第1話 大安吉日の罠
都内某所。古びた雑居ビルの最上階に、知る人ぞ知る隠れ家的ウエディングサロン『マリアージュ・ミラージュ』はある。
磨き抜かれた大理石の床、天井から降り注ぐシャンデリアの柔らかな光。そして、何より美しいのは、部屋の中央で佇む女性の笑顔だった。
「ようこそお越しくださいました。お二人の幸せのお手伝いができて、光栄ですわ」
フリーランスのウエディングプランナー、水指浄呂美。
亜麻色の髪を完璧なシニヨンにまとめ、仕立ての良いスーツを着こなす彼女は、業界でも指折りの「カップル最高満足度」を誇る。
その彼女の対面に座っているのは、絵に描いたような幸せの絶頂にいるカップルだった。
新郎は大手商社勤務の健太。ブランド物のスーツを少し着崩し、自信に満ちた表情をしている。
新婦は資産家の令嬢である楓子。ふわふわとしたパステルカラーのワンピースを身に纏い、世間の汚れなど何一つ知らないような瞳で健太を見つめていた。
「ねえ健太くん、このサロン素敵! 隠れ家っぽくて特別感あるね」
「ああ。楓子には最高のものしか似合わないからな。水指さん、予算は気にしないでくれ。とにかく派手で、みんなが羨むような式にしたいんだ」
二人は恋人繋ぎをした手をテーブルの上で見せつけるように置き、甘ったるい視線を交わし合う。
水指は完璧な営業スマイルを貼り付けたまま、心の中で冷ややかに舌打ちをした。
(典型的な『お花畑』ね。……養分として美味しくいただくとしましょうか)
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ヒアリングが一通り終わると、水指は手元のタブレット端末を操作し、スケジュール確認の芝居に入った。
眉を少しだけ寄せ、困ったように溜息をつく。その演技は、アカデミー賞女優も裸足で逃げ出すほど自然だった。
「……申し訳ございません。お二人のご希望される春のシーズンですが、どこの会場も満杯でして……」
「えっ、嘘……。半年も先なのに?」
「人気の日取りは、一年前から予約が入るのが常識ですので」
楓子の顔から笑顔が消え、健太も焦りの色を見せる。
幸福の絶頂から、一度突き落とす。これが交渉の鉄則だ。
水指は数秒の間を置いてから、「あ!」と小さく声を弾ませた。
「奇跡ですわ! たった今、一件キャンセルが出ました」
「本当ですか!?」
「ええ。半年後の某月某日……なんと『大安吉日』です。気候も最高ですし、この会場のメインバンケットが空いております」
水指が提示した日付。それはウエディング業界において、喉から手が出るほどのプラチナチケットだ。
しかし、その枠には――すでに別のカップル(B組)の予約が入っている。
B組は公務員同士の堅実なカップルで、すでに手付金も入金済みだ。つまり、これは完全なダブルブッキング。
だが、水指の表情には一点の曇りもない。
「ですが……このお日柄ですと、タッチの差で埋まってしまう可能性が高いです。これを逃すと、次は来年の冬……一年以上先になりますね」
「い、一年先!? そんなの待てないよ!」
「私もですぅ……早くドレス着たいもん」
「水指さん、ここで決めます! 今すぐ押さえてください!」
魚が餌に食いついた。
水指は「承知いたしました」と優雅に頷き、分厚い契約書を取り出した。
ここからが本番だ。彼女は契約書のページをめくり、特に重要でもない条項を流暢に説明した後、ある一点を指差して指を止めた。
「では、こちらの第15条『キャンセル規定』についてご説明いたします。ここだけは、しっかりとご確認くださいませ」
水指の声色が、わずかに事務的な冷たさを帯びる。
「当サロンでは、最高のクオリティを保証するため、会場や資材、スタッフを早期に確保いたします。そのため――挙式2週間前を切ってのキャンセルの場合、理由の如何に関わらず、見積もり総額の100%をキャンセル料として申し受けます。よろしいですね?」
通常であれば、ここで少し躊躇う客もいる。総額数百万が、式を挙げずとも消えるのだから。
だが、目の前の二人は顔を見合わせ、噴き出した。
「あはは! やだ、水指さんったら。キャンセルなんてするわけないじゃないですかぁ」
「そうですよ。俺たちは別れるわけないし、絶対に結婚するんだから。関係ない話ですね」
「……ええ、左様でございますね」
水指は聖母のような微笑みを浮かべながら、心の中でどす黒い愉悦に浸る。
(言質はとったわよ)
「では、こちらにサインをお願いいたします。なお、当サロンは全額前払い制となっておりますので、期日までのお振込みをお忘れなく」
健太は迷いなくペンを走らせ、契約書にサインをした。
二重契約のカードは切られた。
これから半年間、この二組を天秤にかけ、裏工作で揺さぶり、愛を試す。そしてどちらかが脱落した時――水指の懐には、巨額のキャンセル料が転がり込むのだ。
「本日はありがとうございました! 当日が楽しみです!」
サロンを出ていく二人の背中を見送りながら、水指は深く一礼する。
その唇は、誰にも見えない角度で、三日月のように吊り上がっていた。




