続 婚約破棄と同時に護衛の任も解かれたので、心置きなく剣を振るうことにしました
「続きが読みたいです」という感想をいただきまして、すっかりやる気を出してしまいました。
婚約も護衛の任も解かれた元公爵令嬢イザベラ。晴れて自由の身となった彼女が最初に受けたのは、
一台の荷馬車を守り抜くという、地味で、けれど命の懸かった依頼でした。
本編とは切り離した読み切りの番外編です。よろしければお付き合いください。
王都の外れにある古びた詰所の壁に、一枚の依頼書が貼り出されていた。
『北街道を行く隊商の護衛、一名求む。報酬は銀貨十枚。ただし――生きて帰れる者に限る』
「随分と正直な文面ですね」
イザベラ・クロウフォードは、その一文を指でなぞりながら小さく笑った。腰には、儀礼用ではない実戦の剣が下がっている。刃の重みが腰骨に馴染む感覚は、封じられていた数年の間、ずっと恋しかったものだ。
「北街道には、この半年で八つの隊商が消えている」
隣に立つガレスが、白い顎髭を撫でながら言った。護衛隊長の職を辞し、いまは一介の剣客としてイザベラと共にいる老騎士だ。
「王宮の騎士団も一度討伐に出たが、空振りに終わった。相手は街道を知り尽くしている。……この紙が三日も剥がれずに残っているのが、その答えだ」
「それで、腕の立つ余所者を雇いたいと」
「そういうことだ。受けるか」
「もちろん」
イザベラは依頼書を剥がした。剥がした跡には、同じ形に日焼けの痕が残っていた。この一枚の前に、何枚も同じ紙が貼られ、そして誰にも取られずに朽ちていったのだろう。
彼女は迷いなく詰所の扉をくぐった。
*
依頼主は、ミレイユという名の若い商人だった。二十歳そこそこだろうか。仕立ての良い外套を着ているのに、袖口だけが妙に擦り切れている。持ち主が変わったばかりの服だ、とイザベラは思った。
「積荷は薬草です。北の鉱山町で疫病が出ていて、十日以内に届けないと、間に合わなくなります」
ミレイユは膝の上で拳を握りしめていた。声を張ろうとして、それが上手くいっていない喋り方だった。
「正直に申し上げます。護衛を募っても、誰も来てくれませんでした。あなた方が最初で――たぶん、最後です」
「なるほど。では最初で最後の護衛が、きっちり仕事をいたしましょう」
イザベラが静かに応じると、ミレイユは顔を上げ、目を丸くした。それから、慌てたように何度も頭を下げた。
「あ、ありがとうございます。ご迷惑をおかけします。本当に、その、申し訳ありません」
「まだ何も迷惑をかけられていませんが」
「……すみません」
また謝る。イザベラは指摘するのをやめた。
「ひとつ伺っても。積荷を運ぶだけなら、御者と護衛で足ります。なぜ、あなたご自身が行かれるのですか」
ミレイユの肩が、ほんのわずかに強張った。
「……鉱山町の人たちは、うちの商会の名前で荷を待っています。でも、私の顔は知りません。父の顔しか知らないんです」
父。その一語を口にしたとき、彼女の指先が外套の袖口を握った。擦り切れた、あの袖口を。
「父上は」
「半年前に、北街道で消えた隊商のひとつに乗っていました。七つ目です」
焚き付けたばかりの薪が、そこだけ湿っていたように、ミレイユの声は途中で沈んだ。
「商会は私が継ぎました。番頭は三人とも辞めました。……当然です。娘が跡を継いだ商会に、まだ北の道を使う気がある、なんて」
ガレスが低く唸った。イザベラは何も言わず、ただ相手の目を見た。
「あの、失礼ですが……お顔に見覚えが。王都の夜会でお見かけしたような」
「人違いかと」
イザベラは表情を変えずに答えた。ガレスが横で咳払いをして笑いを噛み殺している。
――ほんの数週間前まで、彼女は王太子ユリシーズの婚約者だった。夜会で賊を叩き伏せ、その場で婚約を解消され、そして自由になった。あの日の顛末は、既に王都中の噂話になっている。
もっとも、当のイザベラにとっては済んだ話だ。振り返る価値もない。今の彼女には、守るべき荷馬車が一台と、握るべき剣が一振りある。
