第12話 孤独という名のオーディション
挙式まで残り1ヶ月となったある日。
水指は、ハルと直美を都内の貸しスタジオへと呼び出した。
防音扉の向こうには、すでに「仕掛け」が用意されている。
「急なお呼び立てで申し訳ございません。ですが、どうしてもハル様にご紹介したい方がおりまして」
水指が仰々しく紹介したのは、サングラスに長髪、派手な柄シャツを着崩した男だった。業界人のような胡散臭さが漂っているが、その眼光だけは鋭い。
男の名は、阿久津。
表向きは「数々の有名バンドを世に送り出した伝説の音楽プロデューサー」。しかしその正体は、水指が裏ルートで雇った売れない劇団員だ。
「……彼が、あの『デッド・エンド・ラビッツ』をプロデュースした阿久津さん!?」
直美が息を呑む。彼女も業界の端くれにいる人間だが、阿久津の経歴(もちろん捏造された偽プロフィールだ)には騙されているようだ。
ハルは状況が飲み込めず、キョトンとして直美の袖を掴んでいる。
「ナオミさん、すごい人なの?」
「ええ、すごいなんてもんじゃないわ。この人に認められたら、武道館だって夢じゃないのよ」
直美の興奮をよそに、阿久津は値踏みするような視線でハルを見据えた。
「……で、こいつか。水指さんが『原石』だと言っていたのは」
「はい。彼の歌声には、魂を震わせる何かがありますわ」
水指は真顔で大嘘をついた。
阿久津は鼻で笑い、「まあいい。聴かせてもらおうか」と顎をしゃくった。
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スタジオのスピーカーから、ハルのデモテープが流れる。
正直に言えば、それは酷い代物だった。音程は不安定で、歌詞は「闇」や「血」といった中二病的な単語の羅列。リズム感も壊滅的だ。
水指は表情筋を総動員して「感動している表情」を維持した。
曲が終わると、スタジオに重苦しい沈黙が流れた。
直美が不安そうに口を開く。
「あ、あの……いかがでしたか? まだ荒削りですけど、世界観は独特で……」
その時だ。
阿久津が、バン! とミキシングテーブルを叩いた。
「……天才だ」
阿久津はサングラスを外し、潤んだ瞳でハルを見つめた。
「俺は十年待っていた……こういう『イカれた純粋さ』を持つヴォーカリストを! テクニックなんざ後からどうにでもなる。だが、この今にも壊れそうな硝子細工のような危うさは、教わって身につくもんじゃねえ!」
劇団員の迫真の演技。
ハルが「えっ……」と口を開ける。直美は「ほら、やっぱり!」と自分のセンスが肯定されたことに顔を輝かせた。
「デビューさせよう。俺のレーベルからだ。大々的に売り出せば、瞬く間に時代のアイコンになるぞ」
阿久津の言葉に、ハルの顔色が紅潮していく。
自分の才能が認められた。しかも「ナオミさんが言ったから」ではなく、プロの男が自分自身を認めてくれたのだ。
しかし、阿久津はそこで声を低く沈めた。
「……ただし、今の君には一つだけ、決定的に足りないものがある」
空気が一変する。
「足りないもの……ですか?」
「ああ。『飢え』だ」
阿久津はハルに歩み寄り、その白い首筋に触れんばかりの距離で囁いた。
「君の歌からは、満たされた生活の匂いがする。飼い主から与えられた餌を食い、暖房の効いた部屋で微睡む……そんなペットの匂いだ。そんな奴から、魂を抉るようなロックは生まれねえ」
図星を突かれたハルが視線を泳がせる。
阿久津は直美を一瞥してから、冷徹に条件を突きつけた。
「デビューしたければ、条件が一つある。今日から挙式までの1ヶ月間、彼女の家を出て一人暮らしをしろ」
「えっ?」
「場所はこちらで用意したアパートだ。衣食住の援助は一切禁止。スマホも没収。その絶対的な『孤独』の中で、誰にも頼らずに最高の一曲を書いてみろ。……それができなきゃ、この話はナシだ」
