ルーナが足を止めたのはハクアクロアの裾にあった小さな高台の崖の上だった。
崖下には草の生えていない、まるで池が干上がったような小さな窪地があり、その外側には周りを取り囲むようにまた木々が、黒き森がずっと向こうまで広がっている。ただ、その雄壮な景色への感動も次の瞬間には俺の意識から吹っ飛んでしまった。
何だよ、コレは……。
眼下の光景が信じられない。何なんだ、なんでこんなことになってるんだよ。
「何だよ……これ……」
その窪地のちょうど中央、そこにシャルルは立っていた。いや、それはシャルルではない。シャルルだなんて信じられなかった。シャルルだなんて……信じたくなかった。思いたかったんだ……その時のそれはあくまでもシャルルのようなもの、だったのだと。
「ヤツザキニ! ヤツザキニ! ヤツザキニィ! ゼンブコロセ! ミンナコロセ! ゼンブ! ゼンブ! イケ! アイツラヲゼンブクイコロセ!」
シャルルの皮を被った何かは吐き出すようにどす黒い言葉で叫び散らす。シャルルにいつも寄り添うようにいたはずの森の動物たちですら、距離を置くほど邪悪な存在感。息ができなくなったように錯覚するほどの凶々しさ。
その場は、肌を突き刺すような凶悪な殺意に支配されていた。その殺気に心を食い潰された動物たちは、叫び声に翻弄されるように倒れ伏す人間たちの鎧をやすやすと踏み砕き、生きたまま食い荒らしている。
悪意の狂宴。殺意の奔流。
こんな時にばかり無駄に頭が回り、まるで観察者のごとく目の前の光景を言葉で表現しようとしてしまっている自分がいた。
身体が動かない。
シャルルもどきから際限なく振り撒かれる殺意に身がすくみ、まるで金縛りにでも遭っているようだった。
ガクガクと、足が震え。
カチカチと、歯がぶつかり合う。
わずかに生き残っているらしい数人の騎士たちは窪地の端、俺のいる崖の真下に追い詰められたまま、倒れ伏す仲間が惨たらしく食われる様を黙って見ていた。いや、彼らも動けないのだ。
信じられないほど酷い光景に俺と同じように身がすくみ、恐怖で身体が自由に動かない。
「シャルル、なんで……シャルル……」
シャルルが怖いんじゃない、目の前で人が死んでいくからだと必死で自分に言い聞かせる。そうしないとすぐにでも叫び声をあげて、全速力で逃げてしまいそうだったのだ。
しかし、見てしまった。
動物たちに群がられ、生きたまま肉を引きちぎられながらも必死に仲間の方へ手を伸ばす人の姿を。
その凄惨な光景を路傍の石でも見ているような虚空に満ちた目を、死に物狂いな断末魔の悲鳴を虫の声のように聞き流しているシャルルを、見てしまったのだ。
「ダメだシャルル……」
動物たちは絶命した肉塊から離れ、残っている数人の騎士たちの周りに集まり始める。騎士たちは剣を抜いてはいるものの、その手の中で柄と鎧がカチャカチャと音を立てる。恐怖で震えが止まらないのだ。
グォオオオオオオオォォォォッ!!