それで十分だった――そう思っていた。少なくとも、この時までは。
*
旅は、二日目までは静かだった。
街道は緩やかに登り続け、道の両脇の木々は日に日に丈を低くしていった。北へ行くほど土は痩せ、風は乾いていく。
イザベラは荷馬車の右斜め後ろを歩いていた。三日目の朝、ガレスがそれを指摘するまで、彼女は自分がその位置にいることに気づいていなかった。
「君は、まだそこに立つのだな」
「……ああ」
イザベラは、自分の足元を見下ろした。
十二年。王太子の右斜め後ろ。剣を抜く手を邪魔されず、なおかつ護衛対象を庇える半歩。体に叩き込まれた位置だ。守るべき相手が変わっても、体は勝手に、昔と同じ場所を探していた。
「悪い癖でしょうか」
「腕の癖は直せる。立ち位置の癖は、その者の生き方だ。直すものではない」
老騎士はそう言って、それきり黙った。
*
二日目の夜、街道沿いの野営地で。
火を囲みながら、ミレイユがおずおずと切り出した。
「あの……私にも、何かできることはありますか。足手まといにはなりたくなくて」
「では、ひとつだけ」
イザベラは短剣を鞘ごと差し出した。
「襲われたら、これを抜いて構えてください。戦わなくて構いません」
「え……で、でも、私は剣なんて」
「刃を向けられた相手は、必ず一瞬迷います。素人が相手でもです。人は、自分に向いた刃を無視できるようにはできていない」
イザベラは、自分の指で短剣の鞘をとんと叩いた。
「その一瞬があれば、私が間に合います。あなたの仕事は、私に一瞬を作ることです」
「……戦わなくて、いいんですか」
「守られる側にも仕事はあります。生き延びることです」
ミレイユは短剣を胸に抱いた。しばらく黙って炎を見ていたが、やがて、独り言のように言った。
「父は、腕っぷしなんてまるでない人でした。荷馬車の車輪も直せなくて、いつも御者に笑われて」
「……」
「でも、北の道だけは、絶対に人任せにしませんでした。理由は聞いたことがありません。聞いても『商いだ』としか言わない人だったので」
薪が爆ぜた。火の粉が細かく舞い上がり、乾いた夜気に呑まれて消えた。
「私は、父のことをほとんど知らないんです。知らないまま、父の商会と、父の借金と、父の道だけを受け取りました」
ミレイユは短剣を抱えたまま、火の向こうにいるイザベラを見た。
「だから、自分で行くんです。父が消えた道を、自分の足で通ってみないと――何を受け取ったのか、私にはまだ分からないので」
イザベラは、返す言葉をすぐには見つけられなかった。
その様子を眺めながら、ガレスが低く笑った。
「昔、私が君に言った言葉だな。短剣のくだりだ」
「よく覚えていましたね」
「教える側は、忘れんよ」
ミレイユが毛布にくるまり、寝息が規則正しくなった頃。イザベラは剣を膝に置き、刃の状態を指の腹で確かめていた。
「ガレス」
「ん」
「ひとつ、聞いてもよろしいですか」
「珍しいな。君が私に物を尋ねるのは、十六の秋以来だ」
イザベラは、少しだけ笑った。それから、火を見たまま言った。
「十二年間、私の剣には、はじめから意味がついていました。殿下をお守りする。それだけで、剣を握る理由は足りていた」
刃に映った炎が、細く揺れる。
「今、私は自由です。誰の護衛でもない。剣を振るう理由を、自分で決めていい。……それが、いまだに掴めません」
「怖いか」
「怖くはありません。ただ」
イザベラは、そこで一度、言葉を切った。
「守るべき人がいなくても剣を振るいたいのなら、私はただ、斬るのが好きなだけの女ということになりませんか」
ガレスは、すぐには答えなかった。長い時間をかけて薪を一本足し、それが火に馴染むのを待ってから、口を開いた。
「私は答えを持っていない」
「……そうですか」
「だが、答えを持っている者は、たいてい嘘をついている。焦るな」
老騎士は、毛布を引き寄せながら付け加えた。
「その手のものは、教わって分かった試しがない。大抵は、誰かの前に立った後で、勝手に分かる」
*
