Ep4. 物語の中でSOS
――舞は、机に向かっていた。部屋には、規則正しい時計の音だけが響いている。どんな物語を書くべきか。それが、今の舞に課された最大の課題だった。賞を逃せば、この部屋から出ることは叶わない。しかも、悠が提示した「条件」という名の足枷まである。
平穏な手段では届かない。舞は、禁じ手に手を伸ばす覚悟を固めつつあった。
策は一つ。報道されていた事件を利用して、賞を取る手助けを田中さんに求めること。冒涜を犯す行為であることは分かっていた。たとえ身の危険を招こうとも、不正であることに変わりはない。最悪、作家生命が終わるかもしれない。
考えあぐねている内に、心の中に悠の悄然とした姿が浮んだ。「二度と会えなくなる」――その言葉が、何度も反芻する。もし裏に誰かがいて落選した場合、悠が“消される”かもしれない。それだけは絶対に許せなかった。
――舞は助けを求める覚悟を決めた。
どう動くかを考えた。そのとき、ふと記憶が蘇った。以前、田中さんと、“日本の三大奇書”と呼ばれる複雑怪奇な小説の中の一冊について語り合ったとき、ある場面で異様に盛り上がった。
――そうだ。あの場面を、物語の中に忍ばせよう。
舞はそのやり取りを思い出し、文を綴り始めた。悠は“難解で複雑怪奇な小説”を望んでいる。ならば、物語全体の中にそのシーンを思い出すような状況を埋め込み、田中さんが気づくような“細工”を仕込めばいい。
舞はその場面を思い出しながら、細工と共に慎重に文章を構築していった。
「田中さん、どうか気づいて」
物語の流れに溶け込むように、持てるものを総動員して、違和感なく挿入した。
単純だが、効果的な仕掛けだ。舞は、細工したページを見つめた。悠にはきっと気づかれない。 でも――田中さんなら、きっと気づいてくれる。あの夜、奇書の一文に心を震わせた彼なら。舞は、静かにページを重ねた。そして最後の仕上げとして、ペンネームに、田中さんへの“物語への気づき”の符号を刻んだ。
――舞は、原稿を打ち終えた瞬間、がっくりと肩を落とした。肩が重い。頭がぼんやりする。硬質な文体、複雑な構文、冗長な言葉――それらは舞にとって、創作の刃だった。 物語を紡ぐたび、彼女の内側が少しずつ削られていく感覚を味わった。
「……疲れた……」
その声は、空気の中にゆっくりと広がっていった。椅子にもたれかかったまま、舞はいつの間にか眠りに落ちていた。俯きがちに体を寄せて、小さな寝息を立てている。
悠はそっと立ち上がり、ベッドの上の毛布を手に取り、やさしく舞にかけた。一瞬だけ、指先が舞の髪に触れてしまい、息をのむ。何事もなく寝息を立てている姿にほっとし、ただ毛布の端を整えて、音を立てずに離れた。
夜が少し進んだころ、舞は静かに目を開ける。毛布の重みを感じて、かすかに息を吸った。ほとんど音にならないような声で、囁く。
「……ずるいよ、悠」
*
舞は原稿をプリントアウトし、悠に渡した。悠は原稿を読み始める。
――一通り読んだ後で、悠はポツリと呟いた。
「……すごいよ、姉さん。構成もしっかりしているし、全体で調和された文章なのに、全く意味がわからない」
舞は頬を膨らませた。
「それって、褒めてるつもり?」
だが悠は、舞の反応に、軽く手を振っただけだった。
「それじゃ、応募しようか」
舞はうなずいた。田中編集者がいる出版社で、現在作品を募集しているのは、アイデア文学賞。それが、舞の“声”が届く可能性のある唯一の場所だった。
悠は原稿を装置の上に置き、蓋をして、パネルを操作する。装置が小さく震え、原稿は文字通り“送信”された。
それを見届けた舞は、悠に微笑みかけた。
「やることはやった。あとは結果を待つだけだし、のんびりと過ごしたいな。悠とゆっくり話すのも久しぶりだし。もう割り切って、少し長い休暇を貰ったと思うことにする」
「うん。賞の結果が出るまで、僕も姉さんと一緒にいたい」
悠の言葉に、舞は自然と笑顔を返した。小さく礼も言う。
「なんだか視野が広がった気がするの。ここでお礼を言うのも変かもしれないけど……ありがとう。悠」
