錯乱
「・・・あう。行きたくない・・・。」
朝6時。
結局殆ど眠れなかった。
何とかベッドから這い出してきたものの。
着替える気にもなれずに煙草を咥えて、ゆらゆら昇る煙を見つめる。
今日はどうしてまだ金曜日なんだろう。
昨日が木曜日だから仕方ない事とはいえ。
何でまだ金曜日なんだよ~。土曜日じゃないんだよ~。
ああ。会社に行きたくない・・・。
大体どんな顔して行ったら良いのかわからない。
どんな顔して・・・あいつに会えば良いのか。
「いい大人がキスぐらいで欠勤なんかしたら馬鹿だよな・・・。」
うわ。
自分で言葉にしたら思い出しちゃった。
あれ・・・ほんとにあった事なんだよね?
自分でも現実逃避入ってると思うんだけど。あまりにもリアリティがなくて。
でも。あいつの腕とか、髪を撫でる手とか。
いろんな感触をあたしの背中が、髪が、そして唇が覚えていて。
あれが本当だったと告げている。
ただ呆然と濱本のキスを受け止めて。
どれくらい経ってたんだろう。
「pipipipi・・・」
部屋のインターフォンが鳴った。
その音に濱本の唇がそっと離れた。
「・・・なんで?・・・」
あたしの呟きに濱本が微笑んだ。
「したくなっちゃったから。」
し、したくなったって。したくなったってっ!
「ちょっと待って。」
濱本はあたしから離れるとインターフォンを取った。
「・・・あ。はい。解りました。・・・10分前だって。延長する?」
あたしはぶんぶんと首を横に振った。
だってこれ以上ここにいてどうして良いかわからない。
「・・・あのさ。」
インターフォンを切った濱本が、そのまま向かい側に座って煙草に火をつけて、何か言おうとした。
「・・・帰る。」
これ以上何か言われても、あたしの脳はそれを理解する域を超えてしまってる。
何せすきっ腹にジンライム3杯。さらにとんでもない誤解。
人前で子供みたいに泣いて。
その上「したかったからしちゃった」って奴とキスまでしちゃって。
もうお腹いっぱいです。処理能力オーバー。
「え?」
「あたし帰るね。」
「ちょっと待ってよ。」
コートと鞄を持って濱本の隣のドアへ向かったあたしの腕を、濱本は掴んだ。
・・・そして。
「・・・ごめん。」
その言葉に胸がうずいた。謝れば済む様な簡単な勢いだったの?
「謝る様な事あたしはされたの?」
「いや、そうじゃなくて。」
ばしっ。手を振りほどくと答えは聞かずに部屋を出た。
「・・・あ。カラオケ代払ってないや。」
問題は確実にそっちじゃないのに、あえて自分の意識をそっちへ持っていこうとしてる、あたし。
7時半。
もう準備をしないと始業時間に間に合わない。
例えば今日あたしが休むとするでしょ?
とりあえず「休みますバージョン」のシュミレーションを始めてみる。
休みますと電話をする・・・誰に?
会社の決まりでは「直属上司に始業前に電話にて連絡」って事は川原課長か兼田部長。
昨日の今日で休むあたし。
嫌だ。今日一日どんな憶測が流れるかわかったもんじゃない。
嫌だ。それだけは嫌だ。
よし。行こう。
何もあたしは聞かなかったし、何もなかったんだ。
こういう時営業職で良かったって思うわ。とっとと外回りに行っちゃえばいい。
何も考えずに。誰の顔も見ずに。
ごめんで済むような事にあたしがうだうだ悩む必要はないのだ。
やっと重い腰を上げて、顔を洗い歯を磨いて。
戻るついでに、昨日玄関に放置したコートと鞄を部屋へ持ってきた。
と。コートのポケットに入れっぱなしにしていた携帯の存在を思い出す。
・・・充電しとかなきゃ多分今日充電持たないな。
営業職には携帯は命ですから。とりあえず充電充電。
「うわ。なんだこれ。」
思わず独り言言っちゃった。
サブディスプレイには「新規着信あり 伝言メモあり 新規受信メールあり」の文字。
・・・まあフルラインナップね。
あけてみるとメインディスプレイにたくさんのアイコン。
着信4件・伝言メモ3件・メール4件。
・・・濱本だ。
着信履歴には、上から4つ「濱本史人」と並んでいた。
きっと伝言メモも、メールも濱本だろうなって思う。
でも今見てる暇はない。時間がヤバイし・・・・。
きっとメッセージ聞いたり、メール見たら。
それにもっと掻き回されてしまったら。
きっとあたしは今日会社に行けなくなるから。
きっともっと心は掻き回されてしまうから。
だから。
今手の中で震えている青いランプも見なかったことにした・・・・。