アルペガが大気を震わせて吼えた。
その瞬間、1人の騎乗士が隊を離れ、動物たちの包囲網の隙をついて窪地の外に向かって走り出した。たった1人で。
「来るなっ、来るなぁっ!」
まだ若い女の声だった。
震える声で泣き叫びながら、この地獄から逃がれようとしている。仲間の騎士たちが呼び掛ける声も聞こえていなかった。
その瞬間――何が起こったのか理解できないほどの刹那を経て気がつくと、
グシャッ。
あまりにもあっけない音と共に、女騎士の乗っていた騎獣の頭が宙を舞っていた。
ベチャッ。
と生々しい音がして、騎獣の頭が地面に落ち完全に動きを失った。
そこでようやく、俺は結果から類推しうる事実のみを理解した。
窪地の中央にいたシャルルが女騎士の行く手を遮るような位置まで一瞬の内に移動して、一度の挙動で騎獣の頭を抉り取ったのだ。
当然、平常時のシャルルには出来ないような異常で残酷な所業だった。
頭部を失い、力なく崩折れるように倒れた騎獣。不幸にも、同時に地に投げ出された女騎士の右足はその胴体の下敷きになっていた。
「ぎゃああああああああっ!」
つんざく悲鳴。
しかし、それは逃げようとした女騎士の悲鳴ではなかった。シャルルが女騎士の足止めに向かったのとほぼ同時に、追い詰められたまま残っていた騎士たちを周りを囲っていた猛獣たちが襲ったのだ。
肉が引きちぎられる音が、ピチャピチャと何かが滴るような音が、無慈悲にもこの辺り全体に響きわたる。
「あ……うぁっ……」
呆然としていた女騎士は、今生き残っているのは自分だけだと悟り我に帰ったのか、必死に足を引っ張り始めた。しかし、身体の芯まで恐怖を刻み付けられ、震えが止まらないような状態でまともな力が入るわけもなく、その足が抜けることはない。
ザッ。
「ひっ……!」
シャルルが女騎士に向かって一歩踏み出す。その表情におよそ感情はなく、繊細な顔立ちも相まって、精巧な人形を見ているような気分だった。
「オマエタチハ、『シャルル』ノタイセツナ『カゾク』ヲコロシタ」
ザッ。
「く、来るなっ!」
「『シャルル』ノタッタヒトツノネガイ、フミニジッタ」
ザッ。
シャルルは女騎士の目の前に立ち、見下すように静かに見下ろすと、
「ヤツザキ……シヲモッテ『シャルル』ノオモイヲコロシタムクイヲウケロ……」
シャルルの手がピクンと震え、スッと持ち上がる。手を槍のように静かに構えたその延長線には、女騎士の心臓が捉えられている。殺す気だ、そう思った時だった。
「やめろ! シャルル!」
その声の直後は、まるで時間の流れが止まったような感覚だった。
動物たちは急に静まり返り、シャルルの腕は女騎士の胸部アーマーに触れることなく、直前で止まっていた。この制止の声がなかったら、間違いなくシャルルの腕は女騎士の胸を貫いていただろう。
その場に響いていた全ての音は消え、動くものは1つとしてなかった。
そこで初めて、俺は今叫んだのが自分だと気がついた。思わず、なんて感覚はない。いつのまにか俺は叫んでいた、らしい。
時の流れが回復したように、女騎士の身体がぐらりと傾き、乾いた金属音を響かせて地面に倒れ込む。シャルルはその音にピクッと身体を震わせ、脱力するように腕をだらりと下げる。
そしてシャルルからして声のした方向、すなわち俺に視線を向けてきた。
「ドウシテトメル……」
シャルルの声には、今にも立てなくなりそうなほどの殺気が込められていた。
「止めるに決まってるだろ、シャルル! なんで殺した!? なんでこんなにもたくさんの人を殺したんだよ!」
どうして殺したか?
