第15話 返金不可の愛
挙式まで、あと三日。
本来であれば、最終のエステやネイルケアを終え、世界で一番美しい花嫁として胸を張るべき日。
サロン『マリアージュ・ミラージュ』の扉を押し開けた葉山直美は、幽霊のように青ざめていた。
「……いらっしゃいませ」
水指浄呂美は、その姿を見ても眉一つ動かさず、静かに出迎えた。
直美の髪はパサつき、あれほどこだわっていたブランド服ではなく、無難なグレーのニットを着ている。その瞳には、かつての支配者としての傲慢な光は微塵もない。
ソファに深く沈み込むと、直美は乾いた唇を開いた。
「……式、キャンセルさせてください」
「かしこまりました。……ハル様とは、あれから?」
「戻ってきませんでした」
直美は自嘲気味に笑った。
「あのアパートを出て、行方不明です。興信所を使って探したけれど、見つからなかった。……いえ、本当はわかってるの。彼が私から『逃げた』んだって」
ハルが最後に言い放った言葉。『アンタが俺をダメにした』。それが呪いのように直美の心を蝕んでいた。
水指は、同情するふりをして紅茶を差し出した。
「お辛いですね。あんなに愛し合っていらしたのに」
「ええ……。でも、もういいんです。彼とは終わりました」
直美は紅茶に口をつけず、バッグから一枚の書類を取り出した。
先月、彼女自身が振り込んだ挙式費用の明細書だ。
「それで……水指さん。大変言いにくいのですが、費用の返金をお願いできますか?」
「返金、でございますか」
「はい。三週間前に振り込んだ八百万円です。式も挙げないし、料理も食べていない。……今の私には、このお金を無駄にする余裕なんてないんです」
直美の声は震えていた。
愛を失った今、せめて金だけでも取り戻さなければ、彼女のプライドは崩壊してしまう。
だが、水指は聖母のような微笑みを崩さぬまま、ゆっくりと首を横に振った。
「申し訳ございません、直美様。それは不可能です」
「……え?」
「ご契約時、ハル様と一緒に読み合わせをした第15条をお忘れですか? 『挙式2週間前を過ぎてのキャンセルは、理由の如何に関わらず見積もり総額の100%をキャンセル料として申し受ける』。……契約は絶対です」
水指の声は、氷のように冷徹だった。
「すでに会場のキープ、スタッフの拘束、特注の装花や食材の手配は完了しております。これらはすべて『生もの』です。今さらキャンセルされても、損失を補填することはできません」
「そ、そんな……! 八百万よ!? 一円も戻らないなんて、詐欺じゃない!」
「いいえ、正当な商取引です。……あの時、お二人は笑顔でサインなさいましたわ。『キャンセルなんてありえない』と」
直美が言葉を失う。
そうだ。あの時の自分は、金なんていくらでもあると高を括り、永遠の愛を信じていた。その慢心が、今になって巨大な負債となってのしかかる。
「……お願い。少しでもいいの。半分でも……」
「無理ですわ。神様への誓いは反故にできても、私との契約は破れませんので」
取り付く島もない拒絶。
直美はしばらく呆然としていたが、やがて力が抜けたように肩を落とした。
怒る気力さえ残っていないのだ。
「……そう。そうよね。契約だものね」
「ご理解いただき、感謝いたします」
「……高い授業料だったわ。男を見る目も、自分自身のことも……何もわかってなかった代償ね」
直美はふらりと立ち上がった。
その背中は、来た時よりもさらに小さく見えた。
「さようなら、水指さん。……もう二度と、結婚しようなどと考えないわ」
捨て台詞を残し、直美はサロンを去っていった。
扉が閉まった瞬間、水指は手元のタブレットを操作し、入金管理画面に「COMPLETED」の文字を打ち込んだ。
「利益確定。……ご馳走様でした」
+++
後日。夜。
水指は、赤ワインのグラスを片手に、夜景を見下ろしていた。
A組からのキャンセル料、八百万円。
そして――。
「B組も結局、破綻」
同時進行していたB組(女医と男性看護師)。
彼らもまた、キャンセルの連絡を入れてきた。
理由は「度重なるモラハラによる婚約破棄」。
女医のプライドを水指が巧みに煽り、看護師の新郎に対する侮辱を助長させた結果、新郎側の堪忍袋の緒が切れたのだ。
こちらも当然、キャンセル料は100%徴収済み。
「同じ日に二組の予約を入れて、両方から満額をせしめる。……これだから、この仕事はやめられませんわ」
水指はグラスを掲げ、独りごちた。
だが、彼女の愉悦はそれだけではない。
彼女が楽しんでいるのは、金銭的な利益以上に、人間という生き物の「懲りない性分」だ。
水指は、調査員から届いたばかりの『アフターレポート』を開いた。
まずは、ハル。
アパートを飛び出し、自立への道を歩み始めたかに見えた彼だが――。
『対象者、六本木のクラブで新たなパトロン女性(40代・経営者)と接触。現在は彼女のマンションに転がり込み、再び生活の全額援助を受けている模様』
水指は鼻で笑った。
「結局、首輪が変わっただけ。……一度飼い慣らされたペットは、野生には戻れないということですわ」
そして、直美。
「もう結婚しない」と言い残した彼女の現在は――。
『対象者(直美)、マッチングアプリに再登録。検索条件は「20代前半」「夢を追っている年下男子」「年収不問」。プロフ文には「私があなたを育ててあげます」の記述あり』
水指は声を上げて笑った。
「ふふふ、あははは! 傑作だわ!」
直美もまた、何も変わっていない。
彼女が求めているのは対等なパートナーではなく、自分の支配欲を満たしてくれる「無力な人形」なのだ。
ハルという人形を失ったから、また新しい人形を探しているだけ。
「共依存という名の甘い檻……。彼らはそこから出るつもりなんて、最初からなかったのよ」
美談も、成長も、反省もない。
あるのは、尽きることのない欲望と、それを搾取するビジネスだけ。
水指は空になったグラスを置き、不敵な笑みを浮かべた。
「さあ、次はどんな『愛』を見せてくれるのかしら。……地獄のデスバージンロードは、まだまだ続くわよ」
第3章 完
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