Ep6. 再会の約束
――悠が死んだ。
悠の気配が消えた刹那、舞の瞳から暖かな光だけが抜け落ち、代わりに心が冬の灰空の色で染まっていく。
「……悠……」
名前を呼ぶたび、胸の鼓動が悠への想いを急き立てる。返事が返ってくることは決してない。それでも、呼ばずにはいられなかった。
――もう、帰ってこない。
届くことのない想いが涙となって、とめどなく溢れてくる。
鼻がツンとする。視界が霞んで揺れる。吸い込んだ息の中に、うすら寒い寂寥が流れ込む。
芝生の上に、震える膝がそのまま崩れ落ちた。
拭っても拭っても涙を止められない。視界が狭まり、嗚咽の声だけが、醜く自分の耳に響く。
舞は誰もいない中庭で、ただ悠の名を叫びながら、芝生を濡らすことしか出来なかった。
声にならない声が、中庭に切なく木霊する。時間がどれぐらい経ったのかもわからない。やがて泣き叫ぶ声は、すすり泣きに代わり、呼吸とまじり合って消えていった。
頬を伝う涙の熱が冷えていく。舞は心の中の暗闇に意識を沈めた。
――秋の柔らかな午後の陽光に包まれて、舞は静かに目を覚ました。そっと頬に手を添えると、指先に乾いた涙のざらついた感触が伝わる。
――久しぶりの自室。けれど、見慣れた家具も壁の色もどこか遠い。
「……」
体が鉛のように重かった。心すら動かす力を失い、しばらく、ただ天井を見つめていた。
――やがて舞はゆっくりと体を起こし、頬をぬぐい、乱れた髪を手で整えた。そしてソファに腰を下ろし、顔を両手で覆うと深く息を吐いた。
静寂の中から伝わる耳障りな心臓の鼓動だけが、この世界に自分をつなぎとめていた。
思い出が、唐突に蘇る。
――あの日。原稿に詰まって机に突っ伏していた私の背を、やさしく撫でてくれた温かな感触。
「姉さんの書く物語、大好きだよ」
心地よく耳に響く、弾んだ声。
疲れていることに気づき、そっと差し出してくれた、香り立つ湯気が上がるコーヒー。
恋ではなかった。家族愛でもない。もっと深く、境界の名前がない“何か”だった。
(……悠を失って、ようやく気づくなんて……)
胸が締めつけられた。言葉にすればただひとつ。
――私は、悠を愛していた。
そのとき、インターフォンが鳴った。生者の世界の音が、胸の痛みを再び抉った。
舞は逡巡した後に腰を上げると、重い足取りで歩を進めた。モニターに映っていたのは、久美だった。
「……久美ちゃん?」
『舞さん……お話があります。ドアを開けてください』
驚愕と不安が混ざる。舞は玄関に忍び寄ると、チェーンロックをかけたまま、ノブを回し、ドアを押し開いた。
チェーンがピンと張る。そのわずかな隙間の向こう、白い外廊下のぼんやりとした照明に照らされた久美が、佇むような姿勢でドアをボーッと眺めていた。
ドアの狭間で舞と目が合うと、久美はパッと表情を明るくし、お淑やかに頭を下げる。
「この前はいきなり刺してしまって、すみませんでした。久美、最近ラノベに嵌っておりまして、一度お約束をやってみたかったんです」
「……」
訝しむ舞に対し、久美は可愛らしく微笑んだ。
「もうしませんのでご安心を。ホログラム包丁なので、刺しても怪我はしませんけどね」
舞は大きく溜め息をつくと、チェーンを外し、久美をリビングに招き入れる。
久美はぽすんとソファに座ると、ぽつりと口を開いた。
「悠さんの件です。もうご存じでしょうけれど、彼は三か月前に亡くなりました。黄昏峠で転落して」
“三か月前”――舞が悠と暮らしはじめた時期。つまり、あの部屋での時間は、悠の死後の世界だった。
「悠さんが地面に衝突する寸前に、死亡判定が出ましたので、いったんそこで状態を“保留”にし、あの部屋へ転送しました。転落の際に負った傷は、ネクタル……まあ回復薬みたいなものですね……を飲ませて治しています。舞さんと悠さんの再会の約束を果たすために」
「……あなた、本当に何なの?」
舞の声は、氷の刃のように冷たかった。悠を“死者”として淡々と扱う久美の態度に、抑えきれない不快感が膨れ上がっていた。
「舞さんが子供の頃に出会った“石板さん”の管理者です。こことは違う世界から来ました。久美は、生者と死者の悲しみを和らげるために存在しています。残念なことに、今は別の役目が追加されていますが」
