第13話 切れたリード
木造アパート『木枯荘』の二〇三号室。
六畳一間の畳は擦り切れ、壁には正体不明のシミが浮き出ている。風呂はなく、トイレは共同。隙間風が容赦なく吹き込むこの部屋が、ハルの新しい城だった。
「……うまい」
ちゃぶ台の上で、ハルはコンビニの「のり弁当」を頬張っていた。
直美との生活では決して口にできなかったものだ。彼女は「添加物は毒よ」「声帯に悪いわ」と言って、徹底管理されたオーガニック食材しか与えてくれなかった。
だが今、舌の上で広がるのは、冷え切った白身魚のフライと、濃いソースのジャンクな味。
それは、ハルにとって「自由」の味だった。
「ごちそうさま。……さてと」
完食した空容器をゴミ袋に放り込み、ハルは部屋を見回した。
ここには何もない。直美が選んだ高級な家具も、ふかふかのベッドも、自分を監視する優しい目もない。
あるのは、裸電球の頼りない光と、自分自身の呼吸音だけ。
本来なら不安で押し潰されるはずの静寂。しかし不思議なことに、ハルの胸を満たしていたのは、かつてない高揚感だった。
彼はギターを抱え、ノートを開いた。
これまでは、ペンを持っても「ナオミさんが喜びそうな言葉」ばかり探していた。『永遠の愛』『漆黒の闇』……そんな借り物の言葉たち。
だが今は違う。
腹の底から、言葉が湧き上がってくる。
このボロアパートの匂い。隣の部屋から聞こえるテレビの音。そして、腹の減る感覚。
「……書ける。書けるぞ」
ハルは一心不乱にペンを走らせた。
深夜、銭湯の帰りに買った缶コーヒーの温かさ。コインランドリーで洗剤の量を間違えて泡だらけになった失敗。その全てが新鮮な「体験」となり、彼自身の血肉となっていく。
直美という温室から出た彼は、初めて風の冷たさを知り、そして自分が「生きている」ことを実感していた。
+++
一方、港区のタワーマンション。
夜景を見下ろす広大なリビングで、直美は死んだような目をしていた。
「……遅い」
時計の針は深夜二時を回っている。
いつもなら、ハルが風呂から上がり、私が髪を乾かしてやり、ホットミルクを飲ませて寝かしつける時間だ。
だが今、部屋は凍りつくように静まり返っている。
ダイニングテーブルには、ハルのために作った「喉に良い蜂蜜大根」と「特製野菜スープ」が、手つかずのまま冷え切っていた。
直美は震える手でスマートフォンを握りしめた。
ハルのスマホは没収されている。連絡手段はない。
彼女が縋るように見つめているのは、偽プロデューサー・阿久津が運営するSNSアカウントだ。
そこには、今日のハルの様子が一枚だけアップされていた。
『特訓初日。あいつ、意外とタフだ。晩飯は牛丼大盛り。ハングリー精神を注入中』
写真には、安っぽい牛丼屋のカウンターで、丼にかぶりつくハルの横顔が写っていた。
髪はボサボサで、服も少し汚れている。
だが、その表情。
直美の知らない、男のような獰猛な目で、彼は飯を食らっている。
「……何よ、これ」
直美の指先が画面の上で強張る。
不潔。体に悪い。あんな油っぽいものを食べたら肌が荒れる。
でも、それ以上に彼女を打ちのめしたのは、ハルが「自分がいなくても平気そう」だという事実だった。
「ハルちゃん……どうして? 私がいないと何もできないはずでしょ? 寂しくて泣いてるはずでしょ?」
画面の中のハルは、私の知らない世界で、私の知らない男(阿久津)に管理されている。
嫉妬と喪失感が、胸を焼き尽くす。
それはまるで、禁断症状のように彼女の理性を蝕んでいった。
私が管理してあげなきゃ。私が正しい道に戻してあげなきゃ。あの子は私のものなのに。
直美はスマホを胸に抱き、誰もいない部屋で膝を抱えた。
+++
翌日。
サロン『マリアージュ・ミラージュ』に現れた直美は、目に見えて憔悴していた。
完璧だったメイクは厚塗りになり、目の下には隠しきれないクマが浮かんでいる。