その瞬間、直美が悲鳴のような声を上げた。
「待ってください! 無理です、そんなの!」
直美はハルを庇うように前に出た。
「彼は一人じゃ何もできないんです! コンビニでの買い方も怪しいし、洗濯機だって使ったことがないのよ。そんな子が一人暮らしなんて、死んじゃうわ!」
「死にやしねえよ。二十三の男だろ」
「精神的には子供なんです! それに、結婚式の準備だってあるし、エステにも通わせなきゃいけないし……無理よ、絶対にお断りします!」
直美は必死だった。ハルの才能を信じていると言いながら、彼女が守ろうとしているのは「ハルを管理している自分」の立場だ。彼が自分の手元から離れ、自立してしまうことを本能的に恐れている。
「帰りましょう、ハルちゃん。こんな変な話、聞く必要ないわ」
直美がハルの手を引く。
いつもなら、ハルは「うん、わかった」とついていくだろう。
だが、この時、ハルの足は動かなかった。
「……ハルちゃん?」
「……やりたい」
ハルは直美の手を振り払いはしなかったが、その視線は阿久津に釘付けになっていた。
「僕、ビッグになりたい。……ナオミさんのペットじゃなくて、ロックスタアになりたいんだ」
その瞳に、初めて「野心」という名の炎が灯る。
それは、水指が期待していた通りの化学反応だった。無能なヒモ男にも、男としてのプライドの残滓はある。それを「ロック」「デビュー」という甘い餌で釣り上げれば、飼い主への忠誠など容易く揺らぐのだ。
「ハルちゃん、何を言ってるの? あなたには無理よ。靴紐だって自分で結べないじゃない」
「練習するよ。……僕だって、男だもん」
ハルの言葉に、直美は平手打ちを食らったような顔をした。
自分の庇護下にあるはずの「無力な子供」が、初めて自分の意思で、自分の元を離れようとしている。
水指はここぞとばかりに介入した。
「直美様。これはハル様が『一人前の夫』になるための、良い機会かもしれませんわ。結婚生活を前に、彼が自立心を持てば、お二人にとってプラスになるのでは?」
「でも……!」
「それとも、直美様はハル様が一生、あなたのいないと生きていけない『無力な存在』のままでいてほしいとお考えですか? ……彼の成功よりも、ご自身の安心感を優先されると?」
痛いところを突かれ、直美が言葉に詰まる。
阿久津がトドメを刺すように言った。
「決めるのは本人だ。……どうする、ハル。一生飼い殺されるか、飢えた狼になって世界を獲るか」
ハルは一度だけ直美を見て、それから強く阿久津を見て頷いた。
「やります。一人暮らし、させてください」
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一時間後。
水指が用意した車に、必要最低限の荷物を持ったハルが乗り込んだ。
行き先は、水指が手配した都内某所のボロアパート『木枯荘』。築四十年の木造、風呂なし、共同トイレ。
タワーマンションでの優雅な生活から、一気に昭和の貧乏生活への転落だ。
「ハルちゃん……本当に大丈夫? お腹が空いたらすぐに連絡するのよ? お金ならこっそり振り込むから……」
車の窓越しに、直美が涙目で縋り付く。
だが、ハルの表情はどこか晴れやかだった。冒険に出かける少年のように、未知の世界への期待に目を輝かせている。
「平気だよ、ナオミさん。一ヶ月後、最高にロックな俺になって迎えに行くから」
車が走り出す。
直美はその場に立ち尽くし、遠ざかるテールランプを呆然と見送っていた。
彼女の腕の中から、最愛のペットが消えた。
その喪失感と、「自分の言うことを聞かなかった」という小さな裏切りへの戸惑い。
水指は直美の背後で、静かに口角を吊り上げた。
リードは切れた。
あとは、野に放たれた子犬がどう豹変するか。そして、飼い主が孤独に耐えられるか。
実験は、次のフェーズへと移行した。




