Ep5. 黄昏峠の記憶
舞は一次通過作品の一覧を追う。あった。
――『縦走賛歌』 今作 落太郎
舞は心の中でそっと思った。
(田中さんが気づいてくれた。きっとあの縦読み、ちゃんと届いたのね)
悠は黙っていた。その顔には、呆れと畏敬の念が混ざっていた。
舞は、悠を見据えながら言った。
「悠、予告しておくね。私はこの作品で、必ず賞を取る」
(……なんとしても、私と悠がここから出るためにね)
――出版社の会議室。最終選考の場に、候補作の原稿と作家たちが並ぶ。
編集長は、静かに立ち上がった。
「皆さんに、お伝えしなければならないことがあります」
作家たちが顔を上げる。編集長は、田中から聞いた事情を簡潔に説明した。
短い沈黙ののち、作家の一人が静かに頷く。それに続くように、他の作家たちも言葉を交わした。
編集長は深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。その言葉が、早崎先生の希望になります」
――その夜、公式サイトに結果が掲載された。
『縦走賛歌』、奇書誕生特別賞・受賞。
舞と悠の二人は、その報せを見ていた。
「……姉さんが、賞を、取った……」
悠は信じられないという顔で、ただ舞を見つめていた。
「言ったでしょう。賞を取るって」
舞は微笑んだが、胸の奥は静かに熱くなっていた。
(……田中さん、みなさん、本当にありがとうございました)
受賞の余韻が静かに空気を満たしていく。その中で、悠は穏やかな眼差しを向けた。
「姉さん……ありがとう。やっぱり、僕の姉さんだ」
舞は何も言わず、悠の声を吸い込むように聞いていた。空気が、そっと閉じていく――まるで、何かが終わりに近づいているような気がした。
「ごめん姉さん。あの“下読みへの復讐”って話、あれは嘘だったんだ。本当は……姉さんに迷惑をかけて、困らせたかっただけ。少しでも姉さんのそばにいたくて」
「……え?」
舞の声は、驚きと戸惑いが入り混じったものだった。悠はしばらく沈黙していたが、少しだけ顔を背け、深く息を吐くと、静かに続けた。
「あと、あんな過酷な条件付きで、賞を取るなんて夢にも思ってなかった。さすが僕の姉さんだ」
舞はあわてて問い返した。
「待って、じゃあ事件は本当に関係なかったの? 久美ちゃんとか、裏に誰かいなかったの?」
「うん。事件に関していえば、久美ちゃんは関係ないし、他に誰もいない。これだけは誓って言える……気にしてたんだね」
その言葉に、肩から力が抜けた。
――しばらく沈黙したあとに、悠は懐かしむように口を開いた。
「姉さん、覚えている? 子供の頃よく行った、黄昏峠での出来事」
「黄昏峠?」
*
とある秋の日の夕暮れ、まだ小さかった舞と悠は、黄昏峠と呼ばれる、夕焼けがとても綺麗に映える場所にいた。
黄昏峠には、神隠しの言い伝えがある。故人を偲んだ者は、いつしかその想いに引かれ、姿を消すという――迷信深い両親に、近づくなと何度も言われていた。それでも二人は、こっそり足を運んでいた。
峠の頂から見下ろす。空は金色に染まり、おぼろげな月が静かに浮かんでいた。薄紅の雲が流れ、その稜線は、ゆっくりと夜の帳へと沈んでいく。
――風が頬を撫で、草がささやくように揺れる。
「きれいだね、姉ちゃん」
「うん……なんだか、泣きたくなる」
ふと、道の端に目をやると、見慣れない石板があった。苔むした岩のようでいて、ぼけた金属のようにも見える。表面には細い亀裂が奇妙な文様のように刻まれていた。二人は引き寄せられるように近づき、そっと手を触れた。すると、石板が微かに震え、声が響いた。
「汝らのどちらかに死が訪れた際、我の元へ赴くか。そして再会を望むなら、相手に何を為すか定めよ。約定に基づき、我と汝らで約束を交わさん」
悠はぽかんとした顔で舞を見た。
「……なにそれ。姉ちゃん、こいつが何言っているかわかる?」
舞は少し考えてから、弟の目を見て言った。
「この石板さん、私たち二人のどちらかが死んじゃった場合、石板さんの所でまた会いたいか、会えたら相手に何をするのかって聞いてるのよ。その後、指切りげんまんね」
悠はしばらく黙っていたが、やがて照れくさそうに言った。
「えー、死ぬのはいやだー。でも……うーん……もちろん会いたいに決まっている。石板さんの所に行ってもいい。そして、姉ちゃんに迷惑をかけて困らせる」