久美の肩がわずかに落ちた。それに気づき、コホンと咳払いすると、話を続けた。
「さて、本題です。ここに来た目的は――黄昏峠で死んだ、悠さんの遺体回収の手伝いです。現場に着いたら、保留を解除して悠さんを遺体にします。ご案内します」
身体に冷や水をかけられた感覚が全身を襲う。胸が毛虫に這われたようにざわめき、指先が震えた。
「行くのは怖いですか? ……現実を見てください」
久美は、ため息をついた。
「そんな舞さんに朗報です。悠さんに、もう一度会うことができます。今度はずっと――ただし、代償として“生者の存在”を差し出す必要があります。この世界から消えるということですね。どうしますか?」
舞は、すぐに答えられなかった。手が止まり、言葉は喉に詰まる。
久美の目が、ゆっくり舞を射抜く。
「もし悠さんと過ごしたいなら、私たちの世界に招待します。悠さんとまた会えます。ずっと一緒にいられるんです」
舞は唇をかすかに噛んだ。久美の言葉は甘美な誘惑そのものだった。
「……もしかして、あなたって悪魔なの?」
「……さあ、どうなんでしょう。“神隠し”と呼ばれた事はありました」
舞は言葉を失い、目をそらした。
舞が黙り込むと、久美はふと笑みを浮かべ、柔らかい声を出した。
「……舞さん。この世界での“存在”なんて、そんなに大事ですか? 誰も舞さんのことを思い出せなくなるだけですよ。悠さんと一緒にいられるなら、久美なら迷わず捨てますけど」
舞は息をのむ。久美の目が、ほんの一瞬、潤んで見えた。
その一瞬に、舞の心がわずかに揺らぐ――“悠に会えるなら”という言葉が頭の中で反響した。
だが久美は、すぐに無表情に戻り、再び淡々と告げる。
「さて、どうしましょう。悠さんのもとへ行きますか? この世界を捨てて」
「……っ」
喉が張り付くように痛く、上手く言葉が出てこない。
そんな舞を見て、久美は小さく頷いた。
「……久美、やっぱり考えを改めました。黄昏峠に行くのは止めて、悠さんを頂きます……舞さんが来る前に、悠さんを慰めようとしましたが、断られたのを思い出したんです。ショックです」
ショックと言いつつ、その声には一片の感情もなく、まるで物を扱うような軽さだった。舞の背筋に冷たいものが走る。
「次は久美のお誘いを断れません。嬉しいです。悠さんは本当に特別な方なので、手放すには惜しい存在ですからね。これからずっと、二人きりで愛し合うんです」
舞は思わず身を乗り出した。
「……待って。久美ちゃん……しばらく考えさせて」
久美の口元がわずかに歪んだ。
「……分かりました。良い回答をお待ちしています」
顔を伏せた舞は、膝の上で両手を組みながら、自分の心に問い続けた。
――私は何を選ぶ?
――身体が震えた。
答えは、まだ掴めない。
……。
……悠と暮らしたい。この世界も失いたくない。
……仮に私が代償になっても、幸せに暮らせるとも思えない。
……何か別の道はないのか。
……。
……あった。だけど確証はない。
(それに――この女にだけは、悠は絶対に渡さない)
その思いが、舞の心に覚悟の火を灯す。
――舞は長い沈黙の後、静かに顔を上げた。
真っ直ぐに久美を見据え、静かに――けれど凜とした声で言った。
「結論は出たわ。私は、悠と一緒に暮らす」
「それでは――」
その言葉を、静かに遮る。
「……久美ちゃん……ごめんね」
――舞は、微笑んだ。
「代償は久美ちゃん」
言い終えたその指先は、微かに震えている。
「……え?」
久美の顔が、はじめて大きく動いた。驚愕と困惑に歪む。
「あなたは“生者の存在”が必要だと言っただけ。誰のものかは、指定していない」
舞はゆっくりと深呼吸をする。次の言葉が重く響くように。
「だから、代償は――あ・な・た」
――沈黙が落ちた。
久美は俯いた後、息を吸い、残念そうな声で言った。
「……不正解です……久美にとってのね」
ハァとため息をつき、舞を見つめる。
舞は、穏やかに言葉を重ねた。
「久美ちゃん、あなたはさっき言ったわ。『久美なら迷わず捨てます』って……だから、その言葉に責任を持ってね。私と悠のために、あなたが消えて」
