踊る阿呆、観る阿呆
町の夏は、音で膨らむ。
提灯が灯ると、昼間のくすんだ商店街が別の場所になる。アスファルトのひび割れも、色あせた看板も、太鼓の音の中では意味を失う。三味線が流れ、笛が高く伸びる。
阿波踊り。
子どものころ、俺は父の隣でそれを見ていた。
「踊る阿呆に観る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損」
父はそう言って笑った。
だが踊らなかった。
足でわずかに拍子を取りながら、最後まで歩道に立っていた。
「父さんは出ないの」
俺が聞くと、父は肩をすくめた。
「見てるほうが楽だ」
楽。
その言葉の意味を、幼い俺は長いあいだ考えなかった。
やがて俺は三十になり、父と同じ場所に立つようになった。
駅前の横断歩道橋。缶ビールの冷えが掌に馴染む。
連が進む。揃いの浴衣。揃いの足運び。
俺は観る側だった。
観る側は安全だ。
間違えない。
笑われない。
会社でも同じだ。
突出しない。失敗しない。
正解の範囲の中で動く。
それは安定している。
だが、ときどき空気が薄い。
ある日、健太から電話があった
健太は、幼馴染だ。あいつは、いつも声が大きく、何かにつけて体を動かしていた。卒業後も変わらず、毎年連に入っている。
「今年、出ないか」
俺は笑って断ろうとした。
「俺は観るほうだ」
「なぁ、それ、楽しいか?」
言葉が止まった。
楽しいかどうかを、俺は考えたことがなかった。いや、考えたくなかった。
結局、俺はしぶしぶ練習に参加した。
練習に顔を出したのは、好奇心ではなく、苛立ちに近い感情からだった。自分が退屈しているかもしれないという疑い。それを否定したかった。
練習はひどかった。
足はもつれ、手は高すぎる。鏡の中の自分は滑稽だ。
評価される世界に慣れた身体は、基準のない空間に居場所を見つけられない。
うまいか下手か。
正しいか間違いか。
その尺度がないと、不安になる。
本番の日。
商店街は光と音で満ちている。歩道は人で埋まり、カメラのレンズが光る。去年まで俺が立っていた位置だ。
太鼓が鳴る。
一歩目を踏み出す前、全身が硬直する。全身が拒絶した。恥ずかしさが喉元までせり上がる。なぜここにいるのか。なぜ安全な場所を離れたのか。
視線が痛い。
視線が刺さると思った。
なぜなら俺は、あの場所で毎年見てきたからだ。
揃っていない踊り手を見て、どこかで比較していた。
あの人はうまい。あの人は下手だ。
あの動きはぎこちない。
口には出さない。だが、見ていた。
安全な位置から、測っていた。
だからこそ、今度は自分が測られる番だと思った。
足が震える。喉が乾く。心臓が速い。
もう、逃げたい...!
列が動き出す。
俺は踏み出す。
最初の数歩は、恐怖しかなかった。
視界の端に観客の顔が流れる。
刺さる。
刺さるはずだ。
だが――
痛みが来ない。
俺は恐る恐る、ひとつの顔を見る。
中年の女性が団扇を振っている。
目は柔らかい。
子どもが笑っている。
こちらを指さして笑っている。
嘲りではない。
ただ楽しそうだ。
若い男がスマートフォンを向けている。
画面越しにこちらを見ているが、そこに評価の影はない。
俺は戸惑う。
誰も、俺を見ていない。
列を見ている。
祭りを見ている。
俺はその一部でしかない。
その事実が、急に身体を軽くする。
俺はずっと、自分が中心だと思っていた。
他人の視線は自分に向けられていると思っていた。
だが実際には、そこまで注目されていない。
はっ!バカみてぇじゃねえか!自意識過剰ってやつか。
太鼓が腹に響く。
足を上げる。
手を振る。
まだ揃っていない。
それでも列は進む。
刺さらない。
視線は、思ったより柔らかい。
湯の中に入ったときのようだ。
最初は熱いと思ったが、やがて身体が慣れる。
俺は小さく息を吐く。
頭の中の声が、静かになっていく。
比較する声。
逃げ道を探す声。
失敗を恐れる声。
音がそれらを押し流す。
俺はただ動いている。
その夜、実家に寄った。
「今日、踊った」
父は少し目を丸くした。
「そうか」
しばらく沈黙が続いた。
「俺もな」
父が言った。
「若いころ、誘われたことがあった」
「出なかったのか」
「ああ」
父は缶を傾ける。
「怖かった」
それだけ言った。
「何が」
俺が聞くと、父は少し笑う。
「人前で、阿呆になることだ」
それ以上は説明しなかった。
テレビの音が部屋に流れる。
やがて父がぽつりと言う。
「毎年、少しだけ後悔した」
その声は静かだった。
俺は何も言えなかった。
数年、俺は踊った。
だがやがて、俺はまた歩道に戻る。
忙しさ、責任、疲労...。理由はいくらでもある。
今年も祭りの日がやってきた。
俺は父の隣に立つ。
列が進む。
若い踊り手がぎこちなく足を上げている。
あの日の俺だ。
俺は足で小さく拍子を取る。
刺さらないことを、俺はもう知っている。それでも動かない。
父が言う。
「今年は出ないのか」
「忙しい」
俺は答える。
父は何も言わない。
太鼓が鳴る。
列が遠ざかる。
俺は思う。
踊る阿呆。
観る阿呆。
同じ阿呆なら。
歌はそう言う。
だが人は、何度でも観る側に立つ。
怖さは消えない。
責任は重い。
安全は甘い。
父が小さく足で拍子を取る。俺も、同じように拍子を取る。
その動きは、ほとんど無意識だ。
提灯が揺れる。
音が遠ざかる。
父の横顔は穏やかだ。その視線は、やはり少しだけ遠い。
俺は缶ビールを口に運ぶ。
夏の夜は熱を孕んでいる。音は遠くで鳴り続けている。
俺は思う。
また観ている、と。
隣に父がいる。
父も、腕を組んで立っている。
横顔はいつも通り穏やかで、どこか遠い。
「……なあ」
父が、ぽつりとつぶやく。
「今なら、少しは踊れる気がする」
俺は横を見る。
父の右足が、ほんのわずかに前に出る。
一歩分にも満たない、ためらいの距離。
太鼓のリズムが高まる。提灯の明かりが揺れる。
父の肩が、わずかに前傾する。父の足が、さらに半歩動きかける。
だが。
次の瞬間、父は静かに重心を戻す。
前に出かけた体が、ゆっくりと元の位置に帰る。
「……いや」
小さく、笑う。
「やっぱり、いい」
その声は、後悔とも安堵ともつかない。
父は再び腕を組む。
いつもの姿勢に戻る。
俺は何も言わない。
太鼓は鳴り続ける。
踊り手たちは、夜の中で汗を光らせる。
父と俺は並んで立つ。
提灯の灯りが、少しずつ消えていく。
父は言う。
「……悪くないな」
何が、と聞かなくてもわかる。
俺はうなずく。
夜風が汗を冷ます。
太鼓が遠のく。
それでも阿呆は観る。
阿呆になり切れない阿呆はただ観ている。
――終――