「水指さん……お願いがあります」
直美は席に着くなり、高級デパートの紙袋をテーブルに置いた。中には、高級なレトルトスープやサプリメント、肌触りの良いパジャマなどが詰め込まれている。
「これを、彼のアパートに届けていただけませんか? あんな生活、彼には無理です。体を壊してしまいます」
「……お断りします」
水指は紙袋を一瞥もせず、冷ややかに却下した。
「約束したはずです、直美様。一ヶ月間は衣食住の援助禁止。それが彼をスターにするための『孤独のレッスン』なのですから」
「でも! SNSで見ましたけど、牛丼なんて食べて……! あの子は胃腸が弱いのよ!」
「意外と順応されているようですよ。阿久津氏からも『彼は水を得た魚のようだ』と報告を受けています」
その言葉が、直美の傷口に塩を塗る。
水指はさらに、残酷な「真実」を囁いた。
「直美様。喜ぶべきことではありませんか。彼は今、あなたという繭を破り、一人の自立した男性として羽ばたこうとしているのです」
「……自立?」
「ええ。この試練を乗り越えれば、彼はもう『お世話』を必要としない立派なスターになるでしょう。靴紐も自分で結び、食事も自分で選び、自分の足で人生を歩む……。あなたが望んでいた『ハル様の成功』が手に入るのです」
水指の言葉は、表向きは祝福だ。
だが直美にとっては、死刑宣告に等しかった。
彼が自立する?
私の世話が必要なくなる?
それはつまり――彼にとっての「私の価値」がなくなるということだ。
(嫌……そんなの嫌!)
直美の顔が恐怖で歪む。
ハルが成功してほしいなんて嘘だ。自分は、無力で、愚かで、私がいなければ生きていけない「可愛いハルちゃん」でいてほしいだけなのだ。
直美はバッグから小切手帳を取り出すと、震える手で金額を書き込んだ。
「……結婚式は、予定通り行います」
「もちろんですわ」
「これ、式の費用の全額です。オプションも全部つけて……最高に豪華な式にするの。だから……」
直美は数百万の小切手を水指に突き出した。
それはまるで、ハルを繋ぎ止めるための鎖の代金のようだった。
水指は涼しい顔でそれを受け取る。
「確かに、お預かりいたしました。……ご安心ください。契約は絶対です。お二人は必ず、結ばれる運命にありますわ」
その「運命」が、直美の望む形であるとは一言も言わずに。
水指は小切手を引き出しにしまいながら、心の中でほくそ笑んだ。
入金完了。これでキャンセル料100%の条件は整った。
あとは、精神的に追い詰められた「飼い主」が暴走するのを待つだけだ。
+++
サロンからの帰り道。
直美は自分の車の中で、ハンドルを強く握りしめていた。
水指の言葉が頭の中でリフレインする。
『彼は水を得た魚のようだ』
『もうお世話を必要としない』
「……嘘よ。あの子が私なしで生きていけるわけがない」
疑心暗鬼が黒い霧のように膨れ上がる。
もし、ハルが本当に変わってしまったら?
もし、あのプロデューサーが悪影響を与えていたら?
もしかして、アパートに女を連れ込んでいるんじゃ……?
一度芽生えた妄想は止まらない。
直美は、助手席に置いた「差し入れの紙袋」を見た。
会いに行ってはいけない。それは約束だ。
でも、確認するだけなら。遠くから見るだけなら。
いや、そもそも私は彼の婚約者であり、パトロンなのだ。私の金で生きている人間に、会う権利がないなんておかしい。
「……そうよ。様子を見てあげるだけ。彼の体調管理をするのは、私の義務なんだから」
直美は自分に言い訳をし、アクセルを踏み込んだ。
向かう先はタワーマンションではない。
水指から聞き出していた住所――『木枯荘』だ。
理性はすでに崩壊していた。あるのは、所有物を確認せずにはいられない、病的な執着だけ。
夜の帳が下りる中、高級外車が下町の路地裏へと滑り込んでいく。
切れたリードを結び直すために。




