第14話 逆転の反抗期
挙式まで、あと一週間。
木造アパート『木枯荘』の錆びついた鉄階段を、ヒールの音が乱暴に叩く。
葉山直美は、二〇三号室のドアの前に立っていた。
ここに来るまでの間、彼女の頭の中は「救出劇」のシミュレーションで埋め尽くされていた。可哀想なハルちゃん。汚い部屋で泣いているはず。私が迎えに行けば、きっと泣いて縋り付いてくるわ。そうしたら、すぐにエステに連れて行って、汚れた服を全部捨てて……。
「ハルちゃん! 私よ、迎えに来たわ!」
直美はノックもそこそこに、鍵のかかっていないドアを勢いよく開け放った。
「……!」
部屋に入った瞬間、直美は絶句した。
そこは、彼女の美学とは対極にある「ゴミ溜め」だった。
床にはコンビニ弁当の空容器やスナック菓子の袋が散乱し、飲みかけのペットボトルが林立している。脱ぎ捨てられた服、絡まったシールドケーブル、書き損じの紙くずの山。
鼻をつくのは、カビ臭い畳の匂いと、男の汗の匂い。
「……ナオミさん?」
部屋の中央、ちゃぶ台に向かって胡座をかいていたハルが、驚いて振り返った。
その姿を見て、直美は再び言葉を失った。
伸び放題の髭。ボサボサの髪。首元がヨレヨレになったTシャツ。
かつて直美が毎朝セットし、高級ブランドで着飾っていた「美しい人形」の面影はどこにもない。
だが、その瞳だけが、異様なほどギラギラと輝いていた。
「な、何よこれ……! なんて格好なの! それにこの部屋、汚すぎるわ!」
直美はヒステリックに叫びながら、散らばったゴミを爪先で蹴散らした。
そして、ハルの手元にある大学ノートをひったくった。
「歌詞を書いてるって聞いたけど、こんなゴミみたいな環境でまともなものが書けるわけ……」
直美の目がノートの文字を追う。
そこには、殴り書きの筆跡で、今までハルが書いたことのない言葉が並んでいた。
『飼い慣らされた豚』
『シルクの首輪で呼吸が止まる』
『愛という名の猛毒』
『俺を殺すな、俺を殺すな、俺を殺すな』
「……ッ!」
直美は汚いものを見るようにノートを投げ捨てた。
「何これ……気持ち悪い! こんなのハルちゃんの言葉じゃないわ! あの男ね、あの変なプロデューサーがあなたを洗脳したのね!」
直美はハルに駆け寄り、その腕を強引に引っ張った。
「帰りましょう、ハルちゃん。こんなゴミ溜めにいたら頭がおかしくなるわ。家に帰って、お風呂に入りましょう。私が綺麗に洗ってあげる。美味しいご飯も用意してあるの。ほら、立ちなさい!」
いつものように。
抵抗なんてするはずがない。だってこの子は、私がいなければ何もできない無力な子供なのだから。
直美はそう信じて疑わなかった。
だが。
「……離せよ」
低い声と共に、ハルが腕を振り払った。
予想外の力強さに、直美はよろけて尻餅をついた。
「え……?」
「触るな! 俺はアンタの着せ替え人形じゃない!」
ハルが立ち上がり、直美を見下ろした。
その目は、怯えでも甘えでもなく、明確な「拒絶」の色を帯びていた。
「ナオミさん、俺はこの一ヶ月で初めてわかったんだ。自分で飯を選んで、自分で洗濯して、自分の言葉で歌うことが、こんなに楽しいなんて知らなかった」
「な、何を言ってるの……? 楽しいわけないじゃない! こんな貧乏な生活、惨めなだけよ!」
「惨めなのはどっちだよ!」
ハルが吠えた。
その大声に、直美はビクリと肩を震わせた。ハルが自分に声を荒らげるなんて、出会ってから一度もなかったことだ。
「俺は、アンタのアクセサリーじゃない。アンタは俺のためとか言いながら、結局は『世話をしてる自分』に酔ってただけだろ! 俺が一人立ちしようとするのを邪魔して、いつまでもペット扱いして……そんなの愛じゃねぇ、ただの支配だ!」
図星を突かれた直美の顔が、怒りで赤黒く染まる。
彼女は立ち上がり、震える指でハルを指差した。
「よくも……よくもそんな口が利けるわね! 誰のおかげで生きてこられたと思ってるの!? 衣食住も、楽器も、お小遣いも、全部私が与えてあげたのよ! 私がいなかったら、あなたは野垂れ死んでただけのゴミ虫なのよ!」
恩着せがましい罵倒。
それが、彼女の本音だった。対等なパートナーではなく、金を払って飼っている所有物。
ハルは悲しげに笑い、静かに、しかし決定的な一言を放った。
「ああ、そうだよ。アンタが全部やってくれた」
「わかってるなら……」
「だから俺はダメになったんだ。アンタが俺から『生きる力』を奪ったんだよ! アンタが俺をダメにしたんだ!」
「――ッ!」
直美の喉から、ひゅっ、と息が漏れた。
否定できない。心の奥底で、彼が無力であることを望んでいた自分を見透かされたからだ。
「もうたくさんだ。……俺は、俺の足で立つ」
ハルは床に落ちたノートと、愛用のギターだけを掴んだ。
そして、直美の方を一度も見ることなく、ドアへと向かう。
「待って! ハルちゃん、待ってよ! 結婚式はどうするの!? お金だって払ったのよ!」
直美の叫びが背中に突き刺さる。
ハルは足を止め、振り返らずに言った。
「一人で挙げればいいだろ。……アンタが愛してるのは、俺じゃなくて『理想のペット』なんだから」
バン!
鉄の扉が閉まる音が、アパートの廊下に響き渡った。
「ハルちゃん……! 嫌……行かないで!」
直美はドアに縋り付き、崩れ落ちた。
ゴミだらけの部屋に、高級スーツを着た女が一人、取り残される。
彼女の手には、何も残っていない。
金で買い、愛という名の鎖で縛り付けていたはずの小鳥は、汚れた翼を広げて空へと消えた。
残されたのは、圧倒的な静寂と、数百万円の損失(キャンセル料)という事実だけだった。