いやいや、それじゃねえだろ。
そんなことが言いたいんじゃねえだろ、アルヴァレイ=クリスティアース。
「何やってるんだよ! どうしてこんな酷いことができるんだよ!」
違うだろ、俺! そんなことを言いたいんじゃないだろ! ここで言ったこと、あながち間違いではないと思う。でも違うだろ。言うべきことはそれじゃねえんだよ。
「なんでこうなる前に俺に言ってくれなかったんだよ!」
その時、シャルルの目から涙が一滴、零れ落ちた。遠目だったが、ちょうど日の出が始まって射し込んできた光にキラリと光ったそれは俺の目にはっきりと見えた。
瞬間、張り詰めていた緊張感と、この場を支配していた殺気がぷつんと風船が割れるようにはっきりと消え失せた。
「アルヴァレイ……さん? ルーナ……え? 私……私は……」
シャルルはハッとしたように周りに目を遣った。そして、自分の両腕を、血に塗れた両手を見た。
「あ、ああ……私、私ッ……なんで! どうしてアルヴァレイさんがここにッ……い、いやああああああぁぁぁ!」
シャルルは血に塗れた両手で頭を押さえ、金切り声をあげながらその場にへたり込む。そして、突然腕を地面に振り下ろした。
ボゴッ。
陥没する。
「なんでッ! なんでッ! なんでッ! なん……で……」
シャルルの叫び声は、急にか細くなり途切れた。それと同時にシャルルはふらっとよろけるように地面に倒れ込んだ。
パニックで気を失ったのだ。
「シャルル!」
思わずその崖の上から飛び下りようとした。て言うかほぼ確実に自殺行為並みにダイブしちまったんだけど!?
と思ったその瞬間、襟首を何かにグイッと強く引っ張られた。
「うわっ」
俺の身体が宙を舞う。ぐるんっと空中で大回転するような軌道を描いて振り回され、柔らかな衝撃と共に気がつくといつのまにかルーナの背中に乗っていた。
だんっ。
ルーナが地面を蹴って、跳躍する。
俺はその勢いで滑り落ちそうになり、慌ててルーナの角を掴み、半ば保険つきの自由落下気味に滞空し、コンマ数秒前に着地したルーナの背にポスンと着背する。
「シャルル!」
ルーナから飛び降りると、シャルルの元に駆け寄り、抱き起こす。助け起こした顔は青ざめていて身体も冷え切っていたが、気を失っているだけのようだった。
シャルルをその場にそっと寝かせると、おそらく騎士団唯一の生き残りであるもう1人、倒れている女騎士も助け起こす。
兜を外すと赤毛の凛々しい女性の顔が現れた。こちらも顔色はかなり悪いが、気を失っているだけのようだ。
シャルルと同じようにその場に横たえると、改めて周りを見回した。
あれだけいた動物たちはルーナ以外皆いなくなっていた。残ったルーナもシャルルの周りをうろうろ歩き回っているだけだ。困惑しているのか心配しているのかはよくわからないが。
「何が起こってんだよ……」
生きている2人を静かに見下ろしながら、この後どうするかを本気で考え、俺は静かにため息をついた。
赤毛の騎士の女性は気を失っているのをいいことにテオドールまで運び、医療院の前に寝かせてきた。要するに放置してきた。心苦しくはあったが、後数分もすれば医療院も開く時間だ。朝とは言え今日は多少暖かいから、風邪の心配は特にないだろうし。
シャルルだけならともかく、1人の子供に過ぎない俺にはあの人の面倒まで見きれない。友達だけで精一杯なのだ。
シャルルの家は壊れてしまっていたので、とりあえずシャルルは自分の部屋まで連れてきた。
起こしてしまわないように気をつけながら、両手の血をお湯で綺麗に洗い、顔に飛び散った血痕も拭いとってやると、心なしか穏やかな表情になったのでベッドに寝かせ――やっと一息つけた。
「はぁ……」
どっと疲れた。今の今まで頭の中は自分が何をやっているのかもわからないぐらい混乱していたのだが、やっと頭の中を整理するだけの時間が作れそうだ。
足は筋肉痛でずきずき痛み、肉体の疲労は既にピークに達している。鍛練や店の手伝いですらこんなに疲れることはほとんどなかった。今の状態では歩くことすらままならないだろう。
ただ、それ以上に疲弊しきっているのは、混乱の最中にも正確な判断をするために必死ですり減らした精神力の方だ。
「考えるのは……後だな……」
少し――休みたい。
ベッドにもたれ掛かるようにして、座り込む。まさか同じベッドに入って寝るわけにもいくまい。
そうしている内気づかない内に、いつの間にか眠ってしまった。