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踊る阿呆、観る阿呆

作者: とーふ
掲載日:2026/03/03

町の夏は、音で膨らむ。


提灯が灯ると、昼間のくすんだ商店街が別の場所になる。アスファルトのひび割れも、色あせた看板も、太鼓の音の中では意味を失う。三味線が流れ、笛が高く伸びる。


阿波踊り。


子どものころ、俺は父の隣でそれを見ていた。


「踊る阿呆に観る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損」


父はそう言って笑った。

だが踊らなかった。


足でわずかに拍子を取りながら、最後まで歩道に立っていた。


「父さんは出ないの」


俺が聞くと、父は肩をすくめた。


「見てるほうが楽だ」


楽。

その言葉の意味を、幼い俺は長いあいだ考えなかった。


やがて俺は三十になり、父と同じ場所に立つようになった。


駅前の横断歩道橋。缶ビールの冷えが掌に馴染む。

連が進む。揃いの浴衣。揃いの足運び。


俺は観る側だった。


観る側は安全だ。

間違えない。

笑われない。


会社でも同じだ。

突出しない。失敗しない。

正解の範囲の中で動く。


それは安定している。

だが、ときどき空気が薄い。


ある日、健太から電話があった

健太は、幼馴染だ。あいつは、いつも声が大きく、何かにつけて体を動かしていた。卒業後も変わらず、毎年連に入っている。


「今年、出ないか」


俺は笑って断ろうとした。


「俺は観るほうだ」


「なぁ、それ、楽しいか?」


言葉が止まった。


楽しいかどうかを、俺は考えたことがなかった。いや、考えたくなかった。


結局、俺はしぶしぶ練習に参加した。

練習に顔を出したのは、好奇心ではなく、苛立ちに近い感情からだった。自分が退屈しているかもしれないという疑い。それを否定したかった。


練習はひどかった。

足はもつれ、手は高すぎる。鏡の中の自分は滑稽だ。


評価される世界に慣れた身体は、基準のない空間に居場所を見つけられない。

うまいか下手か。

正しいか間違いか。

その尺度がないと、不安になる。


本番の日。

商店街は光と音で満ちている。歩道は人で埋まり、カメラのレンズが光る。去年まで俺が立っていた位置だ。


太鼓が鳴る。


一歩目を踏み出す前、全身が硬直する。全身が拒絶した。恥ずかしさが喉元までせり上がる。なぜここにいるのか。なぜ安全な場所を離れたのか。


視線が痛い。

視線が刺さると思った。


なぜなら俺は、あの場所で毎年見てきたからだ。

揃っていない踊り手を見て、どこかで比較していた。

あの人はうまい。あの人は下手だ。

あの動きはぎこちない。


口には出さない。だが、見ていた。

安全な位置から、測っていた。


だからこそ、今度は自分が測られる番だと思った。


足が震える。喉が乾く。心臓が速い。

もう、逃げたい...!


列が動き出す。


俺は踏み出す。


最初の数歩は、恐怖しかなかった。

視界の端に観客の顔が流れる。


刺さる。


刺さるはずだ。


だが――


痛みが来ない。


俺は恐る恐る、ひとつの顔を見る。


中年の女性が団扇を振っている。

目は柔らかい。


子どもが笑っている。

こちらを指さして笑っている。


嘲りではない。

ただ楽しそうだ。


若い男がスマートフォンを向けている。

画面越しにこちらを見ているが、そこに評価の影はない。


俺は戸惑う。


誰も、俺を見ていない。


列を見ている。

祭りを見ている。


俺はその一部でしかない。


その事実が、急に身体を軽くする。


俺はずっと、自分が中心だと思っていた。

他人の視線は自分に向けられていると思っていた。


だが実際には、そこまで注目されていない。

はっ!バカみてぇじゃねえか!自意識過剰ってやつか。


太鼓が腹に響く。

足を上げる。

手を振る。


まだ揃っていない。

それでも列は進む。


刺さらない。


視線は、思ったより柔らかい。


湯の中に入ったときのようだ。

最初は熱いと思ったが、やがて身体が慣れる。


俺は小さく息を吐く。

頭の中の声が、静かになっていく。


比較する声。

逃げ道を探す声。

失敗を恐れる声。


音がそれらを押し流す。


俺はただ動いている。


その夜、実家に寄った。


「今日、踊った」


父は少し目を丸くした。


「そうか」


しばらく沈黙が続いた。


「俺もな」


父が言った。


「若いころ、誘われたことがあった」


「出なかったのか」


「ああ」


父は缶を傾ける。


「怖かった」


それだけ言った。


「何が」


俺が聞くと、父は少し笑う。


「人前で、阿呆になることだ」


それ以上は説明しなかった。


テレビの音が部屋に流れる。

やがて父がぽつりと言う。


「毎年、少しだけ後悔した」


その声は静かだった。


俺は何も言えなかった。



数年、俺は踊った。


だがやがて、俺はまた歩道に戻る。

忙しさ、責任、疲労...。理由はいくらでもある。


今年も祭りの日がやってきた。

俺は父の隣に立つ。


列が進む。


若い踊り手がぎこちなく足を上げている。

あの日の俺だ。


俺は足で小さく拍子を取る。

刺さらないことを、俺はもう知っている。それでも動かない。


父が言う。


「今年は出ないのか」


「忙しい」


俺は答える。


父は何も言わない。


太鼓が鳴る。

列が遠ざかる。


俺は思う。


踊る阿呆。

観る阿呆。


同じ阿呆なら。


歌はそう言う。


だが人は、何度でも観る側に立つ。


怖さは消えない。

責任は重い。

安全は甘い。


父が小さく足で拍子を取る。俺も、同じように拍子を取る。

その動きは、ほとんど無意識だ。


提灯が揺れる。

音が遠ざかる。


父の横顔は穏やかだ。その視線は、やはり少しだけ遠い。

俺は缶ビールを口に運ぶ。


夏の夜は熱を孕んでいる。音は遠くで鳴り続けている。


俺は思う。

また観ている、と。


隣に父がいる。


父も、腕を組んで立っている。

横顔はいつも通り穏やかで、どこか遠い。


「……なあ」


父が、ぽつりとつぶやく。


「今なら、少しは踊れる気がする」


俺は横を見る。


父の右足が、ほんのわずかに前に出る。

一歩分にも満たない、ためらいの距離。


太鼓のリズムが高まる。提灯の明かりが揺れる。


父の肩が、わずかに前傾する。父の足が、さらに半歩動きかける。


だが。


次の瞬間、父は静かに重心を戻す。

前に出かけた体が、ゆっくりと元の位置に帰る。


「……いや」


小さく、笑う。


「やっぱり、いい」


その声は、後悔とも安堵ともつかない。


父は再び腕を組む。

いつもの姿勢に戻る。


俺は何も言わない。


太鼓は鳴り続ける。

踊り手たちは、夜の中で汗を光らせる。


父と俺は並んで立つ。


提灯の灯りが、少しずつ消えていく。


父は言う。


「……悪くないな」


何が、と聞かなくてもわかる。


俺はうなずく。


夜風が汗を冷ます。

太鼓が遠のく。


それでも阿呆は観る。

阿呆になり切れない阿呆はただ観ている。


――終――

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