Ep2. 悠の目的
舞の脳裏に、最悪の結末がよぎる。体が小刻みに震えた。
「……分かった。何か事情があるのね……警察に突き出すなんてことはしない。出版社の人たちには、私の方から言っておく。その代わり、あとで必ず話を聞かせて」
「……ありがとう、姉さん。本当に、ありがとう……」
もやもやとした不安は晴れない。それでも気持ちを切り替えるように、悠に尋ねた。
「……ところで、目的って何?」
「姉さんに、お願いがあるんだ。ここで、僕の代わりに小説を書いてほしい」
「……は?」
「そして、書いた小説を、出版社が主催している賞に応募してほしい」
舞は目を細めた。冗談にしては手が込みすぎている。だが、悠の目は真剣だった。
「つまり……私に、あなたのゴーストライターをやれってこと?」
悠は静かに首を横に振った。
「違う。偽名で応募してほしい」
「偽名で……?」
「姉さんの実績を使わず、“無名の新人”として、物語を世に出してほしい」
舞は言葉を失った。奇妙な提案だった。だが、悠の口調は執念じみていた。
「なぜ、そんなことを……?」
舞の問いに、悠はしばらく黙っていた。朝食の余韻が消えた食卓で、両手を組んだまま視線を落としている。やがて、かすれた声で言った。
「――姉さん。僕、小説を書いてるんだ。五年くらい。いくつも賞に応募して、一次通過が一度だけ」
舞は眉を上げた。小説を書いてたなんて、今まで一度も聞いたことがなかった。
「それでも、書き続けて応募しているんでしょう? それって、すごいことよ。一次通過できたなら、きっといつか賞を取れるわ」
悠はその言葉に、ふっと目を伏せた。
「……通過したときは、AIにほとんど書いてもらったんだ。自分で書いたものは、全部落ちた」
言葉が重く沈む。舞も返せなかった。自分の作品が見向きもされない痛みは、誰よりも知っている。
悠は顔を上げた。
「姉さんに頼みたい理由なんだけど……」
一呼吸した後、悠は静かに告げた。
「……僕を落とし続けた、あの下読みたちに復讐したい」
下読みとは応募作品を最初に読んで、次の選考に回すかを判断する人たちのことだ。
舞は一瞬、聞き間違いかと思った。けれど、悠の目は真剣だった。
「姉さんに書いてほしいのは、読みにくくて、難解で、読んだ人が困惑するようなやつ。下読みのメンタルを地獄に落とすような構成で」
舞は眉をひそめた。
「……それを書いて応募して、読ませるってこと?」
悠はうなずいた。
「姉さんなら知ってるよね? 彼らはどんな作品でも、書評を下さなければならない。投げ出すことは許されない。いわば、椅子に縛られたまま、延々と殴られ続けるようなものだよ」
悠の顔は、なにかの思いに堪えようと、顔を引きつらせたような表情をしていた。
「あなた、正気なの?」
舞の声は低く、怒気を含んでいた。
……いくばくかの沈黙を挟んだ後、舞は静かに口を開いた。
「彼らはね、プロよ……どんな作品でも、真摯に向き合って、書評を書く。作家が苦労して産み出した、子どものような作品を、無下に扱ったりなんてしない。少なくとも、私が知ってる人たちは、そうだった」
悠は、ただ微笑んでいるだけだった。
「そうかもしれない。でも……想像したことがある? 僕の作品が“無価値”として見られる瞬間を。だから今度は――読むことそのものを罰にしてやりたいんだ」
舞は黙った。言葉が見つからなかった。創作とは、誰かを苦しめるためのものではない。だが悠の言葉には、創作に裏切られ続けた者の痛みがあった。“復讐は違う”と言いたいのに、否定の言葉が胸に張りついた。
ただ、一つだけ疑問に思うことがあった。
「……でも、どうして私じゃなきゃダメなの?」
悠は答えられず、しばらくの間、唇を震わせていた。
「……僕の書いたものは、誰も本気で見てくれない。だから、姉さんの“力”を借りたいんだ。一度だけでいい……お願いだよ」
悠が本気で願うとき、舞はいつも抵抗できなかった。心が先に頷いてしまうのだ。
「……とりあえず、あなたの書いた原稿を読ませて。一番の自信作を。悠の言葉で書いたものを、私が読む。それから、返事をするわ」
復讐なんてくだらない。悠の原稿を読み、一緒に磨き上げ、悠自身の力で賞を取らせたい。その方が、きっと――悠のためになる。
「わかった。ちょっとまってて」
悠はゆっくりと立ち上がり、PCを操作すると、プリンターから次々と紙が排出される。10分ほど経った後に、A4用紙の束ができあがった。
舞はそれを受け取り、表紙に目を落とした。
タイトルは――『ヒマワリの願い』
舞は、深く息を吸い込んでから、静かにページをめくった。
――舞はページをめくる手を止めることができなかった。悠の原稿『ヒマワリの願い』は、思いのほか完成度が高かった。プロットは緻密で、伏線の張り方も丁寧だ。文体は安定していて、比喩の選び方にも、独自の美学が滲んでいた。人物描写も深く、特に主人公の内面の揺れは、舞自身が思わず感情移入してしまうほどだった。
「……これでどうして、通過できないのかしら」
舞は小さく呟いた。これで、一次通過すらできないというのが信じられない。だが、読み進めるうちに、その理由がはっきりと分かった。
物語は恋愛ものだった。主人公の青年と、心に傷を抱えた女性が、幾多の誤解とすれ違いを乗り越え、ついに互いの想いを確かめ合う――その直前。告白の場面が始まろうとしたその瞬間。
「……え?」
舞は思わず声を漏らした。男女が向き合い、言葉を交わそうとしたその場に、突如として周囲の人々が集まり、輪になって踊り始めたのだ。しかも、詳細な振り付けの描写が数ページにわたって続く。手の動き、足のステップ、表情の変化。まるで舞踏会の実況中継だ。
「……なんで、ここでダンス?」
舞は混乱した。物語の流れが唐突に断ち切られたような、不自然さ。しかも、ダンスが終わると、なぜか告白は終わっていた。告白の言葉はない。心の確認もない。ただ、踊り終えた後に、とても幸せそうな表情の男女がいた。
そして、物語は再び盛り上がる。ふたりが向き合い、互いの顔を見つめ、目をつむる。ついにキスか――という場面。その瞬間、また人々が集まり、輪になって踊り始めた。輪の中心にいる男女が笑顔で踊りながら、手を振りまいている描写が、舞の心を一層苛立たせる。
「……また?」
舞はページを閉じた。眉間に深い皺が寄っていた。
技術はある。構成も練られている。だが、物語の核心に触れる場面で、なぜか“踊り”が割り込んでくる。親密な愛情表現を、ことごとくベールで覆い隠すように。あるいは、読者の期待を裏切ることで、密かな快感を感じ取っているのか。
この奇妙な演出は、悠の心の中の、何がそうさせているのか。
悠は物語の中でさえ、誰かを困惑させることを目的にしているのではないか。
舞は、原稿を膝の上に置き、深く息を吐いた。この物語は、読む者に何を感じてほしかったのか。そして、書いた本人は――何をしたかったのか。
「ねえ、どうして……肝心なシーンで、あんなにダンスの描写が続くの?」
舞は原稿を閉じ、悠に向き直った。声は静かだったが、そこには混乱と苛立ちが滲んでいた。