北街道は、三日目の午後に牙を剥いた。
両側から迫る岩壁。道幅は荷馬車一台がやっと通れる程度。空を見上げれば、細長く切り取られた青が頭上を流れていく。
風が止んでいた。鳥の声もない。
「ガレス」
「ああ。……十二、いや十四だ」
老騎士の声が低くなった。イザベラは既に、鞍から降りていた。
岩陰から、影が降ってくる。
先頭の一人が、荷馬車の御者台目掛けて跳んだ。ミレイユが息を呑む音。
その瞬間には、イザベラの剣が鞘を離れていた。
抜き打ちの一閃。降下してきた男の得物を斜め下から弾き上げ、無防備になった胴に柄頭を叩き込む。空中で体勢を失った男が、地面に叩きつけられて転がった。
「――荷馬車から離れないで!」
叫びながら、イザベラは前へ出た。
二人目が横薙ぎに斬りかかってくる。半歩下がって空を切らせ、返す刃で手首を打つ。剣が宙を舞い、男が悲鳴を上げて膝をついた。
三人目、四人目は連携して来た。左右から同時に踏み込み、逃げ場を潰す型――王国騎士団の基本戦術だ。
(やはり、ただの野盗ではない)
イザベラは退かなかった。逆に、右の男へ一直線に踏み込む。二人の間合いが重なる寸前、その隙間に自ら飛び込んだのだ。右の男の胸元に肩からぶつかり、その体を左の男の斬撃の軌道へ押し込む。
「馬鹿、退けっ――」
左の男が慌てて刃を止めた瞬間、イザベラの剣が下から跳ね上がり、二人まとめて武器を弾き飛ばした。返す動作で、それぞれの鳩尾に柄が沈む。
背後ではガレスが、荷馬車の脇を固めていた。年齢を感じさせない足捌きで、三人を近づけずにいる。老騎士の剣は派手さこそないが、一歩も引かない壁だった。
だが、壁には数の限りがある。
荷馬車の反対側の岩陰から、五人目が幌をくぐった。
「ひっ――」
ミレイユの悲鳴。イザベラは振り向いた。だが、遠い。二歩、間に合わない。
そのとき。
幌の中で、白い光が跳ねた。
ミレイユが、短剣を抜いていた。両手で、震えながら、それでもまっすぐに、切っ先を男へ向けている。
男の足が、止まった。
――一瞬。
その一瞬で、イザベラは間に合った。
荷台の縁を蹴って跳び、男の背後から襟首を掴んで引き倒す。地面に落ちた男の顎に、柄頭を落とした。
「……よくやりました」
「わ、私、な、何もして」
「一瞬を作りました。契約通りです」
言い終わる前に、頭上の岩が鳴った。
「イザベラ! 頭が来るぞ!」
一際大きな影が、岩壁の上から飛び降りてくる。
着地の衝撃で、砂利が跳ねた。
両手持ちの大剣を担いだ、熊のような体躯の男だった。左頬に古い刀傷。そして――擦り切れてはいるが、王国騎士団の紋章が縫い込まれた外套。
「その太刀筋……騎士団仕込みだな、お嬢さん」
「あなたこそ。第三隊の型でしたね、今の二人は」
男は喉の奥で笑った。
「ドルガだ。かつては第三隊の隊長だった。もう十年も前の話だがな」
「イザベラ・クロウフォード。……かつては、王太子殿下の護衛でした」
「はっ。落ちぶれ者同士か」
「いいえ」
イザベラは剣を構え直した。切っ先が、真っ直ぐにドルガの喉を指す。
「私は、落ちたのではありません。降りたのです」
ドルガの目が細まった。
次の瞬間、大剣が地面を抉りながら振り上げられた。
――速い。
体格から想像される三倍の速度で、鉄塊が唸りを上げて落ちてくる。イザベラは受けなかった。受ければ剣ごと持っていかれる。
右へ跳ぶ。大剣が地面を割り、石片が頬をかすめた。
「逃げるな!」
返す刃が水平に薙いでくる。今度は伏せた。頭上を風圧が通り抜け、束ねた髪の先が数本、断たれて散った。
立ち上がりざま、イザベラは試しに一撃を入れた。ドルガの脇腹を狙った鋭い突き――だが、巨体は最小限の動きでそれを外し、剣の柄でこちらの刃を押し返してきた。
(速い上に、雑ではない。腕は落ちていない)
三撃、四撃と打ち合う。そのたびに腕が痺れ、足元の砂利が削れていく。まともに打ち合えば、削られるのはこちらだ。
「どうした、お嬢さん。夜会で賊を伸したという噂は、嘘か」
「まさか」
