関与
「う。失敗した。」
翌日は穏やかな朝だった。12月にしては温かい朝。
薄手とはいえトレンチコートを着て来てしまったあたしは、出勤の地下鉄の中で早速後悔した。
何で電車の中ってこんなに暑いんだろう。混んでるから仕方無いのかもしれないけど。
それに、隣のおじさんがやたらと咳き込むのも嫌だ。
お願いだからマスクして。後、鼻をすするのも止めて。
ゲホゲホするならせめて手を当ててくれー。
あ。でもその手で手すり掴まれるのも嫌だな。
う~右半身が何かの菌に冒されそうだ・・・。
事務所のある駅の二つ前の駅でやっと人が三分の一ほど降りた。
あたしはそそくさとゲホゲホおじさんの隣を離れ、扉脇まで逃げ込んだ。
と。頭上から。
「おはよ。」
見上げると濱本がシルバーフレームの眼鏡で笑いかけた。
お。ビジネス仕様だな。
「朝からご愁傷様。お風邪など召されませんように。」
「・・・見てたの?」
「見てたよ。澪ちゃ・・・澤木さんがすっげー嫌そうに逃げ出してきたのも全部。」
すっげー嫌そうにって・・・・。
そんなにあたし顔に出てたのかしら。
「そっちは空気が良さそうでいいね。」
周りの人から頭一個分飛び出した濱本の周りには菌は飛んでこなさそうで羨ましい。
「そっちって・・・。」
濱本はさらにおかしそうにククッと笑った。
あたしたちは扉に向かって並んでいた。もうすぐ降りる駅だ。
「今日はいい天気だなぁ。こんな天気の日に仕事するなんてやだなぁ。」
のんびりと濱本が言った。
「何言ってんの。昨日も仕事して無いくせに。あのあと兼田部長に連絡したの?」
「したよ。電話じゃ何だから今日事務所で話そうってさ。ちゃんと携帯も機種変してきたしね。」
「そか。今日はお説教食らうってわけね?」
「お説教って言うなよ・・・。余計に行きたくなくなる。」
地下鉄がだんだんと速度を落とす。駅が近づいてきた。
行きたくなくても地下鉄は運んできちゃうよね。
「このまま遊びに行っちゃおうか?」
悪戯っぽい目をして濱本が言った。
それは大変魅力的なお誘いなんですけどね。
「何して遊ぶ?」
あたしは濱本を見上げてにっこりと笑った。
「遊園地なんかどう?」
「いいねぇ。スーツ姿の大人が二人平日に遊園地。素敵なシュチュエーションね?」
「でしょ?」
扉が開いた。あたしはさっさと降りながら。
「馬鹿いってないで事務所いくわよ。」
大人にはしがらみって物があるのだ。
「澪ちゃ・・・澤木さぁん。」
「おはよーございまーす。」
「おはよう。」
連れ立って事務所に入ったあたしと濱本を見て、兼田部長が「お?」という感じで眉を上げたような気がするけど。
見ない振り見ない振り。
別に一緒に出社したわけじゃないもんねー。
「濱本君朝礼の後時間空けてくれ。」
「わかりました。」
・・・お説教タイムだね。頑張れ濱本。
ランチタイム後。
お客様の所へ向かっていたあたしの携帯が短く震えた。
『部長のお話終了。状況は最悪。』
濱本からのメールだった。
『お疲れ様です。最悪って何?』
歩きながらあたしは短く返す。
するとすぐに返ってくるメール。返信じゃなくて濱本が続けて送ってきたらしい。
『澪ちゃん今日の夜空いてる?』
彼氏とデートだから無理、なんていってみたいとこだけど。
また、「聞いてくれよ~」かな。聞いて気が晴れるならいいかな。
『いいよ。デフェール?』
『7時にデフェールで待ってる』
『了解』
最悪な状況に興味があったのが半分。心配だったのが半分。
まさかその「最悪な状況」とやらにあたしも関わってしまうなんてこのときは思いもしなかった。