「何で死んでからも、迷惑かけるのよ」
「だって、姉ちゃんに忘れられたくないもん」
舞はその言葉が嬉しくて、ふっと笑った。
「忘れるわけない……私も石板さんの所で悠に会いたい。そして、姉らしく振舞う」
「それ、いつもの姉ちゃん……でも、なんかうれしい」
二人が笑い合ったそのとき、石板が一瞬だけ光を放った。
「汝らの答えを聞いた。我と汝らは、再会の約束を交わしたことを認める」
その声とともに、石板は沈黙した。
二人は目を見合わせた。
「……姉ちゃん、今の、何だったんだろう」
「さあ。夢でも見てたのかしら」
「よし、明日もここに来て調査しよう!」
「わかったわかった。悠、もうお家帰るよ」
そう言いながら、手をつないで峠を下りた。夕日は、山の向こうに沈みかけていた。
……その後、両親が離婚し、二人は離れ離れになった。そして再び、黄昏峠を訪れることはなかった。
*
舞と悠は、子供の頃に“石板さん”の前で、死後の再会の約束を交わしていた。そして今――その約束が、静かに果たされた。
――無意識に封印していた、幸せと悲しみが交錯した記憶が揺り戻された。舞は一息つき、悠に答えた。
「……思い出した。悠がもし死んだら、私に迷惑をかけて困らせるっていうやつでしょ」
……なんだか嫌な予感がした。
「そうそう。姉さんは姉さんで、僕に姉らしく振舞うって言ってくれた。昔も今も、いつも……姉さんは僕の姉さんだった」
悠は、どこか懐かしむように笑った。その笑みの端に、言葉では形容できない寂しさが滲んでいる。
「僕、死んだんだよ、姉さん。黄昏峠で足を滑らせて崖から落ちてしまった。姉さんとまた黄昏峠に行きたくて、下見してたんだ」
「死んだ……? あなたはここにいるじゃない」
……やめて……お願い。
「死んだ瞬間、あの石板さんが来てね――“再会の約束を果たす時だ”って。僕、信じられなかったけど……気づいたら、ここにいたんだ」
舞は、息を吸うことも忘れていた。まるで胸の奥で、何かが凍っていくようだった。
「そこで『石板さん』の管理者の久美ちゃんに、改めて自己紹介された」
「久美ちゃんは言った。交わした約束を果たすなら、しばらくの間は姉さんと暮せると。果たせない時、果たし終わった時は……別れなければならないと」
……別れるなんて嫌。
「あなた、何を言っているの。別れなんて……私が許すわけないでしょう?」
舞の声を無視して、悠は続ける。
「……だから僕は、必死に考えたんだよ。迷惑をかけて困らせる方法を――出した結論が、無茶な条件で賞を取ってもらうことだった。本当にごめん」
舞はこの後どうなるのか、うすうす気づいていた。だけど自分の気持ちに嘘をついて、懸命に引き留める。
「謝らないで。私は悠と一緒にいられて、とても楽しかった。ここを出た後、貰った賞金で、お祝いに何か美味しいものでも、食べに行くの。もちろん悠も一緒よ」
……悠を引き留められるなら――目が潤んで視界がぼやける。泣いちゃだめだ。
その言葉を聞いた悠は、俯いた。全身が小刻みに震えている。目から、一筋の涙が零れた。
――悠は顔を何度も拭い、舞に顔を向けた。精一杯、作り笑顔を向け、震える声で別れを告げた。
「……久美ちゃんが呼んでいる。さよなら、僕の姉さん。これからも、たくさん小説を書いてね……僕は、もう行かなきゃ」
悠は舞に背を向けると、軽く手を振りながら、ガラスの扉に向かう。
「僕がここを去ったら、姉さんも出られるようになるから」
「……やだよ、悠。行かないで」
「姉さんの幸せを、願っている。僕がこの世界で、一番好きだった……姉さん」
……悠のいない世界に、幸せなんかない。
悠の声が、うっすらと消えつつある姿と共に霞んでいく。
「お願い、待って……!」
舞は追いかけようとした。けれど足が床に縫いとめられたように動かない。手だけが震えながら伸びる。それでも届かない。
悠の姿が見えなくなると、糸が切れたように体が動いた。扉を開ける手が震える。外気が流れ込むと、世界が一瞬、音を取り戻す。中庭には誰もいなかった。
ただ、コンクリートの壁だけが、何も知らない顔で空を見ていた。
舞はしばらく、中庭で立ち尽くしていた。悠が消えた空間を見つめながら、何かを探すように指先を宙に伸ばす。けれど、何も掴めない。
――行ってしまった。