息を整えながら、イザベラは半歩下がった。
「今、測っていたところです」
(重い。だが、重いということは、戻すのが遅いということ――)
イザベラは低く踏み込んだ。大剣が振り抜かれた直後の、戻すまでの半呼吸。その隙間へ滑り込む。
――だが。
ドルガは、待っていた。
大剣を振り抜いた姿勢のまま、左手が柄を離れ、丸太のような腕がイザベラの胸元めがけて横から伸びた。
「そこだ!」
剣を捨てて掴みに来る。膂力で押し潰す腹だ。イザベラは咄嗟に上体を反らせたが、外套の肩口が指に引っかかった。
凄まじい力で引き寄せられる。
視界が、ぐるりと回った。
地面に叩きつけられる寸前、イザベラは無理やり体を捻り、肩から転がって衝撃を逃がした。それでも息が詰まる。二転、三転して立ち上がったとき、左の二の腕に熱い線が走っているのに気づいた。転がりざま、大剣の切っ先が浅く走ったのだ。
血が、袖を伝って手首まで流れ落ちた。
「懐に入られたら組み止める。第三隊の隊長は、そのくらいやる」
ドルガは大剣を担ぎ直し、悠々と間合いを詰めてきた。
「悪くない太刀筋だった。だが、一つ足りん。お嬢さん、あんた――誰かを守りながら戦う剣を、ずっと振ってきたな」
イザベラの動きが、わずかに止まった。
「見りゃ分かる。あんたの剣は、どの一手も『後ろに何かがある』動きだ。踏み込みが浅い。半歩、いつも荷馬車に残してる」
図星だった。
「そいつは弱点だ。……だが」
ドルガは、そこで初めて、ほんの少しだけ笑い方を変えた。
「俺には、それが無い。もう長いことな」
「後ろに、部下がいらっしゃるでしょう」
「いる。十四人。全員、名前を言える」
ドルガの声が、低く沈んだ。
「戦争が終わって、第三隊は解散になった。恩給は去年の冬に打ち切られた。俺たちは剣しか知らん。十年、傭兵で食い繋いで、それも尽きた」
「それで、街道に立ったと」
「俺は、あいつらの前に立ったつもりだった」
ドルガの大剣の切っ先が、じり、と地面を擦った。
「だが本当は、あいつらを俺の後ろに隠して、隊商の前から逃げただけだ。……気づいてるさ。とっくにな」
「――ならば」
イザベラは、血の滴る左腕をだらりと下げたまま、剣を右手一本で構え直した。切っ先が、まっすぐ上がる。
「ひとつだけ、お答えください。半年前、七つ目の隊商に、老いた商人がいませんでしたか」
ドルガの動きが、初めて完全に止まった。
「……知ってるのか」
「後ろにいます。彼の娘が」
風が、隘路の底をひとつ吹き抜けた。
ドルガは、長いあいだ黙っていた。そして、大剣を両手で握り直した。
「答えは、俺を倒してからにしろ」
「承知しました」
――今度は、ドルガから来た。
大剣が、真上から落ちる。イザベラは避けなかった。避ける代わりに、剣の腹を斜めに差し込み、鉄塊の軌道をわずかに逸らした。火花が散り、右腕の骨まで痺れが走る。それでも刃は、彼女の肩ではなく、右足の外側の地面に沈んだ。
地面に食い込んだ大剣。抜くのに、半呼吸。
だが、ドルガはそれを抜かなかった。柄から手を離し、そのまま拳を振るってきた。
(読まれている――なら、こちらも読む)
イザベラは、その拳を待っていた。
拳が来る、その直前。彼女は前ではなく、真下へ沈んだ。膝を抜き、体を折り畳んで、拳の下をくぐる。
巨体の重心が、わずかに前へ流れた。
イザベラの左足が、地面に刺さったままの大剣の鍔を踏んだ。
――踏み台。
踏み込みの高さが、一段跳ね上がる。
沈んだ姿勢から跳ね上がったイザベラの剣の腹が、ドルガの右手首を真横から打った。骨の軋む音。指の力が緩む。
すかさず身を捻り、肘でドルガの顎を跳ね上げた。巨体がわずかに仰け反る。
その一瞬で、イザベラは剣を持ち替えていた。
――峰。
「終わりです」
銀光が閃いた。
ドルガの首筋に、峰打ちが吸い込まれる。膝が折れ、遅れて巨体が、地面に突き立ったままの己の大剣の横に崩れ落ちた。
残った野盗たちが、武器を捨てて後ずさる。
「――投降を勧めます」
イザベラが静かに言うと、彼らは次々と地面に膝をついた。