優しく、諭すように――久美を刺す。
久美はその言葉にニヤリと笑い、静かに頷いた。
「久美、舞さんのような人は嫌いじゃないですよ。提示された選択肢に囚われず、自分で答えを出せる人が。せっかくなので、答え合わせもしておきますか」
――久美は微笑んだ。しかし、目は笑っておらず、その瞳の奥に、深淵が見えたような気がした。
「悠さんをあきらめれば、彼の魂をもらう。舞さん自身を代償にすれば、二人の魂をもらう。久美を代償に指定すれば――悠さんを生きたまま返す」
「舞さんを私たちの世界に連れていくために、契約の公平性が必要だったんです。まさかそこを突く方が、本当に出てくるとは思いませんでしたけど」
(とても公平だったとは思えないけど……)
舞は何も言わずに、ただ軽く頷いた。
「……魂が足りないんですよ、私たちの世界」
久美は少しの間、言葉を切る。空気がひとしきり静まった後、再び口を開く。
「……他の世界から充足しないと、どうしても……破滅が待っているんです。理由を話すと長くなるので、ここでは語りませんが……」
そして何かを振り切ったように、再び微笑む。今度はどこか眩しいものを見るような表情で。
「黄昏峠に行ってください。悠さんは生きたまま帰します。では」
そう言い残し、久美はリビングから音もなく消えた。
――黄昏峠。子供の頃、悠とよく遊んだ場所。
「明日また来よう」と約束して、果たせなかった場所。
ようやく、その約束を果たせる。
軽自動車のフロントガラスに差し込む夕日が、舞の顔を赤く照らす。舞はハンドルを強く握りしめながらアクセルペダルを踏み込み、峠を駆け上がった。
展望台のベンチに、ひとつの人影。沈みゆく夕焼けの中、悠がいた。
「悠!」
車を降り、風のように駆け寄ると、そのまま悠を抱きしめる。舞は悠の胸元に顔を埋め、ふわりと漂う日なたのような、懐かしく暖かい匂いを深く吸い込んだ。
悠は舞を優しく抱き返し、慈愛の笑みを胸元の舞に向けた。
「姉さん……ただいま」
顔を埋めたまま、舞はひと言だけを返すのがやっとだった。
「……おかえり」
舞はその存在を確かめるように、悠に回した両腕を震わせながら強く引き寄せると、舞の背中をゆっくりと撫でる、あの懐かしい感覚が返ってきた。
絶望の底で吸い込んだ、あのうすら寒い寂寥を吐き出すように、熱い吐息が悠の胸に漏れる。
「久美ちゃんに文句を言われたよ。この世界を離れる事になったって」
「そう。あの子とはもう、二度と会えないのね」
顔を上げ、少しだけ勝ち誇ったように微笑む。
「最後の思い出にキスしてくれって頼まれた」
「応じたの?」
「断った。迷わず」
風が二人の沈黙を撫でていく。
舞は悠をほんの少し押し返すと、彼の薄い唇を愛おしそうに指先でなぞり、ゆっくりと口を開いた。
「悠。私ね……あなたのお姉さんを、辞めようと思うの」
空気がさざ波のように震えた。悠の瞳が揺れる。
「……あなたのことが好き。弟じゃなく――一人の男性として」
その言葉が、悠が心の奥底で押し殺していた想いを、一気に解き放った。
悠は顔をくしゃくしゃにして笑いながら、勢いよく頷いた。
「僕もだよ……姉さんじゃなく、一人の女性として――舞、僕と結婚してほしい」
舞は大きく目を見開く。胸の奥で心が歓喜に躍り、その瞳の奥に、悠と共にある未来の景色が、いくつもの光とともに浮かび上がる。
「……ええ。喜んで」
取り留めもなく頬に流れてきた涙をそっとぬぐう。
「みんな、びっくりするでしょうね。姉弟で結婚だなんて」
悠は人差し指を唇に当ててから、そっと舞に耳打ちした。
「そうだね……血がつながってないってことは、しばらく秘密にしようか」
二人はくすりと笑い合い――舞はいたずらっぽく囁いた。
「……ねえ、私と踊る?」
「ごめん。踊るのは、やっぱり無理」
「あら。ようやく認めたのね」
――悠を見上げながら微笑む舞の目に、透き通った光が宿る。
……互いに見つめ合い、ゆっくりと瞼を閉じた。
夕日に照らされた、とまどうように揺れていた二つの影が、静かに重なった。
中空に浮かぶ、鮮やかな赤に染まった月が――何も言わず、ただ二人の始まりを照らしていた。
(おわり)




