第5話 キャンセル料の行方
挙式1週間前。本来であれば、最終的な進行確認を行い、新郎新婦が胸を高鳴らせる時期――いわゆる「Xデー」の直前。
静まり返ったサロンに、電話の呼び出し音が鋭く響いた。
水指は手元の紅茶を一口啜り、ゆっくりと受話器を取る。ディスプレイには『A組 新婦(楓子)』の文字が表示されている。
「はい、マリアージュ・ミラージュの水指でございます」
『……水指さん、ですか……』
受話器の向こうから聞こえてくるのは、枯れ果てたような楓子の声だった。かつての無邪気な明るさは微塵もない。
『あの……式、キャンセルしてください。もう、無理です』
「まあ……。何かございましたか?」
『全部、終わりです。あの日……衣装合わせの後、彼と里奈の関係を問い詰めたら、もう何年も前から続いてたって……。私の両親も激怒して、彼の会社に乗り込む騒ぎになって……婚約は破棄になりました』
嗚咽混じりに語られる修羅場。
水指は眉を八の字に下げ、慈愛に満ちた声色を作る。
「それは……本当にお辛かったですね。心中お察しいたします。楓子様の真っ直ぐなお気持ちを思うと、私も胸が張り裂けそうですわ」
『ありがとうございます……。それで、キャンセルの手続きを……』
「ええ、承知いたしました」
水指はそこで、声をワントーン落とした。
同情の響きを完全に消し去り、冷徹な事務的口調へと切り替える。
「つきましては、初回にご説明し、サインを頂きました契約書の第15条に基づきまして――挙式2週間前を切っておりますので、お振込みいただいた全額をキャンセル料として頂戴いたします」
『……えっ?』
楓子の呼吸が止まる気配がした。
『ぜ、全額ですか? 一円も戻らないんですか? 式も挙げていないのに?』
「はい。契約書にも明記されております通り、すでに会場、食材、装花、スタッフの手配はすべて完了しております。これらは直前のキャンセルの場合、補填が効きませんので」
『そ、そんな……数百万ですよ!? ひどい……神様に誓うための式だったのに、こんな結末なんて……』
縋るような泣き言。だが、それは水指にとって最も軽蔑すべき言葉だった。
(神様? ……そんな曖昧なものが、何の役に立つというの)
水指はデスクに広げた契約書へ視線を落とす。そこには、浮かれた二人が確かに刻んだ、黒々とした直筆の署名がある。
彼女は愛おしそうにその文字を指先でなぞると、ゆっくりと息を吸った。
慈悲深く、けれど、死刑宣告のように冷ややかに。
「楓子様。……残念ですが、あきらめてください」
『え……?』
水指は、凍てつくような静寂を置いてから、その真実を告げた。
「神様への誓いは反故にできても、私との契約は破れませんので」
『…………』
あまりに鋭利で、逃げ場のない正論。
返す言葉を失った楓子は、しばらく嗚咽を漏らしていたが、やがて力尽きたように電話を切った。
通話終了の無機質な音が鳴ると同時に、水指は深く息を吐き、口角を三日月のように吊り上げた。
「利益確定、ね」
その時、間髪入れずにもう一本の回線が鳴った。
裏でキープしていた『B組』からだ。
「はい、水指です」
『あ、あの……本当に申し訳ないんですが……キャンセルをお願いしたくて……』
電話の主は、公務員のB組新婦。声は震え、切迫している。
『彼が……職場で不正経理を働いていたことが発覚して、懲戒免職になったんです。ニュースにもなりそうで、結婚式どころじゃなくて……』
水指は表情一つ変えずに聞く。
当然だ。その不正の証拠を匿名で役所にタレ込んだのは、他ならぬ水指自身なのだから。
ギリギリまで泳がせ、キャンセル料が100%になるタイミングを見計らって破滅のスイッチを押したのだ。
「そうですか、それは大変ですね……。ですが、契約は契約ですので」
水指はA組にしたのと全く同じ説明を繰り返す。
相手は泣き寝入りするしかない。自身の不祥事が原因であれば、強くは出られないからだ。
+++
夜。
誰もいなくなったサロンで、水指はパソコンの画面を見つめていた。
計上された売上は、通常の二倍。
同じ日時の、同じ会場の枠で、二組から満額のキャンセル料をせしめたのだ。式場には一組分のキャンセル料だけを払い、残りは全て自分の利益となる。
水指は虚空に向かって、なみなみと注いだワイングラスを掲げた。
「乾杯。……哀れな子羊たちへ」
彼女は窓ガラスに映る自分自身の姿を見つめ、独りごちる。
「みんな、私がひどい女だと思うかしら? いいえ、逆よ。私は感謝されるべきだわ」
水指は立ち上がり、かつて父が経営していた式場の写真が飾られた棚へと歩み寄る。
「『真実の愛』なんて、平和な日常の中でしか成立しない幻想よ。金、裏切り、世間体……少し揺さぶっただけで崩れるような関係なら、結婚なんてしない方が幸せでしょう?」
彼女の瞳には、昏い復讐の炎と、歪んだ使命感が宿っていた。
偽物の愛を葬り去り、その対価として金を巻き上げる。
それは彼女なりの「正義」であり、この腐ったウエディング業界への復讐劇だ。
「さあ、次はどんな『幸せボケ』したカップルが来るかしら」
水指浄呂美のデスゲームは、まだ始まったばかり。
愛の値段を鑑定する彼女のサロンには、今日もまた、何も知らない恋人たちが足を踏み入れるのだ。
第1章 完
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