*
街道の脇で、ドルガは縛られたまま空を見上げていた。イザベラが水袋を差し出すと、男は素直にそれを受け取り、喉を鳴らして飲んだ。
「懐に、革の帳面が入っている」
ドルガは顎で自分の胸元を示した。
「七つ目の隊商から獲ったものだ。銀も酒も、とっくに使い切った。それだけが残ってる」
イザベラが取り出したのは、雨を吸って波打った、古い革表紙の帳面だった。
「なぜ、これだけ捨てなかったのですか」
「売り先を探すために中を読んだ。……読まなきゃよかった」
ドルガは目を閉じた。
「鉱山町の欄が、十一年分ある。薬の項だけ、全部『代金受け取らず』だ。十一年、あの爺は北へ薬を運んで、一度も金を取っていない」
イザベラは、帳面の端を指で押さえた。
「彼は」
「殺しちゃいない」
ドルガは、目を閉じたまま言った。
「荷を全部獲って、雪の中に置いていった。それだけだ。……あの歳で、あの寒さで、王都まで六日だ。同じことだよ」
「……そうですか」
「哀れとは思わんのか」
「思いません」
イザベラは即答した。
「剣しか知らないのなら、剣で誰かの前に立てばよかった。あなたはそう言った。実際、十四人の前には立った」
彼女は、帳面を懐にしまった。
「けれど、あなたは八つの隊商の前からは退いたのです。前に立つ相手を選んだ。それは、剣しか知らないこととは関係がありません」
ドルガは長く息を吐いた。それから、掠れた声で言った。
「頼みがある」
「聞くとは限りません」
「王都へは引かず、鉱山町の駐屯所へ渡してくれ。……獲った場所で裁かれる方が、まだ筋が通る」
イザベラは少し考え、頷いた。
「もうひとつ」
ドルガは、目を開けて荷馬車を見た。幌の隙間から、青い薬草の束が覗いている。
「その荷は、通せ」
彼は、それきり何も言わなかった。
*
薬草は、期限の二日前に鉱山町へ届いた。
石造りの狭い町だった。荷馬車が広場に入った瞬間、家々の扉が次々と開き、人が集まってきた。誰も歓声を上げなかった。ただ黙って、順番を作り、荷を下ろすのを手伝い始めた。
その晩、宿の粗末な卓の上で、ミレイユは父の帳面を開いた。
油皿の光の下、彼女は最初のうち、指で文字をなぞっていた。それから、なぞるのをやめた。頁をめくる音だけが、長いあいだ続いた。
「……十一年、ですって」
ようやく出てきた声は、掠れていた。
「毎年です。毎年、冬の前に。薬の欄だけ、全部『代金受け取らず』。父は、うちの帳簿を私に見せたことが一度もありませんでした。理由が、やっと分かりました」
「見せられなかったのでしょうね」
「はい。……娘に、儲かっていない道を継がせたくなかったんだと思います」
ミレイユは頁の上に手を置いた。
「でも、継いでしまいました」
彼女は顔を上げた。目は赤かったが、涙は落ちていなかった。
「イザベラ様。あの男は、父のことを何と言いましたか。……本当のところを、そのまま教えてください」
イザベラは、一瞬だけ迷った。
柔らかい言葉はいくつも思いついた。だが、この娘は、三日かけて自分の足で父の消えた道を通ってきたのだ。
「荷を全て奪い、雪の中に置き去りにしたと。殺してはいない、と男は言いました」
そして、付け加えた。
「私は、それを殺したのと同じだと考えます」
ミレイユは、目を閉じた。長く息を吸って、長く吐いた。
それから、彼女は帳面を閉じ、両手でしっかりと胸に抱いた。
「ありがとうございます。……ごまかされていたら、私は一生、この道を歩けなくなっていました」
*
翌朝。
ミレイユは、革袋を差し出してきた。ずしりと重い。銀貨十枚では、明らかに利かない量だった。
「町の人たちが、集めてくれました。どうか、受け取ってください」
「銀貨十枚をいただきます」
イザベラは袋の口を開け、十枚だけ数えて取り、残りを押し返した。
「え……で、でも、腕を怪我までされて」
「依頼書に書いてあった額です。書いた額と払う額が違う商人は、次から誰にも信用されません」
ミレイユが、息を呑んだ。