悠は舞の言葉を聞いて、ふっと目を伏せた。口元に微かな笑みが浮かぶが、すぐに消える。そして舞を見つめる瞳に、言葉にならない思いがにじんでいた。
――編集部。
若手編集者の中村は、自分の机の上に何かが置かれているのに気づいた。
(追加分の応募原稿かな? ちょうど今から下読みだし、一覧に登録したあとで、一緒に読んでおくか)
――数席離れたデスクで、田中は応募一覧を眺めながら、ふと目を止めた。
「……今作 落太郎?」
見覚えがあった。たしか舞先生とふざけてつけた、“ペンネーム”の一つだった。
田中は立ち上がり、中村の机に歩み寄った。
「中村君、ちょっといいか? 確認したいことがあるんだ」
冴えない表情で、下読みをしている中村に声をかけた。
「ん? どうしたんですか?」
「『縦走賛歌』っていう応募作品、どこにあるか知っているか?」
「ああ、あれですか。今読んでるとこです。構成も文体もガチガチで、正直読むの地獄ですよ。落としていいですかね」
「……それ、見せてくれ」
中村は少し驚いたように眉を上げた。
「え、本気ですか?」
「失踪中の早崎先生に関係あるかもしれない。誰にも言わないでくれ」
中村が原稿を差し出す。田中は受け取り、礼を言って席に戻った。
――編集部の一角で、田中は『縦走賛歌』を読み始めた。確かに読みにくい。だが、行間に漂うリズムが、舞先生の筆跡と重なる。ページをめくる手が止まった。
そこには――かつて舞先生と語り合った、奇書の一節のギミックが使用されていた。その中に、まず使われることのない「ん」で始まる文がある。注意深く行頭を追った。
た な か さ ん――。
呼吸が止まる。震える指で先を追う。
「たなかさん まいです とじこめられています ばしよはわからない しようを とつたら かいほうすると いつていました」
(田中さん、舞です。閉じ込められています。場所はわからない。賞を取ったら解放すると言っていました)
確信に変わる決定打だった。思わず原稿を胸に抱いた。
「舞先生……生きてるんですね……」
そう呟くと、椅子を蹴るように立ち上がった。
――編集部の会議室。田中は、原稿を手に、編集長の前に立った。
「編集長。この作品、受賞させたいです。理由もあります」
「急だな。聞こう」
「結論から言います。これは早崎舞先生の原稿です。落選すれば命が危険です」
編集長の表情が変わった。
「失踪中の担当作家だな。居場所は?」
「不明ですが、監禁されている可能性が高いです」
「続けて」
田中は短く息を吸った。
「状況が、三年前の“作家拉致事件”に酷似しています。書かされ、応募させられ、落ちれば殺される。今回も同じ筋です」
編集長は黙って聞いている。
「まず応募名“今作 落太郎”。彼女と私が冗談で作ったペンネームです。それから文体。ほぼ先生そのものです。極めつけは――ここ」
田中は一文を指した。
「縦読みになっています。しかも、彼女とだけ話した奇書のギミック。その知識を持つのは、私だけです」
縦読み――横書きの各行の先頭文字を縦に読むと言葉が浮かぶ古い技巧。平安時代の物語にも見られるものだ。
編集長の目が鋭く細まった。
「……誤認なら不正選考だぞ。社の信用に関わる」
田中は、静かにうなずいた。
「承知しています。でも、これは明確なSOSです。見過ごせば、彼女は――」
編集長は手を上げた。
「感情で動くな。だが……話は理解した」
短い沈黙のあと、編集長は深く息をついた。
「……わかった。この件は君に任せる。ただし、先生を保護したら、後始末も頼む。責任は私が取る」
田中は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。編集長」
――そして数週間後。
舞はPCの前に座り、ブラウザを立ち上げ、キーボードを滑らかに打ち込む。数瞬の後に、出版社の公式サイトが表示された。
画面を見ながらマウスをクリックする。そこにはアイデア文学賞の一次通過作品の発表が掲載されていた。




