第19話 奇跡のアンコ・パイ・マリアージュ
結婚式の1週間前。
ウエディングサロン『マリアージュ・ミラージュ』の個室には、一触即発の空気が充満していた。
今日は両家の顔合わせ食事会。しかし、テーブルを挟んで対峙する親たちの間には、万里の長城よりも分厚い壁が聳え立っている。
「……フン。なぜ私が、砂糖と油でギトギトの洋菓子屋ごときと食事をせねばならんのだ」
腕組みをして鼻を鳴らすのは、『亀屋』の頑固店主である萬之助の父。
「あら、こちらのセリフですわ! カビ臭いお饅頭屋さんと同席だなんて、私の感性が腐ってしまいそう!」
扇子でパタパタと顔をあおぐのは、『パティスマイリー』のマダムであるシエルの母。
二人は一度も目を合わせず、虚空に向かって悪態をつき続けている。
その様子を、部屋の隅で控える水指は、涼やかな顔で見守っていた。
(ええ、その調子よ。憎しみ合って、罵り合って……そして最後にトドメの『失敗作』が出てくれば、この縁談はジ・エンド)
水指の計算では、今日がXデーだ。
二人が持参するはずの「幻の菓子」は、あの改悪レシピによって泥のような失敗作になっているはず。それを食べた親たちが激怒し、完全に決裂する――それが彼女の描いたシナリオだ。
「お父さん、お母さん。……これを見てください」
張り詰めた空気の中、萬之助が静かに口を開いた。
シエルが震える手で、桐の箱をテーブルの中央に置く。
「生意気な。また妙なことを企んで……」
「どうせロクなものじゃないんでしょう?」
親たちが訝しげな視線を向ける中、二人は箱の蓋を開けた。
現れたのは、黄金色に輝く『あずき香るパイ饅頭』。
焼きたての香ばしい匂いが、ふわりと部屋に広がった。
「これは……先代たちが作ろうとした、幻のコラボ菓子です」
萬之助の言葉に、親たちの目が大きく見開かれる。
「なんだと? あの忌まわしい失敗作を復刻したというのか!」
「バカな真似を! あれは和と洋が決して相容れないという証明にしかならなかったのよ!」
「いいから、食べてみてください! お願いです!」
シエルの必死の叫び。
親たちは渋々といった様子で、その菓子を手に取った。
水指は心の中でカウントダウンを始める。
(さあ、絶望の味を噛み締めなさい……3、2、1……)
サクッ。
静寂な部屋に、軽やかな音が響いた。
一口食べた瞬間。
罵倒しようと開いた親たちの口が、そのまま凍りついたように止まった。
怒りではない。驚愕が、その表情を塗り替えていく。
「……なんだ、これは」
萬之助の父が、信じられないものを見る目で断面を見つめた。
「餡子の水分が……完璧に計算されている。いや、それだけじゃない。このねっとりとした艶とキレ……洋菓子の温度管理技術を応用したのか? 萬之助、お前……いつの間にこんな技を」
シエルの母もまた、目を見張っていた。
「このパイ生地……。バターの風味は濃厚なのに、決して餡子の邪魔をしていない。限界まで薄く、それでいて存在感のある層……これは和菓子の『包む』技術へのリスペクトがないと作れないわ。シエル、あなた……」
口の中に広がるのは、水指が仕組んだ不協和音ではない。
和の深みと洋の軽やかさが手を取り合い、互いを高め合う、奇跡のような調和。
そして何よりそこには、子供たちが長年見てきた「親の背中」への、深い尊敬と愛情が込められていた。
「美味しい……。悔しいけれど、美味しいわ……」
「ああ……。親父が夢見たのは、この味だったのか……」
ポロリ、と頑固親父の目から涙がこぼれた。それにつられるように、マダムの目頭も濡れていく。
「すまん、萬之助。俺は意地を張っていただけかもしれん」
「私もよ、シエル。……貴方たち、立派な職人になったのね」
罵り合いは消え、そこには互いを認め合う涙と、温かい拍手が満ちていた。
両家の長い戦争が、一つの菓子によって終わりを告げたのだ。
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その光景を、水指は無表情で見つめていた。
彼女の完璧な計算式(レシピの改悪)は、二人の純粋な「職人魂」という変数によって、粉々に打ち砕かれた。
(……やられたわね)
悔しさはあった。だが不思議と、胸の中に広がるのは不快感だけではなかった。
彼女は小さく息を吐き、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……完敗ね」
その時、水指のポケットでスマホが振動した。
画面には『B組 新婦』からの通知。
『DNA鑑定の結果、お腹の子は彼の子じゃありませんでした……。婚約破棄します』
こちらは水指が調査してリークした通り、托卵の事実が露呈し、あっけなく破綻したようだ。
B組からは満額のキャンセル料が入る。ビジネスとしては黒字だ。
水指はスマホをポケットにしまい、涙を流して抱き合うA組の親子たちに背を向けた。
光あるところには影が落ちる。
けれど、たまには――こんな眩しい光を見せつけられるのも、悪くはない。
水指は静かに部屋を出て行き、その口元には、自嘲気味だがどこか満足げな笑みが浮かんでいた。