「商会主は、あなたです。値を決めるのも、守るのも、あなたの仕事でしょう」
しばらくの沈黙のあと、ミレイユは革袋を引き戻した。そして、背筋を伸ばして、深く頭を下げた。
「……承知しました。銀貨十枚で、契約は完了です」
顔を上げた彼女は、もう謝らなかった。
それから、腰から短剣を外し、両手で差し出した。
「これを、お返しします」
「差し上げても構いませんが」
「いえ」
ミレイユは、はっきりと首を横に振った。
「借りた剣ではなく、自分で選んだものを買います。この町で。父の道を通るのは、これからは私の仕事なので」
イザベラは短剣を受け取り、腰に戻した。
三日前、膝の上で拳を握りしめ、何もしていないうちから謝っていた娘は、もういなかった。
「イザベラ様」
立ち去ろうとした背に、ミレイユの声がかかった。
「野営の夜、ガレス様と話しておられたでしょう。……眠れていなかったので、聞こえてしまいました」
イザベラは足を止めた。
「守る相手がいなくても剣を振るいたいのなら、ただ斬るのが好きなだけではないか、と」
「……お聞き苦しいことを」
「違うと思います」
ミレイユは、まっすぐに言った。
「あなたは、私に雇われたから隘路で前に出たんじゃありません。銀貨十枚では、あの人と斬り合う理由になりません」
彼女は、自分の胸に抱いた父の帳面を、少し持ち上げてみせた。
「あなたは、私の前に立つと決めたから、立ったんです。順番が逆でした。任があるから守るんじゃなくて、守ると決めるから、そこが任になるんです」
イザベラは、しばらく何も言えなかった。
やがて、口を開いた。
「……あなたのお父上は、良い商人でいらしたのでしょうね」
「はい。今日、初めてそう思えました」
*
帰り道。
鉱山町の駐屯所にドルガと十三人を引き渡し、二人は南へ向かって歩き出していた。
街道は下り坂で、風は背中から吹いている。北の岩壁が、少しずつ低くなっていく。
ガレスがふと、隣を見た。
「イザベラ。位置が変わったな」
「え」
イザベラは、自分の足元を見た。
荷馬車はもう無い。守るべき者も、後ろにはいない。
彼女は、右斜め後ろではなく、ガレスの真横を歩いていた。
「……本当ですね」
「答えは出たか」
「いいえ。まだ、言葉にはできません」
イザベラは、腰の剣にそっと手を置いた。刃の重みが、腰骨に馴染んでいる。封じられていた数年の間、ずっと恋しかった、あの重みだ。
けれど、今のそれは、三日前とは違う重さをしていた。
「ただ、ひとつだけ分かりました」
彼女は前を向いたまま言った。
「私の剣は、任を解かれても、まだ誰かの前に立てるようです。それなら、当面は困りません」
ガレスは何も言わず、ただ、白い顎髭を撫でて笑った。
誰かの婚約者でも、誰かの護衛でもない。
自分の意志で鞘を払い、自分の意志で誰かの前に立つ。
その自由の重さは、腰に下がる剣の重みと、ちょうど同じくらい心地よかった。
===== 後書き =====
番外編をお読みいただき、ありがとうございました。
第1話に「続きが読みたい」というお声をいただいたので、その後のイザベラとガレスを一本だけ書いてみた次第です。
本編は第1話で完結していますので、こちらはあくまで読み切りの外伝としてお楽しみください。
アクション寄りの筆致で、剣の重さと、それを振るう理由の話を書きたいと思って書きました。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
番外編をお読みいただき、ありがとうございました。
「続きが読みたい」というお声をいただいたので、その後のイザベラとガレスを一本だけ書いてみた次第です。
本編は第1話で完結していますので、こちらはあくまで読み切りの外伝としてお楽しみください。
アクション寄りの筆致で、剣の重さと、それを振るう理由の話を書きたいと思って書きました。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




